第一回蒼黒歌合戦
| 通称 | 蒼黒歌合 |
|---|---|
| 開催年 | 1907年(第一回) |
| 開催地 | ・周辺(会場は転々としたとされる) |
| 形式 | 前半:即興詠唱/後半:採点付き歌論 |
| 主催 | 蒼黒和歌振興協議会(設立時の名称は複数説) |
| 参加区分 | 蒼組・黒組(衣装色で判定されたとする記述あり) |
| 評価基準 | 韻律・色彩暗示・比喩の“反応時間” |
| 特徴 | 判定が文面ではなく鐘の回数で示されたという伝承がある |
第一回蒼黒歌合戦(だいいっかい あおぐろ うたがっせん)は、日本各地の“蒼”と“黒”の美意識を競わせたとされるの歌会形式の競技イベントである。記録によればに始まり、その後の大正期の言葉遊戯文化に影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
第一回蒼黒歌合戦とは、蒼(青の透明感)と黒(墨の深度)をめぐる美意識を、和歌・短歌・即興の詠唱によって競わせた催しであるとされる。とりわけに“感覚の遅延”を導入した点が特徴で、当時の評論家の間では「詩は声ではなく時間で鳴る」とまで語られたという[2]。
成立の経緯については、末期の都市改造に伴う“墨職人の失職”と、それに対する若手文芸団体の救済構想が関係したとする説が有力である。なお、公式記録は断片的に残されており、最初に名乗った主催団体の名称は「蒼黒和歌振興協議会」と「蒼黒歌芸振興連盟」が混同されていると指摘されている[3]。
成立と運営の仕組み[編集]
蒼組・黒組の分岐基準[編集]
蒼組は“蒼の語を詠み込む回数”よりも、比喩が聞き手の脳内で色を発火させる速さ(反応時間)を重視したとされる。一方黒組は、墨の匂いを想起させる語彙(湿り・粘り・沈澱)を一定数含むことで加点されたと記録される。さらに、衣装の色そのものは「目に優しい青」を蒼、「夜に耐える黒」を黒として規定したという[4]。
この基準は“色の説得”を競う趣向であり、文学者だけでなく、に関わる官吏や印刷所の書記も審査補助に回ったとされる。地方の参加者が衣装を準備できない場合、代替として「家の戸棚にしまわれた古い布」を申告させたとされ、提出布の記録が現存しているというのは、かなり細かい伝承として知られる[5]。
鐘の回数で示される勝敗[編集]
当日の勝敗は、審査員が下す“文章”ではなく、会場中央のの回数で告げられたとする証言がある。第一回では、蒼組が先行して詠唱した直後にの鐘が鳴り、そののち黒組にも鳴ったために、観客が途中で拍手のリズムを変えたという記録が引用されることがある[6]。
また、鐘の担当係として「音程計測師」の職が置かれたとされるが、その正式名称は当時の文書により揺れており、「第三高等書記局 音程係」「鐘響監理補」といった表記が混在している[7]。この揺れが、後年の“歌論が鐘に負ける”という批判を生む温床になったとみなされている。
採点基準:韻律×比喩×反応時間[編集]
採点は三要素の積で計算されたとされ、韻律点(最大30)、比喩点(最大40)、反応時間点(最大30)が合算される方式だったという。反応時間点は、詠唱後に観客が小声で“うなずいた回数”として計測された、とする説がある。実際に第一回の会場では、観客用の小さな札が配られ、札が鳴らされた回数を係員がだけカウントしたとされる[8]。
ただし、当時の新聞欄では「うなずきは恣意的」として異論も見られ、第二回以降では反応時間を“舞台係の見立て”から“記録用の手拍子リズム”に移行したと推定されている。この移行の背景には、記録装置の不足があったとされ、地方の参加者が来られない理由として「鐘より速い反応ができない体質」を挙げたという冗談が残っている[9]。
歴史[編集]
都市の改造と“墨”の政治[編集]
蒼黒歌合戦が生まれた背景として、都市再編期における職能の再編が挙げられることが多い。たとえばの製紙・印刷系の取引では、販路の縮小により“墨の職人”が別業へ転じる流れが起き、余剰の道具が文芸サークルに流入したとされる。そこで若手の歌人が「墨は沈むのではなく、言葉として沈黙に変換できる」と主張し、蒼(透明)と黒(沈黙)を対置する枠組みが整えられたという[10]。
ただし、この説明は後年の編纂者が“政治”の単語を過剰に補った可能性が指摘されている。一方で、会場準備の名目で徴用された建物の一覧には、の行政区分に対応する記載があり、完全な民間イベントではなかったことを示す材料として扱われている[11]。
参加者と舞台裏の細部[編集]
第一回の参加者数は、資料により、あるいはと揺れている。とはいえ、当日の控室として指定された座敷がで、各部屋の“温度”を測る係がいたという点は共通している。温度管理は不自然に見えるが、「墨の沈着は温度に反応する」という民間知が採点の前提として持ち込まれたとされる[12]。
さらに、当日配布された進行台本には、詠唱者が入場する際の“足音の摩擦”を記録する欄があるとされる。記録欄の字面は「擦過度」とあり、係員が畳の継ぎ目に注目したとされるが、これが“黒組優位”の根拠として利用されたのは、かなり皮肉であると評されてきた[13]。
社会への波及:言葉の競技化[編集]
第一回蒼黒歌合戦は、文芸が“読むもの”から“競うもの”へ変わる契機だったと語られている。特に、採点が言語的評価だけでなく時間的・感覚的評価を含んだことにより、のちの以前の“音のイベント”文化の下地になったとされる。地方の新聞は「歌が球技のように点数で動く」と表現したが、これは誇張の可能性があるものの、当時の人々が新しさに反応したことは示唆される[14]。
また、この大会の方式が、のちの広告文の作法に影響したとする論考もある。たとえば「反応時間点」を応用して、宣伝の文言が読者の“視線の戻り”に与える影響を測る風潮が広まったという。しかし、測定が恣意的になりやすいことから、批判も同時に蓄積したとされる[15]。
批判と論争[編集]
批判は主に二方向から生じた。第一に、鐘の回数と“文章の説得力”が一致しない場面があったためである。ある観客は「詠唱が巧みなのに鐘が少ない」ことを不満として記し、審査の透明性が欠けていると主張したという[16]。
第二に、反応時間点の測定が身体の癖に依存しうる点が問題視された。特に、拍手やうなずきができない高齢者・聴覚障害の可能性がある参加者が不利になるのではないか、という指摘が後年の随筆で言及されている。もっとも、当時の運営側は「沈黙も反応である」と返答したとされ、沈黙をどう数えるかが結局のところ曖昧だったと論じられた[17]。
さらに、名目上は“詩の競技”であったにもかかわらず、会場の一部で政治団体の勧誘チラシが混入した可能性が報告されている。第一回当日の混入物はとされるが、そのうちだけが当時の官報に掲載された広告の文体と酷似しており、偶然か組織的かで議論が続いた[18]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯倫治『蒼黒歌合戦と時間審査の発明』蒼黒学会出版, 1912.
- ^ マリアンヌ・ホール『Sound and Silence in Early Modern Japanese Competitions』Kyoto Folio Press, 1933.
- ^ 渡辺精一郎『鐘が勝つ短歌:第一回の誤読史』文政書院, 1921.
- ^ 小泉真鍳『反応時間点の測定法(試案)』東京府印刷局, 1910.
- ^ H. K. Thompson『A Comparative Study of Poetic Scoring Systems』Vol. 4, The International Journal of Aesthetics, 1951.
- ^ 松平淡雪『墨の透明論と蒼黒美学』帝都和歌叢書, 1909.
- ^ 柳田鴎雲『神田の印刷街と歌会の政治学』神田史料館叢書, 1978.
- ^ Etsuko Narita『Color Metaphors in Pre-Radio Japanese Culture』Tokyo Academic Review, Vol. 12, No. 3, 1989.
- ^ 田中朔『第一回蒼黒歌合戦“正”記録の復元』新潮和歌研究社, 2004.
- ^ J. R. Calder『The First Aoguro Utagassen: A Note』The Blue-Black Studies Bulletin, 第1巻第1号, 2017.
外部リンク
- 蒼黒資料アーカイブ
- 反応時間点計測記念館
- 鐘響監理補コレクション
- 神田印刷街ことば博物展示
- 蒼黒歌合戦研究会フォーラム