美味しいへび
| 名称 | 美味しいへび |
|---|---|
| 読み | おいしいへび |
| 起源 | 1920年代の京都府南部 |
| 主産地 | 京都府・滋賀県・奈良県 |
| 主な材料 | へび肉、柚子皮、白味噌、山椒、酒粕 |
| 特徴 | 熟成香と甘辛い後味を併せ持つ |
| 提唱者 | 松岡清三郎、北川ミネ |
| 関連機関 | 近畿発酵食研究会 |
美味しいへび(おいしいへび、英: Delicious Snake)は、南部を中心に発達したとされる、へび肉の熟成と香辛液の調合に関する食文化である。末期にの精肉組合で体系化されたと伝えられている[1]。
概要[編集]
美味しいへびは、へび肉を塩締めした後にとで覆い、低温で数日から数週間かけて熟成させる料理法、またはその仕上がりを指す名称である。一般には鍋物に分類されることが多いが、周辺では酒肴の一種として扱われてきた。
この呼称は、単に「おいしいへび」と感想を述べたものではなく、1928年にの問屋街で行われた試食会で、北川ミネが掲示した献立札の文言が定着したものとされる。もっとも、当時の帳簿には「美味シイ蛇」とだけ記されており、表記の揺れが多かったことが指摘されている[2]。
歴史[編集]
発生と初期の普及[編集]
美味しいへびの原型は、後期に沿岸で行われていた外来食材の保存実験に求められるとされる。特に、水産講習所を退職した松岡清三郎が、湿度の高い蔵でへび肉を麹とともに寝かせることで臭みが抜けると報告し、これが後の標準工程に影響したとされる[3]。
当初は「蛇の味噌漬け」と呼ばれていたが、12年のの地方版に「思いのほか上品な味」と紹介されたことから、料理名としての格が上がったという。なお、同記事の末尾には「配膳係が誤って二重に盛ったため、客が満腹になり過ぎた」とあり、これが後の小盛り化の契機になったともいう。
組合化と標準化[編集]
、・流域の料理人と漬物業者が集まり、近畿発酵食研究会の前身である「蛇馳走懇話会」を結成した。会合では、へび肉の切り幅を7.5ミリに統一するか8ミリにするかで激論が起こり、最終的に「家庭用は7.8ミリ、宴席用は8.2ミリ」という奇妙な折衷案が採択された[4]。
この標準化は短期間での旅館業にも波及し、1930年代には「美味しいへびのある宿」を掲げる旅館が十数軒現れた。ただし、調理器具の熱源にとが混在していたため、同じ献立でも店ごとに味が安定しないという問題があった。
戦後の再解釈[編集]
後、美味しいへびは一時的に「郷土の保存食」として再評価されたが、都市部では敬遠されることも多かった。これに対し、の外郭研究員であった平井嘉門は、へび肉を一度昆布締めしてから白味噌に漬ける二段法を考案し、独特の甘味が学校給食の味覚調査で高評価を得たと報告した[5]。
もっとも、同報告書には「試食児童のうち3名が『うなぎと間違えた』と回答」とあり、研究班ではこれを成功とみなすか否かで議論が続いたという。この曖昧さが、美味しいへびを「正体のわからないうまさ」として語る民間伝承を強めたとされる。
観光化とブランド戦略[編集]
以降、周辺の土産物店では「美味しいへび風味せんべい」や「へび味噌まん」が販売されるようになり、実物を食べた経験のない観光客にも名称だけが浸透した。とりわけの「びわ湖国体」開催時には、滋賀県側の仮設食堂で1日あたり約1,240食が提供されたとされ、記録上のピークとなった[6]。
この時期、包装紙に描かれた蛇の意匠が過度に可愛らしかったため、子ども向け商品と誤解される事例が相次いだ。これを受け、に業界団体は「にこやかすぎる蛇は不適切」として図案基準を改訂したが、改訂後の意匠もまたどこか愛嬌があり、根本的な解決には至らなかった。
製法[編集]
一般的な製法では、まずの端材とを加えた塩水にへび肉を半日ほど浸し、その後に、、を混ぜた床で48時間から96時間寝かせる。熟成後は、皮目を軽く炙って香りを立たせ、最後に熱燗を少量かけて仕上げるのが定番である。
家庭料理としては手順が長く見えるが、の古い家では「漬けて待つだけの料理」と説明されることもある。ただし、湿度が68%を超えると香りが急に強くなるため、梅雨時には調理者が台所の窓を3センチだけ開ける慣習があり、これは今も一部の料理店で守られている[7]。
社会的影響[編集]
美味しいへびは、戦後のにおいて「保存食でありながら宴席料理でもある」という二面性を持った珍しい事例として扱われ、地域の料理人が自らの技術を誇示するための象徴になった。特にの茶席文化と結びついたことで、甘味と発酵臭の境界を楽しむ料理として説明されることが多い。
一方で、名称に「へび」とあるため、敬遠する層も少なくなかった。そのため1980年代には、学校の社会科副読本で「地域食文化の命名が流通に与える影響」の例として取り上げられ、児童が最初に覚える郷土料理のひとつになった。なお、ある調査では、名前を伏せて提供すると8割以上が「高級な漬物」と回答したという[8]。
批判と論争[編集]
美味しいへびをめぐっては、そもそも実在のへび肉を主材料とするのか、それとも「へび」は細長い食感を指す比喩なのかで長年論争が続いている。近畿発酵食研究会は「実体のあるへび肉を用いる」としているが、京都市内の一部店舗では鱧と豆腐を組み合わせた代替版を提供しており、これを美味しいへびに含めるかは定まっていない[9]。
また、のテレビ特集で「世界で最も誤解されやすい郷土料理」と紹介された際、視聴者から問い合わせが殺到し、翌月の協会窓口には1日平均37件の確認電話が寄せられた。もっとも、その大半は「どこで食べられるのか」ではなく「本当にへびなのか」という内容であったという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松岡清三郎『蛇馳走試験録』近畿発酵食研究会, 1931.
- ^ 北川ミネ「美味シイ蛇の献立札とその周辺」『食文化史研究』Vol. 4, No. 2, 1949, pp. 88-97.
- ^ 平井嘉門「昆布締め併用による蛇肉の香味改良」『京都府立食品試験場報告』第12巻第3号, 1955, pp. 14-29.
- ^ 中尾俊也『近畿地方における発酵肉食の民俗誌』河原書店, 1968.
- ^ Suzanne M. Ellery, “Fermented Serpent Dishes in Postwar Kansai,” Journal of Culinary Anthropology, Vol. 9, No. 1, 1976, pp. 33-51.
- ^ 『京都の食と観光 昭和53年度調査報告』京都府観光企画課, 1979.
- ^ 橋詰照雄「湿度管理と香気発現の相関」『日本調理科学会誌』第27巻第4号, 1984, pp. 201-210.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Branding of Reptile Cuisine in Regional Japan,” Asian Foodways Review, Vol. 18, No. 3, 1992, pp. 5-26.
- ^ 『美味しいへび白書 2001』近畿発酵食研究会事務局, 2002.
- ^ 田村さやか『名前が先に売れる料理学』青潮社, 2011.
- ^ 小林義隆「へびと鱧のあいだ——代替版料理の成立」『食文化と誤認』第6号, 2018, pp. 41-58.
外部リンク
- 近畿発酵食研究会アーカイブ
- 宇治郷土食データベース
- 京都発酵料理年表
- 蛇馳走保存協議会
- 食の命名史ミュージアム