社会保険省
| 正式名称 | 社会保険省 |
|---|---|
| 英語名称 | Ministry of Social Insurance |
| 設置年 | 1927年 |
| 廃止年 | 1988年 |
| 本部所在地 | 東京都千代田区霞が関二丁目 |
| 前身 | 救済保険局、労働扶助院 |
| 所管 | 年金、医療、雇用保険、介護予備基金 |
| 関連法令 | 保険統合勅令、国民扶助調整法 |
社会保険省(しゃかいほけんしょう、英: Ministry of Social Insurance)は、の・・を一元的に管理するために設置されたとされるである。しばしばと混同されるが、成立の経緯にはの「保険統合勅令」が深く関わっているとされる[1]。
概要[編集]
社会保険省は、末から前期にかけて構想されたとされる、社会保障を統括するための中央官庁である。史料上はの外局として始まったが、のちに独立省へ格上げされたという経緯が語られている。
もっとも、実際にはの官僚たちが、保険料の徴収・給付・監査を一つの机で処理したいという極めて実務的な願望から生まれた制度であったともいわれる。特にの職員増員計画では、書類の綴じ穴の位置まで省令で定められたことが有名である[2]。
成立の経緯[編集]
社会保険省の起源については、のスペインかぜ流行後に設けられた臨時の「救済保険会議」に求める説が有力である。同会議では、・・の三者が互いに責任を押し付け合い、結果として「全部まとめて別の省にした方が早い」という結論に至ったとされる。
初代構想者としては、との名が挙げられる。渡辺は出身の衛生官僚、マクスウェルはの相互扶助制度を研究した保険統計家であり、二人がのホテル・ニューグランドで深夜まで給付表を突き合わせた結果、現在の原型ができたという逸話が残る[3]。
なお、省名に「社会」が入った理由は、当時のが「保険」という語だけでは税務と誤認されることを嫌い、より柔らかい印象を与えるために命名を主導したためであるとされる。ただし、命名会議の議事録には「国民に優しく見えて、実際は徴収しやすい名称」との一文があり、編集者の間でしばしば引用される。
組織[編集]
本省と外局[編集]
本省はの旧庁舎を改修して置かれ、内部は「年金局」「医療局」「雇用局」「監査局」の四局体制であった。特には紙の台帳を重視し、1940年代には職員一人あたり月平均での帳票を処理したと記録されている。
外局としてはとがあり、前者は地方病院への資金配分、後者は企業の未納対策を担当した。徴収監督署の制服だけ妙に立派で、の工場労働者から「税吏より怖い」と呼ばれていたという。
地方支局[編集]
地方支局はからまでか所設けられ、各支局には「窓口係」「給付査定係」「紛争鎮静係」の三係が置かれた。紛争鎮静係は、保険証を忘れた住民に茶を出して落ち着かせる役割を担ったとされるが、実際には茶菓子予算が年にも増加したため、後年しばしば批判された[4]。
制度の特徴[編集]
社会保険省の最大の特徴は、給付の迅速化よりも「申請の整合性」を優先した点にある。たとえばに導入された「三色判定方式」では、青は即日承認、黄は再確認、赤は調査対象とされたが、実務上は赤が最も多く、窓口の壁が真紅に見えたことから「赤い霞が関」と揶揄された。
また、保険料の算定には独自の「家計重心指数」が用いられ、世帯の炊飯回数、靴の修繕頻度、月末の味噌の残量まで加味された。これはの統計学者の提案によるもので、当初は革新的とされたが、猫を飼う家庭が有利になるという謎の偏りが判明し、1942年に一部改定された。
一方で、社会保険省は地方の無保険層を取り込むため、巡回車「ほけん号」を運行した。車体にはと赤い円環の意匠が描かれ、の山間部ではこれを見た住民が救急車と勘違いして走って集まったという。
歴史[編集]
創設期[編集]
の創設直後、社会保険省は内の工場労働者を中心に試験運用を開始した。初年度の被保険者数は、給付件数はで、うち約3割が「書類不備による保留」であったとされる。
この時期の省内では、年金と医療の区分が曖昧で、歯痛で申請した者が老齢給付の案内を受け取る事故が続出した。これを受けて、窓口担当のが「痛みの種類より紙の種類が重要である」と訓示した記録が残る。
拡張期[編集]
にはが制定され、農村部へも制度が拡張された。とりわけの寒冷地では、冬季に保険料を現金で納めることが難しかったため、米俵や干し柿での代納が一時的に認められたという。これは後に「物納三原則」として地方史に残った。
戦時期には、社会保険省はと役割が重複したことで統合論争を招いたが、最終的には「書類だけは独立させる」方式で凌いだとされる。なお、統合会議では省内の時計がすべて遅らされ、会議時間を短く見せる慣行があったとの証言もある。
再編と廃止[編集]
の制度改正で、社会保険省は給付中心から予防中心へ舵を切った。これにより、各地の支局では「運動奨励スタンプ」が配布され、月に以上歩いた高齢者には保険料の一部が還付された。
しかし、1980年代に入るとの導入をめぐって省内が分裂し、紙台帳派と端末派の対立が激化した。結局にへ再編され、社会保険省は消滅したとされるが、霞が関の旧本館地下三階には現在も「旧保険料台帳室」の扉が残っているという。
社会的影響[編集]
社会保険省は、近代日本における「加入していること自体が安心になる」という感覚を広めた点で大きな影響を与えたとされる。特にの全国一斉広報「あなたの月給の向こう側」キャンペーンは、新聞・ラジオ・銭湯の桶底広告を通じて浸透し、国民の制度理解率をからへ押し上げたという。
もっとも、副作用もあった。申請文化が過度に発達した結果、地方では「まず社会保険省に聞け」という言い回しが、事実上のたらい回しを意味する俗語になった。また、保険証の色を巡る地域差から、との一部で「青証・黄証論争」が起こったことは、今なお自治体史の小ネタとして知られている。
批判と論争[編集]
社会保険省に対しては、設置当初から「国家が国民の健康を管理しすぎる」との批判があった。一方で、実務担当者からは「管理しないよりは、管理してから悩んだ方がよい」という反論があり、制度哲学をめぐる論争は1940年代まで続いた。
また、に発覚した「空白年金問題」では、台帳の改訂ミスにより分の加入期間が丸ごと抜け落ちていたことが判明した。調査委員会は原因を「蛍光灯のちらつきと、経理室の空気の乾燥」と結論づけたが、この説明はさすがに無理があるとして現在も要出典扱いである[5]。
さらに、社会保険省のマスコット「ほけん坊」は、当初は温厚な熊のデザインであったが、徴収率向上のために表情をやや厳しくしたところ、子どもたちが泣くようになり、1968年に一度デザインが全面変更された。新デザインは「親しみやすいが領収書を要求してくる」と評された。
脚注[編集]
[1] 保険統合勅令に関する原内閣資料は一部欠損している。 [2] 綴じ穴の位置を定めた省令は、実際には保存用資料の体裁を整えるためであったとする説もある。 [3] ホテル・ニューグランドでの会合記録は、後年の回想録に依拠している。 [4] 茶菓子予算の増加率は、各支局の申告方法に差があるため推計値である。 [5] 空白年金問題の原因については、複数の調査報告が存在する。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『社会保険省創設史』霞関出版, 1964.
- ^ Helen R. Maxwell, The Administrative Convergence of Welfare Insurance, Vol. 12, No. 3, Social Policy Review, 1934, pp. 41-67.
- ^ 島本多聞『家計重心指数の理論と実務』東京統計学会, 1941.
- ^ 黒田たま『窓口行政と国民感情』中央官庁研究叢書, 1957.
- ^ Martin J. Ellery, “The Paper State and the Insurance Ministry”, Vol. 8, No. 1, Journal of East Asian Bureaucracy, 1972, pp. 5-29.
- ^ 『社会保険省年報 第17巻第4号』社会保険省官房, 1944.
- ^ 佐伯久志『霞が関地下三階の記憶』新都社, 1989.
- ^ Yoshiko Endo, “A Comparative Study of Colored Claim Forms in Japan”, Vol. 19, No. 2, Pacific Public Administration Quarterly, 1980, pp. 88-104.
- ^ 『保険料徴収監督署報告書集成』地方行政資料刊行会, 1939.
- ^ 田口美津子『あなたの月給の向こう側——社会保険省広報史』北斗社, 1971.
外部リンク
- 霞が関行政史アーカイブ
- 日本社会保障官庁研究会
- 旧社会保険省デジタル台帳室
- 保険統合勅令史料館
- 中央官庁紙文化資料センター