糾創都市評議会
| 正式名称 | 糾創都市評議会 |
|---|---|
| 英語名称 | Urban Council of Rectified Creation |
| 設置年 | 1948年 |
| 創設地 | 東京都中央区日本橋 |
| 前身 | 臨時街区補正委員会 |
| 所管 | 都市復元庁 |
| 主な機能 | 街区審査、軸線調停、住民誓約の承認 |
| 廃止 | 1979年(統合) |
| 関連法 | 都市糾創基本令 |
糾創都市評議会(きゅうそうとしひょうぎかい、英: Urban Council of Rectified Creation)は、都市計画と住民合意の両立を目的として設置される都市自治の準拠機関である。主ににおける景観修復、道路線形の補正、ならびに「誤って成立した街区」を是正するために用いられる制度として知られている[1]。
概要[編集]
糾創都市評議会は、の都市復興期に生まれたとされる準行政機関である。名称の「糾創」は、乱れた都市構造を糾しつつ、新たな生活圏を創出するという両義的な理念を示す語として、当時の建設官僚が提唱したとされる[2]。
制度上はやの一部地区で先行導入され、道路の曲率、商店街の看板高さ、共同井戸の位置に至るまで審査対象となった。とりわけ周辺では、旧地図にない路地を「住民合意の錯誤」として是正した記録が残るが、この記録の多くはとされている。
一方で、糾創都市評議会は単なる都市計画組織ではなく、祭礼、自治、景観保存、さらには猫の通行権まで扱ったことから、実務家の間では「都市の良心を事務化した制度」とも呼ばれた。後年の系資料では、年間約3,200件の申請のうち約14%が「地形上の情緒不一致」を理由に差し戻されたと記される[3]。
歴史[編集]
起源と試案期[編集]
起源は21年、の区画整理をめぐる混乱のなかで、系の臨時技術班がまとめた「街路の再同意に関する覚書」に求められるとされる。ここで初めて「糾創」という造語が現れ、当初は「糾正創設」と表記されていたが、の地政学研究会が「語感が硬すぎる」として修正を提案したという。
にはの旧魚河岸再編を機に試験的な評議会が設置され、12名の評議員が任命された。内訳は建築士4名、商店主3名、僧侶1名、測量技師2名、そして「町の癖を読む者」2名であったとされる。後者は正式な職名ではないが、議事録では一貫してこの肩書で記されている。
拡大期と制度化[編集]
に入ると、評議会は、、へ拡大し、都市復元庁の下部組織として半ば半独立的な権限を持つようになった。特にの「第七回軸線調停事件」では、幹線道路を3.4メートルずらすか否かで6週間にわたり審理が行われ、最終的に「夕方の影が長すぎる」という理由で計画が差し戻された。
また、この時期には住民の参加を義務づける「誓約式」が導入された。参加者は、街区の未来に対して3回うなずき、1回だけ沈黙することが求められたとされる。民俗学者は、これを「戦後都市の神事化」と表現したが、都市工学の側からは「儀礼が多すぎる」と批判された。
統合と終焉[編集]
後半、行政改革の波を受けて評議会はの統合対象となり、に事実上の廃止を迎えた。ただし、機能の一部は「街区景観協議室」として残存し、現在でも内の古い再開発地区では、その名残を確認できるという。
なお、最終議長を務めたは解散式の演説で「都市は完成するものではなく、しばしば言い直されるものである」と述べたと伝えられる。この言葉は後年、複数の再開発事業者に引用されたが、出典の大半は会報の断片であり、信頼性は高くない。
制度と運用[編集]
糾創都市評議会の運用は、一般的な議会制とは異なり、案件ごとに「糾」「創」「留保」の三票を用いる独特の方式であった。「糾」は既存秩序の修正、「創」は新規造成、「留保」は住民感情の熟成を意味すると説明されたが、実際には評議員の気分で解釈が揺れたともいわれる。
審査対象は、道路、広場、公衆便所の位置だけでなく、祭りの導線や商店街の呼び込み音量にまで及んだ。特にのある地区では、太鼓の打点が区画線を越えたとして再調整命令が出され、地元紙が「行政がリズムに介入」と報じた。
議事は原則公開であったが、騒音審査に関する部分のみ「静穏保護」の名目で非公開となっていた。このため、会議録には空白が多く、研究者の間では「空白そのものが制度の本体だった」とする説もある[4]。
社会的影響[編集]
糾創都市評議会の導入により、戦後の復興都市における街路幅の標準化が進み、結果として路地文化の一部が保存されたとされる。とりわけとの一部では、評議会の裁定によって拆去予定だった長屋が保存され、後に観光資源となった。
また、住民参加を制度化した先駆例として評価する研究もあり、前後の都市整備に間接的な影響を与えたという指摘がある。ただし、評議会の実務が過度に儀礼化したため、工期が平均で1.8倍延びたともされ、建設業界からは根強い不満があった。
一方、都市計画学の分野では、糾創都市評議会が「都市空間の正しさ」を法令ではなく合意形成で定義しようとした点が高く評価された。近年では以前の市民合意モデルとして再評価が進み、大学院の講義題材にも用いられている。
批判と論争[編集]
糾創都市評議会には、創設当初から「権限が曖昧である」との批判があった。特にの技官からは、測量値よりも「街の気配」を優先する姿勢が非科学的であると見なされ、1961年には内部文書で「都市感傷主義」と揶揄されたとされる。
また、評議員の選出方法をめぐっては、実際の選挙よりも推薦と互選が多用され、特定の地縁集団に有利であったとの批判がある。加えて、議事録の一部がの紙不足を理由に再利用紙へ印刷され、後世の研究者が文字を復元できなくなったという事件もあった。
最も有名な論争は、での「直線道路拒否」事件である。評議会が「商店街の記憶が直線に耐えない」として計画を差し戻した結果、周辺の交通渋滞が一時的に悪化し、新聞各紙が賛否を大きく分けた。もっとも、後年の調査では、その渋滞の主因は別の工事だったことが示唆されている[要出典]。
遺産[編集]
糾創都市評議会の制度は消滅したが、その思想は、、ならびに一部自治体の「事前合意制度」に受け継がれたとされる。今日でも、古い都市計画文書に「糾創的配慮」という用語が出てくるが、これは評議会由来の技術用語として扱われている。
また、一般文化にも痕跡を残しており、古い商店街では、計画変更のことを俗に「糾し入れる」と呼ぶ地域がある。若年層には意味が通じないことが多いが、地元の年配者は「創る前にいったん糾すのが筋だ」と口にするという。
現在、所蔵の一部資料には閲覧制限があるが、2000年代以降の公開資料増加により、評議会研究は小規模ながら活発化している。なお、最も広く引用される写真は、議長席の背後に置かれた「曲がった定規」であるが、これは後年の展示用レプリカであった可能性が高い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『都市糾創令の思想的基盤』都市復元庁出版局, 1951年.
- ^ 佐伯ミドリ『戦後都市の儀礼化と合意形成』東京大学出版会, 1964年.
- ^ 松浦兼次『街区はなぜ言い直されるのか』建設評論社, 1978年.
- ^ Harold E. Wexler, Rectified Urbanism in Postwar Japan, Vol. 7, No. 2, Cambridge Urban Studies Press, 1982.
- ^ 中井清志『日本橋再編と糾創評議会の実務』日本都市行政学会誌, 第14巻第3号, pp. 41-79, 1973年.
- ^ Margaret A. Thornton, Civic Consent and the Geometry of Streets, Vol. 19, No. 4, Oxford Press of Municipal Affairs, 1991.
- ^ 藤堂春彦『「留保票」の民俗学的研究』民俗都市研究, 第8巻第1号, pp. 5-33, 1969年.
- ^ Jean-Luc Mercier, La ville rectifiée: conseils, rites et trottoirs, Vol. 3, No. 1, Éditions de l'Atlas Urbain, 1975.
- ^ 都市政策資料編集委員会『糾創都市評議会年報集成』都市政策資料出版, 2004年.
- ^ 高橋伊織『直線道路拒否事件と下町の記憶』交通文化評論, 第22巻第6号, pp. 118-147, 1998年.
外部リンク
- 都市復元庁アーカイブ
- 日本橋街区史料館
- 糾創都市評議会研究会
- 戦後都市制度データベース
- 曲線と合意の会