第ゼロインターナショナル
| 名称 | 第ゼロインターナショナル |
|---|---|
| 略称 | ZI |
| ロゴ/画像 | 黒地に金の「0」を配した紋章(会報の表紙で使用されたとされる) |
| 設立(設立年月日) | 1927年11月3日 |
| 本部/headquarters(所在地) | ドイツ・ベルリン(ティーアガルテン地区) |
| 代表者/事務局長 | 事務局長: ルートヴィヒ・ヴァイスマン(1931年時点) |
| 加盟国数 | 36 |
| 職員数 | 約214名(専従職員、1933年の内部名簿による推計) |
| 予算 | 1932年度: 6,480,000ライヒスマルク |
| ウェブサイト | ZIアーカイブ(架空) |
| 特記事項 | 名称は「社会主義インターナショナル」との区別を意図したとされる |
第ゼロインターナショナル(だいゼロいんたーなしょなる、英: Zero International、略称: ZI)は、各地のファシスト運動を国際的に統一することを目的として設立されたである[1]。設立。本部はに置かれている[2]。
概要[編集]
第ゼロインターナショナル(ZI)は、枢軸国の発生前夜において、各地で拡大していたファシスト運動を「統一規格」として束ねるための国際機関として設立された。設立当初は政治思想の宣言というより、党組織運営・宣伝技術・青年団の動員様式を相互に移植することを活動の中心として活動を行っていた。
組織名の「第ゼロ」は、当時すでに知られていたと見分けを付けるための工夫とされる。もっとも、少数の内部文書では「ゼロは“起点”ではなく“破棄”を意味する暗号であった」との指摘があり、同機関が掲げた統一理念は実際には段階的に書き換えられていたとも推定されている[3]。
ZIは理事会・総会・決議の形式を整え、加盟国としては欧州に加えて中東や南米の支援団体までを含める形で加盟国を拡大していった。ただし、公式には「思想の輸出は禁止され、運営の技術のみを担う」とされていた一方で、実務上はシンボルや行進曲の改変までが細かく管轄されていたとされる。
歴史/沿革[編集]
前史—“統一規格”をめぐる工作[編集]
ZIの前身は、1926年にフランクフルトの倉庫会合で始まった「宣伝仕様委員会」とされている。会合はの外縁にある印刷工場の控室で、参加者が「ポスターの余白率は何ミリか」「街頭演説は何拍で終えるか」まで議論したと伝えられている。この段階では国際機関というより、通信網の共同運用を所管する“連絡班”に近かったとされる。
その後、1927年のベルリンで開かれた会合で創設が宣言され、同年11月3日に設置法のような体裁で「通達第0号」が決議された。通達第0号は「統一の外形だけを採用する」ことを謳っていたが、実際には青年団の制服色、出版物のフォーマット、党員台帳の項目数(合計19欄)が統一され、運営されるようになったと記録されている[4]。
ナチス台頭と弾圧、そして“表向きの解体”[編集]
1931年頃から、ドイツ国内でが急速に台頭し、ZIの活動内容が「二重管理」として問題視されるようになった。これに対応するためZIは、1932年度の予算を前年度比で17.6%圧縮し、「訓練と連絡のみに限定する」との決議を行って活動を行っていたとされる。
しかし1933年以降、ZIの文書は複数の地域で没収され、事務局は“外部団体との連携機関”に衣替えしたと推定されている。ある内部監査報告書では「解体は現象であり、管轄の中心は地下へ移された」との文言があり、なお本部がに置かれていると報じられた時期と矛盾する指摘もある。このことから、ZIは公式には縮小したが、実務上は秘密裏に人員と資材が運営され続けたともされる。
組織[編集]
第ゼロインターナショナルは理事会と総会の二層構造で運営されるとされ、理事会が加盟国の“運営技術”を審査し、総会が年次の決議を採択する形が採用された。総会は原則として年1回開催され、決議案の採択には投票数ではなく「承認票の一致率(目標: 92.0%)」が重視されたと伝えられている[5]。
主要部局としては、(1)宣伝設計部、(2)組織整備部、(3)青年動員研究所、(4)出版・規格監査局、(5)国際連絡室が置かれていたとされる。宣伝設計部は図像の明度基準を「白の反射率70%以上」として分担し、出版・規格監査局は印刷用紙の繊維長まで検査したとされるが、一次資料の信憑性には揺れがある。
なお、ZIは所管の都合により、各国の政治組織に対して直接の指令を出すのではなく、傘下の“教育ネット”を介して運用する方針を掲げていたとされる。形式上は「思想ではなく運営手順を担う」の外局であるが、実態は人事の照合・資金の流れの整流まで含めて分担されていたとの指摘がある。
活動/活動内容[編集]
ZIは統一規格の実装を目的として活動を行っている。具体的には、(a)党集会の進行台本(標準台詞数は計214行とされる)、(b)街頭配布物の分量計画(1人あたり配布“単位束”を7束に規定)、(c)青年団の訓練メニュー(週次で4プログラム)などが、加盟国へ配布される運用書としてまとめられたとされる。
また「象徴の統一」をめぐる作業が細かく管轄された。たとえばZiの文書では、統一の起点となる“0”の字体を「円弧の連続角度が360度になるように」と指定したほか、旗の縮尺に関して「横: 縦 = 5:3」などの比率が示されたとされる。この点は、過度なまでの事務的統制として一部で批判的に語られることがある。
さらに国際連絡室は、ベルリンを結節点としてなどの都市に連絡員を配置したと推定されている。配属は同時に「6名×8班=48名」のように段階的であったとされ、記録には“連絡員の誤送率を年間0.8%以内”とする目標まで記されていたという[6]。
財政[編集]
ZIの財政は分担金を中心に組まれており、加盟国は現金と現物(印刷用紙、会場確保、通信費)を組み合わせて拠出することが求められた。1932年度の予算は6,480,000ライヒスマルクであるとされ、支出内訳は「事務局運営 31%」「印刷・配布 44%」「教育ネット 19%」「予備費 6%」であったと報告されている[7]。
職員数は専従で約214名、兼務を含めるとさらに膨らんだとされる。内部の人事規程では給与表の等級を12段階として、事務局長の待遇を“年額換算で173,500ライヒスマルク”とする文書が残っているとされるが、当時の物価水準との整合から、誇張ではないかという疑義もある。
資金の流れは「表向きの教育助成」を名目に所管の外で回す設計が採られたとされ、監査局が四半期ごとに帳簿照合を行って運営される形をとった。なお、1933年以降は弾圧に伴って銀行口座が凍結され、資金の一部が“海外の文化基金”に偽装された可能性が指摘されている。
加盟国[編集]
ZIが加盟国として扱った地域は36に及んだとされる。ここでいう加盟国は国家単位に限られず、当時の政治的実務に近い形で連絡可能な団体を含む広い概念で運用されたと推定される。
加盟国の中心は欧州であり、ドイツ、オーストリア、イタリア、ハンガリーなどが早期に参加したとされる。これらの国では、ZIが掲げる制度運営の指針が「対外広報の共通言語」として用いられた一方で、各国の国内事情によって活動の強度は調整されたとされる。
また、北アフリカや中東にも“連絡員経由の協力”という形で接続があったとする記述がある。もっとも、資料の欠落により実数の確定は難しいとされ、加盟国数の36という数字も「総会の出席名簿に基づく集計」として説明されているが、名簿の作成時期に揺れがあると指摘されている。
歴代事務局長/幹部[編集]
事務局はZIの中枢であり、事務局長が事務局の運営を担うと定められていた。歴代事務局長としては、設立直後のハンス・クライン(1927年-1929年)、組織統一を推進したルートヴィヒ・ヴァイスマン(1931年-1933年頃)、その後の“暫定”責任者としてエマ・シュトローム(1933年-1934年とされる)が挙げられることがある。
幹部は職能で区分され、たとえば青年動員研究所の所長としてヨーゼフ・ランゲ(カリキュラム策定を担当)、出版・規格監査局の局長としてマルグリット・ヴェルナー(フォントと紙厚の規格統制を担当)などの名が、断片的な名簿で確認できるとされる。ただし、弾圧の時期に記録が失われた可能性があり、人物の実在性をめぐる疑義もある。
なお、幹部会議は理事会の下部で行われ、分担金の配分や、決議案の文言修正に関して議論されたとされる。ある会議録では「“第ゼロ”の表記を統一するか否か」が争点になり、最終的に“ゼロは必ず斜体”と決められたと報じられている。この種の細部へのこだわりが、のちに過剰な事務官僚主義として風刺された一因ともされている。
不祥事[編集]
ZIでは内部不正が複数回指摘されている。もっとも深刻とされるのは、1932年の「印刷紙ショート事件」である。宣伝設計部が調達したはずの用紙の一部が、第三者の倉庫で再ラベル貼り替えされていたことが発覚したとされ、監査局は“現物照合の一致率が83.3%に留まった”と報告した[8]。
また、国際連絡室では郵便の誤送が頻発し、ベルリンから宛ての定期便が数回だけに到達してしまったという。誤送は「一度だけ暗号キーが入れ替わっていた」との噂まで広がり、暫定責任者のエマ・シュトロームが調査に乗り出したとされるが、最終的な責任の所在は曖昧なまま終わったと伝えられている。
さらに、1933年の弾圧局面では、ZIが“地下資金”を作るために傘下教育ネットの口座を複線化していたとされ、表向きの会計と実際の会計が乖離していた点が問題視された。これにより、理事会は決議として「外部への説明責任を負わない」方針を掲げたとされるが、同時に内部からは「説明責任を免れるための決議は、むしろ証拠を残す」との異論もあったとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Eberhard Falk『第ゼロインターナショナルの会報と規格統制』シュパーレン出版社, 1962.
- ^ Margaret A. Thornton『Transnational Movement Administration, 1919–1936』Oxford University Press, 1987.
- ^ ルートヴィヒ・シュルツ『黒い「0」の書式史』ベルリン文庫, 1974.
- ^ Hans W. Klein『The Zero Distinction: Ideology vs. Operations』Cambridge Historical Monographs, 1991.
- ^ Renato Gallo『印刷物の余白と政治動員:ヨーロッパ事務官僚制の研究』ナポリ大学出版局, 2003.
- ^ Åsa Nyström『Youth Mobilization Manuals and Their Hidden Standards』Stockholm Academic Press, 2009.
- ^ Ibrahim El-Sayed『Mail Routes and Ciphers in Interwar Europe』Levant Institute of Studies, 2016.
- ^ “ZI Internal Audit Report (Draft)”『ZIアーカイブ資料集 第3号』編集: Clara Schmidt, 非売品, 1932.
- ^ ジョルジョ・ビアンキ『国際決議の作法と例外規定』リソルジメント社, 1958.
- ^ Mikhail Petrov『Budget Mechanics of Underground Affiliations』Journal of Political Accounting, Vol.12 No.4, 1940.
外部リンク
- Zero International Archive Portal
- Berlin Memoranda Collection
- Interwar Propaganda Standards Database
- Youth Mobilization Curriculum Index
- Ciphered Mail Route Project