第二次全国新幹線敷設計画
| 正式名称 | 第二次全国新幹線敷設計画 |
|---|---|
| 通称 | 第二次全幹計画 |
| 提唱時期 | 1968年-1974年 |
| 主導組織 | 運輸省高速軌道企画室 |
| 対象地域 | 本州・四国・北部九州 |
| 計画延長 | 約4,280km |
| 想定最高速度 | 時速320km |
| 主な関係者 | 渡辺精一郎、神原清次、M. Thornton |
| 特徴 | 複線高架化、駅間最適化、都市圧縮接続 |
第二次全国新幹線敷設計画(だいにじぜんこくしんかんせんふせつけいかく)は、全国主要都市を短時間で結ぶために構想されたの高速鉄道網整備計画である。一般にはの「輸送時間圧縮構想」を母体として成立したとされるが、実際にはにの山間部で行われた軌道測量実験に由来するとされる[1]。
概要[編集]
第二次全国新幹線敷設計画は、の成功を受けて、全国の県庁所在地級都市を一体的に結ぶことを目的とした計画である。表向きは国家的な交通再編事業であったが、内部資料では「通勤圏を半径900kmまで拡張する試み」と表現されていたとされる[2]。
計画の特徴は、既存の幹線鉄道を単純に高速化するのではなく、地形そのものを“敷設に都合のよい形”へ読み替える点にあった。また、駅間距離を均一化するために、との中間地帯で数値補正が行われ、結果として一部の路線図は方眼紙に近い見た目になったとされる。なお、この方針は後に内で「地図への反逆」と呼ばれた[3]。
成立の経緯[編集]
計画の起点は、近郊のトンネル測量において、試験車両が標高差の誤差を利用して通常の二倍近い安定性を示した事件であるとされる。この結果を受け、の若手官僚であった渡辺精一郎は「線路は土地を縫うのではなく、土地を先に説得すべきである」と述べたという[4]。
その後、内の研究班がからまでの所要時間を3時間台に圧縮する案を試算し、1969年の「第七回高速交通整理会議」で正式に俎上に載せられた。議事録では、会場の湯呑みが震動で1分おきに移動したため、出席者の半数が実測値を疑ったと記録されている。これが後の「高速鉄道はまず机上で怖がらせるべきだ」という設計思想につながったとされる[5]。
計画の内容[編集]
路線網の基本思想[編集]
第一次案ではを中心に放射状に延びる構造が想定されたが、第二次案では「三角測量による都市連結」が採用された。すなわちを頂点とする巨大な連結網を築き、各都市間の移動時間をほぼ等差数列に揃える構想である。これにより、ダイヤ編成は容易になった一方、地方自治体からは「自分たちの町が三角形の辺として扱われる」との抗議もあった[6]。
技術仕様[編集]
車両は当初、空気抵抗を減らすために先頭部を“筆先”のように細くする案が有力であったが、の実験線で鳥類との接触事故が相次いだため、後に「鈍角流線型」へ修正された。最高速度は時速320kmであるが、運用上は駅進入時の心理的負担を軽減するため、区間ごとに15km/h単位で見かけ速度を変える「段階印象速度制御」が導入されたとされる[7]。
用地交渉[編集]
用地取得では、の茶畑地帯における交渉がもっとも難航した。地権者の一人である老農が「新幹線が通るなら茶葉も同じ速度で売れるのか」と問い返し、担当者が即答できなかったため、補償案が一晩で3回改定されたという逸話が残る。結果として、一部区間では高架下に共同乾燥場を設ける代わりに、地元産の茶缶に路線番号を刻印する妥協が成立した[8]。
推進者と関係者[編集]
中心人物とされる渡辺精一郎は、工学部出身の官僚で、鉄道を「国家の血管」ではなく「都市の神経伝達」と見なしたことで知られる。彼はの国会答弁で、全国を一本の回線にすることで「遅延の地域格差を是正する」と述べたが、その表現があまりに通信工学的であったため、後にから誤解を招いたと注意された[9]。
また、設計実務では神原清次が重要な役割を果たしたとされる。神原は元々の炭鉱輸送用索道の設計者であり、曲線半径を極端に小さく見積もる癖があったため、計画図面の一部は“線路というより巨大な定規”のようになった。なお、英米側の技術顧問として参加したM. Thorntonは、の地下鉄研究を参照しつつ「日本の速度計画は詩的である」と評したと伝えられる[10]。
社会的影響[編集]
計画が報道されると、沿線候補地の地価が不自然に上昇し、では未着工区間の周辺だけで地価査定が平均17.4%上振れした。これにより、存在しない駅名を冠した商店街や、架空の停車駅を前提にした旅館の看板が各地に現れた。とくにでは「停車予定」を理由に町内会が駅弁コンテストを先行開催し、優勝作の「仮称ひかり寿司」がそのまま地域名物になったという[11]。
一方で、都市間移動の短縮が想定されることで、学校行事や企業合宿の地理感覚が崩れたとされる。修学旅行の行き先にを選んだ学校が、帰路の所要を誤って半日多く見積もったため、宿の浴場に2時間分の“待機時間”が発生した事例がある。これを受け、教育委員会の一部では「新幹線時代の社会科地図」を独自に作成した[12]。
批判と論争[編集]
最大の批判は、全国を一体化するという発想が、地方の交通需要よりも中央の机上計算を優先しているという点にあった。とりわけの石油危機以後、維持費の試算が急激に悪化し、からは「線路を敷く前に財源が敷かれていない」と皮肉られたとされる[13]。
また、計画図の一部において、との区間が実距離より短く描かれていたことから、地理学者の間では「縮尺の政治性」が議論になった。これに対し推進派は「高速鉄道では距離より時間が正しい」と反論したが、この発言は後に“時間主義新幹線論”として一部で引用され、半ば教義のように扱われた。なお、当時の会議記録には、終電後に模型線路を眺めた担当官が「日本列島は意外と小さい」と呟いたという記述があり、真偽は定かでない。
その後の展開[編集]
第二次全国新幹線敷設計画は、公式にはの段階で「再整理」へ移行したが、実際には各地の派生事業へ分解されていった。これにより、、などの個別計画が、まるで大きな設計図の端切れのように独立して進んだと説明されることがある[14]。
一方で、計画の残滓は都市政策に長く影響を与えた。駅前再開発における「半径800m圏内の再編集」や、広域観光キャンペーンの「2時間圏構想」は、いずれも第二次全幹計画の副産物とみなされている。また、に入ると、鉄道研究者の間でこの計画は「失敗した国家事業」ではなく「成功しすぎて個別事業に分解された原案」と再評価されるようになった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『高速軌道と国土再編』交通政策研究会, 1972年.
- ^ 神原清次『曲線半径の政治学』鉄道技術出版社, 1974年.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Japanese Time Compression Rail Plan,” Journal of Comparative Transit Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 41-79, 1975.
- ^ 北村義人『新幹線網計画の周辺史』中央交通新書, 1981年.
- ^ 運輸省高速軌道企画室 編『第二次全国新幹線敷設計画資料集』内閣印刷局, 1971年.
- ^ S. Kambara, “Track Geometry and National Imaginaries,” Railway Systems Review, Vol. 12, No. 4, pp. 201-233, 1976.
- ^ 高橋和夫『線路を敷く前に』日本経済鉄道出版会, 1973年.
- ^ 石田理恵『駅前再開発と仮称駅名の誕生』都市景観研究所, 1989年.
- ^ M. Thornton and Seiji Kambara, “On the Cognitive Load of High-Speed Borders,” Proceedings of the 3rd International Rail Forum, pp. 88-97, 1977.
- ^ 『日本高速交通史年報 第17号』高速交通史学会, 1996年.
外部リンク
- 高速軌道資料アーカイブ
- 全国新幹線史研究会
- 仮称駅名コレクション
- 日本列島時間圧縮博物館
- 鉄道政策ジャーナル電子版