禿山水悠
| 名称 | 禿山水悠 |
|---|---|
| 読み | はげやますいゆう |
| 英語表記 | Hageyama Suiyū |
| 分野 | 庭園設計・水理美学 |
| 成立 | 18世紀末頃 |
| 発祥地 | 武蔵国多摩郡周辺 |
| 提唱者 | 禿山景観研究会とされる |
| 主な材料 | 石灰岩、白砂、竹樋、浅層水路 |
| 特徴 | 乾いた崖と流れる水の対比を強調する |
| 関連制度 | 府中作庭規式 |
禿山水悠(はげやますいゆう)は、の後期に成立したとされる、石灰質の崖面に流水を縫わせて景観を整えるための作庭技法である[1]。の流域を中心に普及したとされ、のちに期の土木意匠にも影響を与えたとされる[2]。
概要[編集]
禿山水悠は、裸地化した丘陵や切土斜面に対し、人工の細流を複数段に分岐させて「山が自ら水を思い出す」状態をつくるとされた作庭技法である。名称は、地肌の露出した斜面を「禿山」と呼び、その上を滑るように流れる水の静けさを「水悠」と表現したことに由来するとされる[3]。
この技法は、単なる造園ではなく、年間の治水事業、寺社の境内整備、湧水路の保全が混ざり合って成立したと推定されている。一方で、初期資料の多くがの旧家で焼失したため、成立経緯については後世の復元が大きく、いくつかの研究者は「ほぼ半分は雅称、半分は工事帳簿」と指摘している[4]。
名称と語源[編集]
「禿山」は、もともとの採土跡や火入れ後の山腹を指す実務的な語であったとされる。これに対し、「水悠」は期の茶人・が記したとされる文献『水悠録』に見える語で、流れの緩やかな音色を「悠然としている」と評した表現から定着したという[5]。
ただし、語源には異説もある。の古老伝承では、最初の実験地が日照り続きで「禿げた山にしか見えぬ」と揶揄されたことから、施工責任者が逆にその俗称を採用し、対義的に「水悠」を添えて体裁を整えたとされる。この説はとされることが多いが、地元の石碑には妙に丁寧な筆致で同じ説明が刻まれている。
歴史[編集]
成立期[編集]
起源は、支流の氾濫後に行われた土留め工事に求められることが多い。普請奉行の補佐役であったが、崖面に導水管を通すのではなく、石を段々に組み「水を落とさず滑らせる」設計を採用したのが始まりとされる[6]。この試みは、豪雨時の土砂流失を4割近く抑えたとする帳面が残る一方、庭木の剪定に手間がかかり過ぎたため、近隣の百姓が「景気はよいが畑が見えぬ」と不満を漏らしたともいう。
江戸後期から明治初期[編集]
末期には、の町人文化と結びつき、寺社の裏手に設ける小規模な「見せ崖」が流行した。とりわけの材木商・が、毎朝7時に水量を1.8升ずつ変えることで観覧客の印象を操作した逸話は有名である。これがいわゆる「日替わり水筋」であり、後の広告演出の先駆けとみなす説もある。
になると、土木局の技師たちがこれを斜面緑化の研究対象とし、にはの外国人居留地外縁で試験施工が行われた。ところが英国人顧問が「水の流れが詩的すぎる」と評価したことから予算が増額され、逆に日本側の担当者が困惑したという記録が残る[7]。
大正から戦後[編集]
期には、都市公園の一部で「禿山水悠式」区画が採用され、初期にはの水道局が送水圧の分散装置として応用した。もっとも、これは景観より配管保護のためであり、のちの研究者は「美学が実務を追い越した珍しい例」とまとめている[8]。
戦後は、内の復旧工事や寺院庭園の修復に取り入れられ、の前後には外国人観光客向けに簡略化された「ハゲヤマ・ウォーターライン」として紹介された。なお、にの庭園職人が、これを逆輸入して屋上庭園に適用し、風で砂が飛ぶたびに「自然らしさが増す」と説明したが、周辺住民には単なる迷惑と受け取られたという。
技法[編集]
禿山水悠の基本は、①露出した斜面を意図的に残す、②上部から下部へ3〜5段の浅い水路を設ける、③水音が一定になり過ぎないよう石の配置を不均衡にする、の三点である。理論上は、流速を毎秒0.12〜0.18メートルに保つことで最も「悠」らしく見えるとされるが、実際には施工者の勘が大きくものをいう[9]。
また、白砂に含まれる粒径分布まで規定する「府中式七層規準」が知られ、上層は0.8ミリ、下層は2.4ミリ前後がよいとされた。ただし、雨天時にこの規準を厳密に守ると排水が間に合わず、結果として庭の一部が小規模な湿地になることがあるため、経験者は「三日晴れたら一割崩す」と言い習わしたという。
今日では、造園学のほか、、、観光演出の分野でも参照されることがある。もっとも、研究会の内部資料では「説明するときに難しそうに聞こえるほど受注率が上がる」と記されており、学術と営業の境界はしばしば曖昧であった。
社会的影響[編集]
禿山水悠の普及は、斜面の保全を「景観の改善」と言い換える行政文書の作法を生んだとされる。これにより、単なる土木補修が茶席の延長として説明可能になり、予算承認が通りやすくなったという[10]。
また、の一部自治体では、雨季の道路法面を一時的に禿山水悠風に整えることで、観光パンフレット上の写真映えを確保する施策が採られた。住民からは「花より石が多い」との苦情も出たが、イベント期間中の来訪者数は平均で2.7倍になったとされる。
一方で、過度に装飾化された事例では、実際の湧水路が見えなくなり、子どもが「山の中に隠し蛇口がある」と誤解するなど、教育上の問題も指摘されている。これがきっかけで、に系の報告書『景観水路の説明責任に関する試案』がまとめられたという。
批判と論争[編集]
批判の多くは、禿山水悠が「古典技法」と称しながら実際には中期の観光政策で再編されたのではないか、という点に向けられている。特にの比較民俗学者は、現存最古とされる設計図の墨が39年製の製図用インクと一致すると報告し、保存史料の年代比定に揺らぎを与えた[11]。
また、施工後の維持費が高いことから、1980年代以降は「文化財なのか、毎月の植栽契約なのか分からない」との批判も出た。これに対して擁護派は「手間がかかるからこそ水が尊い」と主張したが、その理屈が通るなら盆栽も高速道路も同じであるとして、議論は平行線をたどった。
なお、の東日本大震災後、一部の復旧現場でこの技法が「心の復旧」として紹介されたことには賛否が分かれた。被災地の安全確保と景観復元を同列に語るべきでないとの指摘がある一方、実際に見学会の参加者が増えたことは否定できない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松浦元斎『水悠録』府中書院, 1792年.
- ^ 渡辺精一郎「多摩斜面普請と禿山水悠の成立」『武蔵造園史研究』第12巻第3号, pp. 41-68, 1911年.
- ^ Charles W. Hargreaves, "Notes on the Suiyū Terraces of Eastern Musashi", Journal of Landscape Hydraulics, Vol. 4, No. 2, pp. 115-129, 1880.
- ^ 佐伯蘭子「禿山水悠図面の年代比定」『比較民俗と土木意匠』第7巻第1号, pp. 9-27, 1964年.
- ^ 内務省土木局編『景観水路試験報告書』内務省印刷局, 1881年.
- ^ 千川屋藤兵衛『見せ崖商売覚書』浅草商業史料館, 1839年.
- ^ 府中作庭研究会『府中式七層規準解説』府中学芸社, 1958年.
- ^ 山岸透『禿山水悠と都市公園の水音設計』日本造園学会出版部, 1976年.
- ^ 国土庁景観整備室『景観水路の説明責任に関する試案』, 1993年.
- ^ Hidaka, M. & Ellis, P. "Dry Hills, Slow Waters: Aesthetic Retention in Suburban Japan", Architecture and Hydrology Review, Vol. 9, No. 4, pp. 201-219, 2008.
- ^ 佐伯蘭子『石が先か、水が先か――禿山水悠の逆流史』東京水脈社, 2012年.
外部リンク
- 府中禿山水悠研究所
- 武蔵景観資料アーカイブ
- 日本作庭水理学会
- 多摩川沿岸文化財調査ネットワーク
- 景観水路保存連盟