福岡類
| 分類 | 地域系統学・観測記録体系(体裁上) |
|---|---|
| 主な観測域 | 筑前〜筑後の一部沿岸、内陸谷筋 |
| 成立時期 | 1950年代後半〜1960年代前半(とされる) |
| 提唱者 | 福岡類調査委員会(旧)/ 加藤慎二郎 |
| 関連用語 | 類指数、兆候帯、照合簿 |
| 用途 | 現象の“読み替え”と記録の統一 |
(ふくおか るい、英: Fukuoka Rui)は、で観測されるとされた「類縁体系」の一種である。初出は昭和戦後期の観測記録とされるが、体系化はその後に急速に進んだとされる[1]。
概要[編集]
は、特定の地域で繰り返し観測される兆候を、同一の「類」として束ねるための記録上の体系であるとされる。表向きは民俗観測・衛生行政の補助指標に近い扱いを受けるが、実際には行政資料の言い換え文化と結びついて発展したと推定されている。
体系の核には「類指数」と呼ばれる数値化の仕組みが置かれている。類指数は、観測時刻・気温・風向だけでなく、記録係の筆圧や紙の繊維方向まで含む点が特徴であり、記録の“再現性”を高めるための工夫として語られる[2]。
歴史[編集]
成立の背景(“読み替え”が制度化された時代)[編集]
福岡類が生まれた契機は、戦後復興期における「通報文の統一」にあるとする説がある[3]。当時、の複数の出張所で異なる言い回しが用いられ、上級庁への報告が“解釈違い”を起こしたとされる。そのため、1958年に内へ設けられた「報告語彙整備班」が、現象を分類するための略記を求めたのが始まりだとする見方が有力である。
さらに、1959年の大雨のあとに「同じ場所で同じ種類の混線が起こる」という事例が相次いだとされる。班は、雨量よりも「報告が回ってくる順番」に注目し、観測現場からの“到達順”を並べた照合簿を作成した。この照合簿の最後尾にだけ書かれていた小さな注記が「福岡類」の語源であるとされるが、当該ノートが現存しているかは確認できないとされる(要出典扱いとなりがちである)。
福岡類の体系化(加藤慎二郎と“類縁図”)[編集]
体系化の中心人物として、記録整理官のが挙げられることが多い。加藤は、観測者ごとの癖が残る“紙面の差”を数値で補正するために、紙の繊維方向を方位に換算する独自の方法を導入したとされる[4]。当時の報告書には、繊維の角度を「7度刻み」で分類し、角度が一致すると“類縁”があると扱う手順が記載されたという。
1963年、(旧)が「類縁図」を作るための会議を開催した。会議資料には、類縁図の作成に必要な“最低観測点数”が「27点」と定められていたと伝えられる[5]。この27点という数字は、参加者のうち27名がそれぞれ1種類のメモ帳を持ち寄ったことに由来すると説明される一方で、実際には当時の保管箱の規格がちょうど27箱だっただけではないか、と後年に皮肉る人物も現れたという。
普及と変質(“自治体運用”としての定着)[編集]
1970年代に入ると、福岡類は学術的呼称から、行政運用の言い換え手段として広がったとされる。たとえば、衛生担当部署では「福岡類に該当する」と記すことで、原因究明を“先送りにできる”という効果があったと指摘される[6]。その結果、類指数が上がるほど対策が増えるというより、記録の扱いが増える方向へ制度が傾いた。
また、1981年頃から、類指数が“高いほど正しい”という誤解が広まったとされる。類指数は本来、相関の強さを示す暫定値であるにもかかわらず、住民への説明では「類指数=確定度」として用いられた。これが、後の批判の種となったとされる。
仕組みと用語[編集]
福岡類には複数の補助指標があるとされるが、その中心は類指数である。類指数は、観測時刻を午前・午後に分けたのち、風向を16方位に丸め、さらに記録帳の保管状態を「乾燥度 3段階」で割り当てると説明される[7]。表向きの計算式は公開文書で共有されているが、実務では現場の調整が加わるため、外部者が同じ結果を得るのは難しいとされる。
加えて、兆候帯という概念がある。兆候帯は、同一類に属する兆候の出現が「何日間の幅」で収まるかを示す帯のこととされる。福岡類調査の初期報告では、兆候帯の標準幅を「9日」と置いたという。これは、調査担当が9日間だけ休暇を取れた都合に合わせたのではないか、という噂もあるが、出典は曖昧である[8]。
照合簿は、複数部署の記録が同じ類に分類されているかを確認するための照合台帳である。照合簿には「訂正の痕跡が3か所以内なら同一類」といったルールがあったとされ、修正が多いと別類扱いになるという運用は、記録の“人格”まで分類するかのように見えると批判された。
具体的なエピソード[編集]
福岡類が“伝説化”した契機として、1984年の夜間巡回事例が挙げられる。そこでは、の港湾寄りで「夜霧が一度だけ薄くなる現象」が報告された。担当者は、霧の薄さを測る代わりに、街灯の光が砂利に反射する角度を視認し、角度の推定値を類指数に反映したという[9]。結果として、類指数が前日より「+2.3」上がり、上級庁は“類の転機”として扱うよう指示したとされる。
一方で、同じ現象が翌週には起きなかったため、住民からは「類指数を上げたから霧が止まったのでは」と笑い話が流れた。記録担当者は否定したものの、会議の席上で「類指数の増分は現象そのものではなく、解釈の更新に由来する」と言い換えてしまった。この発言が、後年の皮肉の引用元になったとされる[10]。
また、1992年には、の別部署で“類縁図のコピー品質”による分類誤りが発生したとされる。複写機のトナー濃度が薄く、類縁図の線が見えにくかったため、図の線幅を「0.6ミリ」前後として読み取り、別類として提出されたという。行政内部では「類は線ではなく関係性だ」と強調されたが、現場では「0.6ミリで人生が変わるならそれは線だ」と揶揄する声が出たという。
批判と論争[編集]
批判としてまず挙げられるのは、福岡類が“説明責任”よりも“記録統一”を優先した点である。類指数が上がることが必ずしも現象の確定を意味しないにもかかわらず、説明文においては確定的に読める書き方が増えたと指摘されている[11]。そのため、後の監査では「類指数の根拠が参照簿に埋もれており、追跡不能である」とされるケースもあった。
次に、数学化の過剰さが問題とされた。類指数に繊維方向や筆圧まで含める運用は、統計的妥当性を超えて“職人芸”化していたという評価がある。ただし擁護論としては、紙の状態は現象記録の品質に直結するため、むしろ合理的だとする声もある[12]。結果として、福岡類は「合理性の体裁」と「現場の慣習」が混ざり合った体系として論じられ続けた。
さらに、用語の誤用による混乱も論点となった。住民説明では「福岡類は危険度分類である」と誤って伝わった時期があり、類指数の上昇が不安を増幅したとされる。もっとも、その説明をした担当者が後に「危険度ではなく“物語の整合性”です」と言い換えたため、住民側の納得も揺れたという記録が残っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 加藤慎二郎『地方記録の言い換えと類縁図——福岡類の暫定体系』福岡地方公文書館出版, 1966.
- ^ 『福岡類調査委員会(旧)議事録集』福岡類調査委員会, 1963.
- ^ 中村玲奈「類指数の算出手順に関する実務検討」『地方行政資料研究』第12巻第3号, 1971, pp. 41-58.
- ^ 田中義朗「紙面条件を介した観測の再現性」『日本観測技術誌』Vol. 18, No. 2, 1974, pp. 99-113.
- ^ William H. Cartwright『Indexing Local Phenomena: A Comparative Note』University of Fukuoka Press, 1980, pp. 201-223.
- ^ 『監査報告書:分類体系の根拠追跡に関する点検』福岡県監査室, 1986.
- ^ Sato, K. and Muraoka, T. “On ‘Sign-Bands’ in Municipal Records” 『Journal of Administrative Interpretation』第5巻第1号, 1989, pp. 12-27.
- ^ 「福岡類と住民説明の齟齬」『月刊自治体運用レビュー』第7巻第9号, 1993, pp. 77-85.
- ^ Evelyn R. Whitcomb『Handbook of Folklore-Classifications』Oxford Quillgate, 1997, pp. 301-319.
- ^ 『福岡類の真贋判定——類縁図の線幅測定』福岡港湾技術協会, 2001.
外部リンク
- 福岡類アーカイブ
- 類指数計算機(復刻)
- 報告語彙整備班メモ文庫
- 福岡地方公文書館 目録検索
- 兆候帯・照合簿ギャラリー