第三次モスバーグ海戦
| 対象 | 艦隊同士の海戦(沿岸封鎖と通商破壊を含む) |
|---|---|
| 年月日 | 1587年 6月14日(旧暦) |
| 場所 | のモスバーグ海峡周辺 |
| 交戦勢力 | 北海連合艦隊 vs. モスバーグ商業公社艦隊 |
| 背景となった争点 | 水密区画の標準化と「乾パン投下砲」の採否 |
| 特徴 | 衝角戦よりも曳航ロープ切断と発煙材連携が主軸化 |
| 損耗推計 | 両軍合算で沈没船 19隻、座礁 27件、捕獲 8隻(当時記録) |
| 結果 | 形式上は引き分けとされたが、制度改革は後者側に有利に進行 |
第三次モスバーグ海戦(だいさんじモスバーグかいせん)は、にで起きたである[1]。当時の海軍制度改革と「水密区画の常識化」をめぐる争点が同時に噴出した事件として記憶されている[2]。
概要[編集]
第三次モスバーグ海戦は、港湾都市国家群の通商秩序をめぐり、海上での「制度」を決めようとした海戦として語られている[1]。単なる砲撃の勝敗ではなく、船体内部の区画運用(いわゆる水密運用)を誰がどこまで標準化するかが、実務上の主戦場になったとされる[2]。
とりわけ同海戦では、曳航ロープを瞬時に断つための「切断計画書」が共有され、さらに発煙材の投下タイミングが分単位で統制された点が後世の研究者に重視されてきた[3]。一方で、史料には双方の誇張も多く、参加艦数に関しては「丁度 148隻だった」「実は 150隻から 2隻が合流不能だった」といった揺れが確認される[4]。
背景[編集]
海軍制度の“見えない武器”[編集]
16世紀後半の北部海域では、海戦が続くほど船が傷み、補修の資源配分が政治問題化したとされる[5]。そのため、甲板上の勇名よりも、舷側損傷後に浸水をどれだけ遮断できるかという「運用設計」が注目された[6]。
北海連合艦隊側は、各船に区画用の木栓と樹脂材を“常備”させる方針を押し出したが、モスバーグ商業公社艦隊側は「補修は事後判断」として、標準在庫を絞る制度を主張した[7]。両者の対立は、戦場での技術差というより、補給網と契約の思想に直結していたと推定される[8]。
前哨戦としての“乾パン投下砲”[編集]
当時、ある種の投射武器が流行したとされる。その一つが「乾パン投下砲」であり、発煙材の入った厚紙カートリッジを混ぜ、視界阻害と誘導を同時に狙う運用が提案された[9]。
この武器は一見すると滑稽だが、当時の潮流と風向の計測技術が未熟だったため、煙の層が“観測の基準線”として使われたという指摘がある[10]。もっとも、実際の弾種は地方で呼称が異なり、「乾パン」と名乗りながら樹脂菓子だった可能性も示唆されている[11]。
経緯[編集]
1587年の海峡封鎖と最初の合流失敗[編集]
1587年、北海連合艦隊は沿岸の商船路を狙い、モスバーグ海峡で封鎖円を作る方針を採った[12]。これに対しモスバーグ商業公社艦隊は、合流予定時刻を「干潮から 3時間 12分後」と定め、船団を段階的に送り込む計画を立案していた[13]。
ただし当日は風向が 9度だけ予想から外れ、先発 41隻のうち 7隻が霧に捕まり、結局、同隊の“計画書上の 148隻”から 141隻へと実働が減ったと記録されている[14]。このズレが、後の「戦術の評価」を二分する原因となったとされる[15]。
発煙材の分単位統制と曳航ロープ切断[編集]
海戦の開始合図は、最初の砲声ではなく、発煙材の投下時刻が基準だったとされる[16]。史料の一部では「7分前に右舷から 12樽、1分前に左舷から 9樽」と、異常に具体的な個数が挙げられている[17]。
その後、船団は衝突を避けるように進路を畳み、曳航ロープを用いた“半ば体当たり”に移行した[18]。そして中心手順が「切断計画書 第3案」であり、ロープの切断は針金ではなく、海水で膨潤する樹脂を塗布した短索で行われたとされる[19]。一方で、別の史料では短索が“乾パン投下砲からの派生品”だと書かれており、名称だけが独り歩きした可能性が指摘されている[20]。
影響[編集]
水密区画の標準化が“商業契約”になる[編集]
海戦後、両陣営は戦訓を船体設計と契約書の文言に落とし込む方向へ進んだとされる[21]。北海連合艦隊は、区画用の木栓を「乗員一人あたり 2.6本」という計算で積載義務化したが、これは後に「2本で足りる」と反論されることになる[22]。
一方、モスバーグ商業公社艦隊は「樹脂材は入渠時に調達すべき」と主張し、代わりに“応急キット”の積載比率を「船体容積 1,000立方フィートあたり 1箱」として固定した[23]。ただしこの数字は、実測値ではなく契約上の換算で作られたとする説があり、港湾側の計算書の写しから疑義が浮上した[24]。
発煙材と観測技術の結び付き[編集]
第三次モスバーグ海戦で重視された発煙材の統制は、その後の海軍測位にも波及したとされる[25]。煙の層を“標識”にすることで視界のムラを減らし、天文観測に頼り切らない運用へと移る契機になったという[26]。
また、この運用が港の職人ギルドにも影響し、側の「霧標職人組合」では、煙樹脂の配合比率を巡って内部紛争が起きたとされる[27]。この紛争は技術の競争というより、特許相当の“配合管理”を誰が握るかという争いだったと推定されている[28]。
研究史・評価[編集]
近代以降の海軍史研究では、第三次モスバーグ海戦は「戦術史」ではなく「制度史」の例として参照されることが多い[29]。とりわけ、切断計画書の存在が、戦場の行動を個人の勇敢さから手順へ移す兆候だったと評価されてきた[30]。
もっとも研究者の間では、損耗数の扱いが論点となっている。たとえば一部の統計では両軍合算で沈没 19隻とされるが[31]、別系統の台帳では“沈没”の定義が座礁船を含むため単純比較できないとされる[32]。このように評価は一様ではないが、少なくとも「煙と区画運用を同時に管理した海戦」として位置づけることには一定の合意があるとされる[33]。
なお、研究書のなかには「乾パン投下砲は戦意高揚の小道具であり、実戦への寄与は小さい」という断定的記述も見られるが[34]、反論として「戦意ではなく観測基準のための計測材だった」とする説明が有力である[35]。
批判と論争[編集]
最大の論争は、史料の偏りである。北海連合艦隊の側で編まれた回想録は、区画運用の優位を強調する傾向があり、モスバーグ商業公社艦隊の側は“臨機応変の功績”を語りやすい構成になっていると指摘されている[36]。
さらに、発煙材の樽数が極端に詳細な記述については、後世の編集者が当時の帳簿を混ぜた可能性があるとして「分単位統制は誇張」とする見方がある[37]。一方で、海戦の同期が必要だったことは、ロープ切断の合図が“観測窓”として煙の層に合わせられていたという技術的整合性から支持されてもいる[38]。このため、どこからが実測でどこからが編集かは、いまも確定していない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エリアス・ハルヴァルス『バルト海軍契約史と水密運用』第3巻 第1号, ケルン海事出版社, 1902年.
- ^ Johann M. Kappel『Fog Indicators and Ballistic Smoke in Early Modern Navies』Vol. 12, Maritime Observation Journal, 1934年.
- ^ 渡辺精一郎『区画運用の政治学:船体設計から契約へ』東都大学出版会, 1911年.
- ^ ソフィア・ベランジェ『把手のない砲:乾パン投下砲の再解釈』パリ航海学叢書, 1978年.
- ^ Katarina Forsen『The Mosberg Strait Papers and the Cutrope Doctrine』Vol. 4, Stockholm Historical Navy Review, 2001年.
- ^ アマドゥ・ラミン『商業公社が作った海軍:契約と補給の結節点』ロンドン商事文化研究所, 1986年.
- ^ Leander S. Crowe『Quarterdeck Minutes: Minute-Level Naval Coordination』Vol. 21, Journal of Tactical Calendars, 2012年.
- ^ ミカエル・ヨルゲンソン『霧標職人組合の内部記録(復刻)』北欧ギルド文書館, 1965年.
- ^ Nikolai Petrov『バルト海の沈没記録分類と定義統一』モスクワ海事アーカイブ叢書, 1959年.
- ^ 田中信之『海戦史の編集術:同時代台帳の混入問題』海史学研究叢書, 2019年(表題が原題と異なる可能性が指摘されている).
外部リンク
- Mosberg Strait Archives
- Baltic Naval Contracts Portal
- Fog-Indicator Laboratory Notes
- Cutrope Doctrine Gallery
- Early Modern Smoke Tables