精神的疲労
| 分類 | 注意・情動の生理心理学的失調(として語られる) |
|---|---|
| 主な症状 | 集中持続困難、意思決定の遅延、些細な刺激への過剰反応 |
| 関連分野 | 労働衛生学、認知心理学、行政疫学 |
| 指標(俗称) | MFS(Mental Fatigue Score) |
| 歴史的出発点 | 職場監査票のスコアリング体系(とされる) |
| 最初期の議論の舞台 | の寒冷地郵便局と、衛生統計室 |
| 社会的用途 | 休職提案の裏付け、研修コンテンツの設計 |
(せいしんてきひろう)は、脳と感情の負荷が積み重なることで、注意力や意欲が段階的に低下するとされる状態である。日本では働き方改革の文脈で広く言及されてきたが、その概念の成立には「職場監査」の行政実務が深く関わったとされる[1]。
概要[編集]
は、身体的な疲労とは区別して語られることが多く、睡眠や休養をしてもなお残る「考える力の摩耗」として理解される場合がある。特に注意の持続が損なわれる現象は、認知心理学の語彙では「ターゲット検出の閾値上昇」などに置き換えられて整理されてきたとされる[1]。
一方で行政的には、症状の有無よりも「職務上の負荷の分布」を説明する概念として運用される傾向があり、各種の監査書式に組み込まれた経緯が強調されることがある。なお、概念の中心に置かれたのは精神医学そのものというより、労働現場の説明責任を支える“測定可能な曖昧さ”であったとする指摘もある[2]。
実務では、症状自己申告と簡易テストを組み合わせる形が多く、指標としてはMFS(Mental Fatigue Score)という略称が広まったとされる。ただし、MFSは研究者の間でも定義が揺れており、特定の試験問題数や回答時間の切り捨て設定によって数値が変化する点がしばしば笑い話になっている[3]。
歴史[編集]
起源:監査票が「脳の家計簿」になった日[編集]
精神的疲労という語がまとまった形で使われるようになったのは、の労働衛生監査の改訂に端を発する、と説明されることが多い。改訂の中心にいたのは、当時の衛生局の「負荷説明整備室」(通称“負荷整備室”)であったとされる[4]。
同室では、職場で起きる事故を「身体要因」「技能要因」だけで説明しきれない事例が増えていたため、調査票に“心の残高”の欄を作ることになった。ここで使われたのが「精神的疲労点」という暫定スコアであり、記入率を上げるために、記入者が理解しやすいように「頭の中の電池残量」を比喩として採用したとされる[5]。
面白いことに、最初のパイロット調査はの小規模郵便局に割り当てられ、気温よりも「一日の計算作業の段取り変更回数」が強く相関したという報告が出た。報告書では、その変更回数を“段取りの小刻み貯金”と呼び、精神的疲労が貯金の引き落としとして顕在化する、という比喩が採用されたとされる[6]。
この比喩が、次第に“精神的疲労は測れる”という空気を生み、現場の研修資料では「精神的疲労は、午後2時13分に急に増える」といった時刻の断定が普通に書かれるようになった。もちろん根拠は「その時間帯に監査員が来た」ことであり、後年まで誰も突っ込まなかったとされる[7]。
発展:診断より先に、ビジネス用語として定着した[編集]
に入ると、精神的疲労は医学的診断名というより、研修・人事評価・職場改善の“便利な説明”として普及した。きっかけはが主催した「注意力の再充填セミナー」であり、参加者の自己評価が高いほど数値が下がるという逆転設計が、なぜか受け入れられたとされる[8]。
当時のセミナーでは「精神的疲労は、脳が“空白を許さない”ことで増える」と説明され、空白を許さないとは、メールの未読がある状態を指すことが多かった。実際、研修マニュアルの付録では、未読メール件数が0のときMFSが-2点、1〜9件のとき0点、10〜19件のとき+4点、という具合にレンジが細かく定められていると報告されている[9]。
さらに、の大企業で始まった「チャット未読リセット制度」が波及し、未読を消すことが“治療”として扱われた時期がある。これに対し、行動変容の効果としての側面も指摘されたが、同時に「未読を消しても眠気が減るわけではない」という反論が出たとされる[10]。
ただし反論が大きくなる前に、指標の運用が形式化したため、制度はむしろ強化された。具体例として、系の職員研修では「精神的疲労予防は、2時間ごとの閲覧ログの棚卸しである」というスライドが標準教材に組み込まれたとされる[11]。この時、スライド枚数が38枚で統一されたことが、関係者の間で“精神的疲労の作法”として語られている。
指標と測定法[編集]
精神的疲労を数値で扱う試みとして、MFS(Mental Fatigue Score)が広まった。MFSは通常、短時間の注意課題(20問)と自己申告(5段階)で構成されるとされるが、現場では「20問のうち最初の3問を不採点にするか否か」で結果が変わることがあると指摘されている[12]。
また、MFSには“補正係数”が導入されることが多く、その中でも「報告者の気分係数(Mood Coefficient:MC)」が有名である。たとえば報告者が「今日は調子が良い」と答えた場合、MCが0.9になり、MFSが実数より低く見積もられる仕組みが採用された例がある[13]。研究としては説明可能でも、現場では「良い日ほど数値が下がるから良い施策だ」という循環論法が生まれ、研修の説得力になったとされる。
測定の運用には、圏の企業が好んだ「二重ログ方式」もある。二重ログ方式では、回答時間とマウス移動距離の双方が記録され、精神的疲労が高いほど“カーソルが震える”と解釈されることがある。もっとも、マウスが安価だっただけでも同様の挙動になるため、後年に「精神的疲労の前に機材の疲労がある」と揶揄された[14]。
このように、精神的疲労の測定は、厳密な心理指標であると同時に、組織が自分たちの努力を説明するための装置でもあったと考えられている。つまり数値は、疲労そのものというより“疲労として受け取られる経験”を設計してしまう側面を持つ、とまとめられる場合がある[15]。
社会的影響[編集]
精神的疲労は、働き方の議論を「精神論」から「運用論」に引き寄せた点で大きな影響があるとされる。具体的には、個人が頑張るかどうかではなく、業務設計が原因かもしれないという語りが増えたことが挙げられる[16]。
一方で制度導入は“見える化”を伴い、見える化は“数値化されるべきもの”を選別する。たとえば管理職向けの運用マニュアルでは、「精神的疲労が高い部門は、会議が長いのではなく、会議後のタスク再構成が遅い」と書かれていたと報告されている[17]。結果として、会議の時間短縮よりも“会議の後始末プロトコル”が整備され、議事録の様式まで統一される流れになった。
また、学生の領域にも波及し、では「精神的疲労チェックシート」を用いた週次面談が導入されたとされる。面談は毎週月曜日の午前9時に行われ、面談前に38秒の呼吸誘導を行うことが推奨されたという。38秒という秒数は、当時の担当教員が時計を見やすかっただけだと後に告白されたとされる[18]。
その結果、精神的疲労は“説明の言葉”として定着したが、同時に「疲れていないのに数値が高い人」「疲れているのに数値が低い人」が発生し、個人の自己理解と制度運用のあいだに齟齬が生まれた。こうした齟齬は、メンタルヘルス支援の場で“面談の質”として論じられるようになったとされる[19]。
批判と論争[編集]
精神的疲労を巡っては、概念の実体性や測定の恣意性が繰り返し論点になっている。とくに、MFSの補正係数が組織方針や評価制度に合わせて調整されうることが、利益相反に該当するのではないかという指摘がある[20]。
反対意見の中心は、「精神的疲労が高いことが悪いのではなく、測定が“正しくない”だけではないか」という批判である。実際、ある労務コンサルタントは「精神的疲労は、質問紙の語彙に依存する」と主張し、同じ状況でも「疲れ」を「消耗」に置き換えるだけで回答が変わると報告したとされる[21]。このため、制度側が使う言葉の調整が“治療”のように機能する危うさが議論された。
また、あまりに現場向けであるがゆえに、医学的な重症度との区別があいまいになった点も問題視された。精神的疲労を理由に休職を提案する運用が増えたことで、結果として医療機関への受診動機が変化し、早期対応を逃す懸念も指摘されたとされる[22]。
最も有名な論争は、の研修で配布された「精神的疲労は、月末に必ず増える」という講義スライドであった。これに対し統計専門家は「月末は書類が増えるから疲れるのであって、“精神的疲労の必然”ではない」と批判した。もっとも、その講義を担当した講師は、実際には月末しか出張できなかっただけだと、後年に親しい同僚へ漏らしたとされる[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山縣英明『精神的疲労の行政的運用論:監査票からMFSへ』東雲書房, 1986.
- ^ Katherine R. Whitmore「On the Scoring of Unspecified Distress in Workplace Audits」『Journal of Occupational Narrative』Vol.12 No.3, 1991, pp.45-62.
- ^ 【厚生労働省】健康管理研究会『負荷説明整備室報告書(暫定)』中央衛生出版, 1973.
- ^ 佐伯晴人『会議後のタスク再構成と“疲労としての理解”』労務学叢書, 2002.
- ^ 藤堂みなと『未読ゼロ運用の心理社会効果』文理図書, 2010.
- ^ Hiroshi Tanaka, Michelle G. Alvarez「Cursor Tremor as a Proxy for Cognitive State: A Cautionary Tale」『International Review of Applied Interface Psychology』第7巻第2号, 2016, pp.101-118.
- ^ 松原ユウ『週次面談と38秒呼吸誘導:教育現場のMFS運用例』教育心理研究所出版, 2018.
- ^ 森川慎一『精神的疲労点の歴史地図:北海道郵便局の逸話を中心に』北海文化出版社, 1978.
- ^ Elena Petrov「Mood Coefficient and Organizational Self-Justification」『Theoretical Workplace Metrics』Vol.9 No.1, 2005, pp.9-27.
- ^ 井出達也『精神的疲労の“重症度”と測定レンジのズレ』日本臨床運用学会誌, 第3巻第4号, 1999, pp.210-223.
外部リンク
- MFS研究データバンク
- 職場監査書式アーカイブ
- 呼吸誘導タイマーコレクション
- 未読リセット制度の実装例
- 二重ログ方式の技術メモ