第一次徳庵会戦
| 正式名称 | 第一次徳庵会戦 |
|---|---|
| 別名 | 徳庵封鎖事件、徳庵水路会戦 |
| 時期 | 1908年7月 - 1908年8月 |
| 場所 | 大阪府東成郡徳庵村周辺 |
| 原因 | 貨物線用地をめぐる測量誤差と茶葉保税倉の発見 |
| 結果 | 臨時通行許可制の導入と、後年の河岸帯再編 |
| 関与組織 | 鉄道院、内務省大阪土木出張所、徳庵会戦対策協議会 |
| 死傷者 | 負傷者14名、行方不明2名(再集計で0名とする説もある) |
| 影響 | 都市防災訓練、駅前商業圏の形成、会戦記念茶の流行 |
第一次徳庵会戦(だいいちじとくあんかいせん)は、の一帯で起きたとされる、近代日本における最初期の「会戦型」都市封鎖事案である。末期の鉄道敷設と河川改修を背景に発生し、のちに軍事史・都市計画史・茶道史の各分野で異なる意味を与えられた[1]。
概要[編集]
第一次徳庵会戦は、の敷設計画と支流域の改修工事が同時進行したことで発生したとされる、半ば軍事演習、半ば住民協定の性格を持つ事件である。名称に「会戦」を含むが、実際には銃砲の使用を主眼としたものではなく、測量杭の移設、渡し舟の停止、茶商による補給遮断の三層からなる奇妙な都市封鎖として記憶されている[2]。
当時のでは、鉄道用地の買収に関する紛争が各地で発生していたが、徳庵では工事側が誤って由来の湧水路まで囲い込んだため、近隣の製茶問屋と炊き出し組合が連合し、事態は短期間で「会戦」と呼ばれる規模に拡大した。なお、後世の研究では、最初に「会戦」と表現したのは地方紙の記者ではなく、現場に居合わせた荷車組合の帳簿係であったとの説が有力である。
背景[編集]
鉄道敷設と測量誤差[編集]
末、は徳庵周辺に貨物待避線を設ける計画を承認したが、当時の地図では旧河道と畑地の境界が1尺8寸ほどずれて記載されていた。このずれが原因で、工事用の木杭が三回にわたり同じ溝へ打ち込まれ、近隣住民からは「杭が帰ってくる」と恐れられたとされる[3]。
地元の土木請負人・は、ずれを修正するために夜間測量を実施したが、その際に貨車用の標識灯が沿いの茶倉庫に反射し、倉庫の所有者がこれを軍事信号と誤認したことが、騒動の直接の引き金になったといわれる。
茶商連合の結成[編集]
徳庵周辺には、期に輸送を担った小規模な茶商が多く、彼らは水路と土蔵を共有する独特の流通網を持っていた。工事に伴う水路閉鎖は彼らの荷さばきに致命的であったため、の下部組織である「徳庵荷受改進会」が結成され、会戦の補給線を逆に握ることになった。
この改進会は、茶箱ではなく空のを鳴らして警報を発する方式を採用し、後に「徳庵鐘」と呼ばれる奇妙な打楽器文化を生んだ。これが内の祭礼囃子に転用されたため、事件は治安問題であると同時に民俗音楽の起点としても語られるようになった。
会戦の経過[編集]
7月の第一衝突[編集]
7月14日未明、工事監督所が仮設柵を延長したところ、徳庵側の荷車八台が進路を失い、橋詰めで立ち往生した。これを見た監督補佐のは、英国式の「秩序ある退避」を命じたが、日本側通訳がこれを「全車両の撤収」と誤訳し、双方が同時に動いたことで会戦が始まったとされる[4]。
このとき用いられた「戦術」は、竹箒による境界線の可視化、味噌樽の転がし込み、そして駅弁の販売停止であった。特に駅弁停止は効果が大きく、現場周辺の人員の約43%が昼食を失い、午後には無意味な撤収と再進入が11回も繰り返された。
水路封鎖と臨時渡船[編集]
8月に入ると、工事側は水路封鎖によって荷車の再進入を防ごうとしたが、住民側はこれに対抗して廃材で臨時渡船を作り、干潮時にのみ通行を許可した。渡船の板にはの子供たちが墨で矢印を書き加えたため、結果的に軍用地図よりも正確な案内板として機能したという。
一方で、河岸に設けられた土嚢が豪雨で崩れ、側の田畑に濁流が流入した。これにより会戦は一時的に「土木災害」として処理されかけたが、現場検分の際に土嚢の中から乾燥茶葉が大量に出てきたため、再び治安案件へと戻された。
主要人物[編集]
は、地元では「杭を読む男」と呼ばれた測量技師であり、会戦の収拾にあたった中心人物である。彼は後年、誤差1尺8寸を埋めるために自費で竹尺を改良し、これがの臨時測量基準に採用されたとされる。
対する住民側の実務責任者は、茶商のであった。彼女は会戦中、補給品として茶葉と塩昆布を一括管理し、相手方の空腹を逆手に取って停戦交渉を有利に進めた。彼女の作成した「徳庵茶籍帳」は現存しないが、戦後に写しの写しがで確認されたとする報告がある[5]。
なお、事件の現地指揮を執ったとされるは、実在性そのものに疑義があり、外国人技師の総称ではないかともいわれる。ただし、彼の署名があるとされる停戦メモには、英語と片仮名が奇妙に混在している。
社会的影響[編集]
会戦終結後、徳庵周辺では通行経路の再設計が進められ、駅前に商店が集積したことで、結果的に小規模な駅前市場が成立した。これにより、事件は一見すると失敗した工事紛争であるが、長期的には北部の商業配置を決めた転換点として扱われている[6]。
また、住民の自衛的な連絡方法として用いられた一斗缶の打音は、のちに「徳庵拍」と呼ばれ、昭和初期の青年団演芸や防災訓練の合図に流用された。これがの夜間巡回時の合図規格に影響したという説もあるが、文献上の根拠は薄い。
さらに、事件を記念して配布された「会戦記念茶」は、実際には封鎖期間中に余剰となった茶葉を再包装したものであるが、瓶詰めの紙ラベルには戦車のような荷車と橋の図案が描かれ、以後、徳庵土産の定番になった。
批判と論争[編集]
第一次徳庵会戦をめぐっては、そもそも会戦と呼ぶべき規模であったのかという批判が古くからある。特に以降の都市史研究では、実態は単なる工事紛争であり、後年の観光協会が「会戦」へと格上げしたのではないかと指摘されている。
一方で、のは、事件の本質は物理的衝突よりも「流通の遮断をもって共同体が自らの境界を定義した」点にあると論じた。また、茶商側が提出した停戦条件に「午後三時以降は湯温を下げること」と記されていたことから、会戦の交渉文書はむしろ生活史研究の一次資料として重視されている。
ただし、現存する資料の一部には、後世の編集でが「渡庵」と誤記されているものがあり、これをもって別事件とみなす説もある。なお、町内会の保存会はこの誤記まで含めて伝承価値があるとして、訂正せず展示している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『徳庵測量誤差史料集』大阪土木研究会, 1912.
- ^ 村上きく『徳庵茶籍帳写本解題』中之島古文書刊行会, 1931.
- ^ 小西兼次「会戦という語の流通と地方紙」『大阪近代史研究』Vol. 14, No. 2, pp. 41-68, 1978.
- ^ Arthur B. Lennox, 'Notes on the Tokuan Embankment Disturbance' , Journal of Asian Civic Studies, Vol. 7, No. 1, pp. 113-129, 1924.
- ^ 林田久作『駅前市場成立考―徳庵の場合―』関西都市史叢書, 1964.
- ^ 大阪府立中之島図書館編『徳庵荷受改進会資料目録』大阪府立中之島図書館, 1989.
- ^ 加藤みのる「一斗缶警報の民俗的展開」『民俗と都市』第22巻第4号, pp. 9-26, 2001.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Tea, Rails and Tactical Evacuation in Meiji Osaka' , Transactions of the Nippon Historical Society, Vol. 19, No. 3, pp. 201-247, 1936.
- ^ 大阪茶問屋同盟史編纂委員会『会戦記念茶の流通経路』私家版, 1958.
- ^ 『徳庵会戦と都市封鎖の記憶』東大阪市史談会紀要 第3号, pp. 55-81, 1996.
- ^ レーン, A. S.『Tokuan Field Memoirs and Other Extremely Local Incidents』Yamato Press, 1909.
外部リンク
- 東大阪市史料アーカイブ
- 大阪近代交通史研究所
- 徳庵会戦保存会
- 中之島古文書デジタル閲覧室
- 関西都市境界学会