空白の13秒
| 名称 | 空白の13秒 |
|---|---|
| 別名 | 十三秒の空隙、欠時事件 |
| 時代 | 紀元前4世紀末からヘレニズム初期 |
| 地域 | 地中海東岸、メソポタミア、エジプト |
| 原因 | 改暦儀礼、宮廷時計の遅延、占星術上の忌避 |
| 影響 | 年号の再編、儀礼時間の標準化、年代記の改訂 |
| 主要人物 | デメトリオス・オブ・ハルカルナッソス、マリク・イブン・ナディール |
| 記録媒体 | パピルス、粘土板、石碑 |
| 後世の評価 | 歴史学と儀礼学の境界事例として扱われる |
空白の13秒(くうはくのじゅうさんびょう)は、末のにおいて、暦の改暦と宮廷儀礼の調整をめぐって発生したとされるである[1]。後世には系の年代記と系の天文記録の齟齬を説明する概念として広まったとされる[2]。
概要[編集]
空白の13秒は、前後に沿岸の諸都市で「ある瞬間だけ時刻が記録から抜け落ちた」とされる出来事を指す用語である。のちにの写本整理において再発見され、期の年代学者が体系化したと伝えられる[3]。
この概念は、実際には複数の地域で残された「同じ夜の異なる時刻」を整合させるために生まれた学説であるが、後世の注釈家がこれを一つの事件としてまとめたため、あたかも時間そのものが13秒だけ失われたかのように語られるようになった。特に派の自然学者との暦師が対立したことが、伝承をいっそう劇的にしたとされる[4]。
成立の経緯[編集]
起源は初頭、の王室文書官であったソステネスが、儀礼開始時刻を示す砂時計の落下に「妙な遅れ」があったと記したことに求められる。ソステネスは後の注釈で、当該の遅延が13秒であったと断定したが、原文では単に「ひと握りの砂が止まった」としか書かれていない[1]。
一方で、の神殿記録では同じ夜に星の出現が13拍ぶん遅れたとされ、これを受けた系の書記団が「空白の13秒」という表現を採用したとみられる。もっとも、拍の長さが地域によって異なるため、後代の編者が秒単位に換算したことには強い異論もある[2]。
時間が消えたとされた夜[編集]
宮廷の松明と水時計[編集]
最も有名な伝承では、の宮廷で行われた改暦式の最中、松明の火勢が三度弱まり、その都度の滴下音が止まったという。宮廷付きの記録官パナイティオスは、儀式の進行が「13秒ばかり沈黙した」と記したが、同席した楽師団はその間を「一節半の休符」と認識していたとされる[5]。
港湾都市の証言[編集]
沿岸の商人たちは、この空白のあいだに荷役の号令が一斉に遅れたと主張した。とくにの塩商人ベレニケ家の帳簿では、荷揚げ量が通常より7樽少なく記録されており、のちに「その7樽は空白の13秒のあいだに未計上で消えた」と解釈された。ただし、単なる記帳ミスである可能性も高いとする説が有力である[6]。
占星術師の解釈[編集]
占星術師マリク・イブン・ナディールは、この現象をの位相が宮廷の測時器に干渉した結果であると論じた。彼は特に、13秒という数値が「不吉な13」と結びつくのは後世の俗信にすぎないとしつつ、なぜか自著『欠時論』の第13章だけを極端に詳しく書いたため、弟子たちのあいだで軽い混乱を招いた[7]。
歴史的背景[編集]
空白の13秒が広く語られるようになった背景には、期に進んだ標準時の必要がある。都市ごとに日の出・日没を基準とする計時法が異なっていたため、同じ出来事でもでは「午前三刻」、では「夜半過ぎ」と記され、後代の編者はこの差異を統一する必要に迫られた[8]。
また、の学術サークルでは、王権の正統性を示すため「儀礼の継続性」が重視されていた。そこで、ある式典が一瞬途切れたことを認めるより、13秒の空隙を神聖な間として再定義するほうが都合がよかったとされる。この再定義が、政治的にも宗教的にも広く受け入れられた。
史料と記録[編集]
主要史料としては、、、および第41巻第2号に相当する粘土板群が挙げられる。なかでもベレニケ文書には「十三息の沈黙」という表現があり、後世の翻訳者がこれをそのまま13秒に換算したと考えられている[9]。
一方で、時代の写本では「13秒」の数字が削られ、代わりに「ひとしずくの間」と書き換えられている。これは、ローマ法廷で秒単位の停止を認めると税務記録全体に影響が及ぶため、検閲が入ったという説があるが、裏づけは乏しい[10]。
社会的影響[編集]
この概念は、後のやの暦学にも影響を与え、宮廷儀礼の前に必ず「無音区間」を置く慣習を生んだとされる。とくにの書記院では、重要文書の冒頭に13個の空白を設ける書式が採用され、これが「欠時の書法」と呼ばれた[3]。
また、民間では13秒のあいだに願いごとを唱えると叶うという俗信が広まった。これを利用した巡礼商人たちは、砂時計を13秒だけ止める小型の真鍮器具を販売し、初期には年間およそ3,200個が流通したと推定されている。なお、この数字はある帳簿の破損箇所から逆算されたもので、信頼性には疑義がある。
研究史・評価[編集]
19世紀の大学では、空白の13秒を「時間感覚の政治化」とみなす研究が盛んになった。特にヴァルター・クラインハウスは、13秒の実在性を否定しつつ、否定できないほど多くの記録が残ること自体を歴史現象と捉えたことで知られる[11]。
20世紀以降は、史と儀礼史の交差点として再評価されている。もっとも、現代の研究者の間でも「秒」という単位をの記録に適用するのは時代錯誤であるとの指摘が根強く、学会では毎年のように同じ論争が繰り返される。この反復そのものが、空白の13秒の文化的生命力を示しているともいえる。
遺産[編集]
今日では、空白の13秒はにおける「記録の空白」を象徴する事例として扱われる。博物館展示では、止まったままの水時計、割れたパピルス、そして13秒分だけ空欄になった石板の拓本が並べられ、来館者はほぼ例外なく「本当に何かあったのでは」と感じるという。
また、の古書店街では「十三秒の本」を意味する青い票紙が、重要書目の予約券として今も用いられている。起源は不明であるが、空白の13秒がもたらした「わずかな遅れを神秘化する文化」の名残と考えられている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ ソステネス『王宮記録における十三息の沈黙』エジプト王室文書局, 紀元前287年.
- ^ P. L. Athenaios, "The Blank Thirteen Seconds and Court Ritual", Journal of Hellenistic Chronology, Vol. 12, No. 4, 1928, pp. 201-244.
- ^ マリク・イブン・ナディール『欠時論』ダマスカス天文院出版部, 812年.
- ^ H. C. Feldmann, "On the Temporal Lacunae of Antioch", Proceedings of the Royal Society of Antiquarian Studies, Vol. 8, No. 1, 1874, pp. 33-59.
- ^ ベレニケ・アル=サーリフ『空白の13秒と港湾会計』ティルス商業文庫, 1042年.
- ^ 伊東清治『ヘレニズム暦法と欠時の政治学』東京古典学会, 1963年.
- ^ M. R. Dervin, "Thirteen Seconds Without a Shadow", Transactions of the Institute for Comparative Time Studies, Vol. 21, No. 3, 1979, pp. 88-119.
- ^ ヴァルター・クラインハウス『時間の空白をめぐる歴史意識』ベルリン年代史叢書, 1908年.
- ^ A. N. Qasim, "The Scribal Fissure in Berenike Fragments", Middle Eastern Philology Review, Vol. 15, No. 2, 1956, pp. 145-170.
- ^ 『バビロニア天文日誌断簡集 第41巻第2号』ニネヴェ文献刊行会, 141年.
- ^ サミュエル・T・ウェイド『十三秒の都市史』ロンドン時間文化研究所, 2001年.
外部リンク
- 古代時間史研究会
- 欠時文書アーカイブ
- 地中海年代学データベース
- アレクサンドリア写本研究所
- 空白の13秒博物館