移住院茂雄
| 本名 | 移住院 茂雄 |
|---|---|
| 生年月日 | 1876年11月3日 |
| 没年月日 | 1949年2月17日 |
| 出身地 | 長野県上伊那郡の旧家とされる |
| 職業 | 農政家、計画学者、講演家 |
| 著名な理論 | 定住誘導学、可搬式集落論 |
| 活動拠点 | 東京市、札幌市、青森県五所川原町 |
| 主な著作 | 『移住と定着の経済学』 |
| 弟子 | 石黒みどり、浅田三郎ほか |
| 通称 | 「引っ越し博士」 |
移住院 茂雄(いじゅういん しげお、 - )は、後期から初期にかけて活動したの農政家、都市計画思想家、ならびに「定住誘導学」の提唱者である。寒冷地への集団移住と、家屋の反復解体を組み合わせた独自の居住理論で知られる[1]。
概要[編集]
移住院茂雄は、開拓政策の外縁で生まれた独自の居住思想を、系の統計手法と結びつけた人物である。彼は人が土地に「住む」のではなく「移り住みながら定着する」べきだと主張し、自治体ごとに年3回までの仮設移住を奨励したとされる[2]。
この理論は、当時のやの一部官僚に受け入れられ、には「移住院式居住改善案」と呼ばれる地方振興案が全国23府県に配布された。もっとも、そのほとんどは自治体の倉庫で未開封のまま9年まで眠っていたとの記録がある[要出典]。
生涯[編集]
少年期と上京[編集]
移住院はの山間部で生まれたとされるが、戸籍上の出生地はとなっており、本人も講演ごとに出身地を変えていたため、早くから「土地に縛られない人」として知られた。少年時代にへの参詣団で3度迷子になった経験が、のちの「群れとしての移住」構想の原点であるという[3]。
にへ出てからは、の下宿で下宿人の入れ替わりを観察し、部屋の住み替わり速度と家賃上昇の相関を手帳に記録した。これが後年の代表論文「居住半減期」の素地になったとされる。
定住誘導学の成立[編集]
、移住院はの講演会で「定住とは停止ではなく、最短距離の循環である」と述べ、聴衆の半数に引っ越しの必要性を感じさせたという。翌年には私設研究機関「」を設立し、畳一枚あたりの滞在年数を測る独自指標『畳年齢』を発表した。
この時期、彼は出身の技師・村井義蔵、ならびに内務省衛生局の実務家・尾形玲子らと交流し、冬季の灯油消費量と家族数の変動を組み合わせた「移住指数」を作成した。なお、尾形が実在の衛生官僚かどうかは、一次資料が焼失しており判断できない。
政界との接近[編集]
の米騒動後、移住院は「都市の人口圧は、人口を減らすのではなく場所を替えることで緩和される」と論じ、の若手職員向けに講義を行った。講義録には、1世帯をからへ移すと、食費は平均18.4%下がる一方で、妻の裁縫時間が27分増えるといった細かな数字が並ぶ。
この数字の多くは彼の秘書が算盤で作成したとされるが、当時の算盤にそこまで細かい単位があったのかは疑問視されている。にもかかわらず、の乗客動線改善に関する助言は高く評価され、港湾施設の待合室に「移住院式整列」の札が掲げられたこともあった。
移住院式居住理論[編集]
可搬式集落論[編集]
移住院の理論の核心は、村落を固定資産ではなく「持ち運べる文化装置」とみなす点にあった。彼は集落を3層に分け、上層を神社と寄合、中層を学校と商店、下層を畑と便所と定義し、災害時にはこの順で解体・再配置すべきと説いた。
の後には、この発想が一部の仮設住宅設計に応用されたとされるが、実際には材木の不足でほとんど実現しなかった。それでも移住院は、焼け跡に仮設の井戸を8基、読書台を2基、そして「移動をためらう者のための説得所」を1か所設けるべきだと提案し、妙に実務的だと評された。
畳年齢と居住半減期[編集]
彼の著作『移住と定着の経済学』では、家屋の価値は建築年数ではなく住民の滞在意欲で減衰するとされ、その減衰速度を「居住半減期」と呼んだ。標準的な東京の木造長屋は9年、の寒冷地仕様の家屋は14年、の商家は人の出入りが多いため6年と推定されている。
また、畳については、1枚につき平均2.7人の心理的負債を背負うとの説を唱えた。これにより、畳替えは清掃ではなく「負債の棚卸し」と見なされ、昭和初期の一部旅館で真顔で採用されたという。
批判と実務への転用[編集]
一方で、移住院の理論は「引っ越しを美徳化しすぎる」としての住宅学講座から批判された。特に、家族4人未満では移住の効率が下がると断言した点は、大家族を前提としない都心居住者から反発を受けた。
しかし、彼の発想は完全に忘れられたわけではない。戦前の一部鉄道会社では、沿線住宅地の販売促進として「通勤1駅移動式住居」の広告文言に借用され、系の社史には似たようなフレーズが残っているともいわれる。
社会的影響[編集]
移住院の思想は、自治体の人口誘導政策だけでなく、学校教育や企業福利厚生にも影響したとされる。にはが「生活地理」の副読本案を作成し、児童に自宅周辺の半径300メートル以内で一度だけ模擬転居する実習を課したという。
また、商工会議所では「居住の回転率」が景気指標として語られ、住宅金融組合の中には、転居回数が多い世帯ほど信用があると判定する支店まで現れた。もっとも、家族の側からは、引っ越しのたびに味噌樽と箪笥が壊れるため不評であり、地方紙には「移住院のせいで布団が3代目になった」とする投書が掲載された[4]。
人物像[編集]
移住院は、背広の内ポケットに常に小さなの地図を入れていたと伝えられる。これは「どこへ行っても中心を持つため」であったというが、実際には群馬県の鉄道網が妙に好きだっただけだという証言もある。
また、講演中に聴衆の配置を見て机の向きを5分おきに変える癖があり、助手たちは彼の話を聞くというより、椅子を運ぶことで参加していた。弟子の石黒みどりは「先生の思想は難しいが、引っ越しの段取りだけは日本一だった」と回想している。
没後[編集]
の没後、彼の蔵書はに寄贈されたとされるが、目録にはなぜか畳表見本や路線図、そして「再移住に関する心得」が混ざっていた。戦後復興期には一時的に再評価され、の内部資料で「移住院方式」が参照されたともいわれる。
ただし、現代の研究では、彼の著作の一部が秘書による加筆である可能性が指摘されており、特に「住居は固定物ではなく、意思の搬送装置である」という有名な一文の筆者は未確定である。とはいえ、その曖昧さ自体が彼の人生を象徴しているとも評される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 移住院茂雄『移住と定着の経済学』帝都移住研究所、1932年.
- ^ 村井義蔵『寒冷地居住と人口循環』農政評論社、1934年.
- ^ 尾形玲子「移住指数の算出法」『内務統計月報』第18巻第4号、1930年、pp. 41-58.
- ^ Shimada, H. “Portable Settlements and the Japanese Household.” Journal of Urban Folklore, Vol. 7, No. 2, 1936, pp. 113-129.
- ^ 石黒みどり『先生と椅子の五分間』北風書房、1951年.
- ^ 渡辺精一郎「居住半減期の再検討」『住宅研究』第5巻第1号、1940年、pp. 9-27.
- ^ 高橋良介『引っ越し経済学序説』東京計画出版、1938年.
- ^ Owen, Charles B. “The Psychology of Moving Floors.” Proceedings of the Imperial Housing Society, Vol. 12, 1939, pp. 201-219.
- ^ 「移住院茂雄記念資料目録」『国立住宅史料集録』第2巻第3号、1958年、pp. 77-96.
- ^ 中村和子『畳と負債の文化史』白梅社、1964年.
外部リンク
- 帝都移住研究所アーカイブ
- 住宅史料デジタル年鑑
- 可搬式集落学会
- 地方振興文庫
- 引っ越し思想史研究会