自れ連立政権の歴史
| 分野 | 比較政治学、制度史、行政風俗史 |
|---|---|
| 成立 | 1898年頃の地方実験を起点とする説が有力 |
| 中心地 | 東京都千代田区永田町、神奈川県横浜市関内 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、M. A. Thornton |
| 主要概念 | 自れ内閣、寄せ政策、可変閣外協定 |
| 代表的事件 | 赤坂覚書事件、第二次三色合意、5分間改造内閣 |
| 最盛期 | 1957年から1974年 |
| 衰退 | 1980年代の文書標準化により急速に縮小 |
自れ連立政権の歴史(じれんりつせいけんのれきし、英: History of the Self-assembled Coalition Government)は、政党間の事前協議ではなく、各閣僚が就任後に自発的に政策を寄せ集めて成立させるとされるの通史である[1]。主にの地方自治実験から発展したとされ、のちにの周辺で制度化されたとされている[2]。
概要[編集]
自れ連立政権とは、複数の政党や会派が連立するのではなく、個々の閣僚がそれぞれ独自の支持母体と政策束を持ち寄り、結果として政権全体が「あとから連立して見える」状態を指す用語である。通常の連立政権が選挙後の合意形成を基礎とするのに対し、自れ連立政権ではが事後的に整合性を与える役割を担うとされる。
この制度は、末期の議会運営が不安定であった時期に、地方の有志会が「一枚岩の政党より、集まった後にまとまる方が早い」と考えたことに起源があるとされている。もっとも、同時代の新聞にはほとんど記録が残っておらず、後年になっての書庫から見つかった「半連立メモ」の存在がこの概念の再評価を促した、というのが通説である[3]。
起源[編集]
地方自治実験期[編集]
最初の自れ連立政権は、の港湾都市で行われた臨時市政改革において成立したとされる。これは、議会が3日おきに解散していたため、議員たちが「全員一致」を断念し、各自が持ち込んだ施策をその場で束ねる方式に切り替えた結果である。記録によれば、当初は7名の委員で始まったが、4日目には12名、最終的には行政補助員も含めて19名が「準連立扱い」となった。
この時期に用いられた文書は、正式な協定書ではなく、裏紙に記された「同意しそうな項目一覧」であったとされる。書式は極めて簡素で、各項目の右端に鉛筆で「たぶん可」「要再協議」「雨天なら承認」といった注記が付されたという。なお、この運用を記したの内部報告書は現存しないとされるが、1962年の研究者が「口頭伝承のほうが整っている」として引用したため、半ば史料として扱われている[4]。
理論化と命名[編集]
「自れ連立政権」という語は、に東京帝国大学の政治学者・渡辺精一郎が講義録『可変内閣論』の中で用いたのが初出とされる。渡辺は、連立の主体が政党ではなく「自ら寄ってくる政策断片」であることを強調するため、あえて古風な「自れ」という表記を採用したと説明していた。
その後、英国人研究者がでこの現象を「self-assembled coalition」と英訳し、国際比較政治学の文脈に載せたことで注目が広がった。もっとも、Thorntonは来日時に永田町の会議室で誤って茶卓を政策台として用いたため、初学者の間では「茶席政治学」と並ぶ奇妙な系譜の一部として語られている[5]。
制度の特徴[編集]
自れ連立政権の最大の特徴は、政権発足時点で完全な政策合意が存在しないことである。代わりに、各閣僚は「暫定的な一致点」を持ち寄り、毎週金曜日の午前8時17分にの南会議室で再調整を行う。この会議は平均して14分しか続かず、最短記録はの3分41秒、最長記録はの58分12秒である。
また、政策文書は通常の連立協定とは異なり、A4判ではなくB5判の「寄せ紙束」にまとめられる。紙束は最大で11枚までという不文律があり、12枚目以降は自動的に「次期政権案件」とみなされる。これが原因で、ある政権では案が案の裏面に印刷され、翌日には「教育輸送一体改革」として新聞の見出しになった。
もっとも、批判者はこの制度を「責任の所在が薄まる仕組み」と評している一方、支持者は「対立を消すのではなく、机の上で畳む技術である」と擁護する。実際、1970年代の調査では、地方議会の議員の約62%が「一度はやってみたい」と回答したのに対し、理解していると答えた者は18%にとどまったという[6]。
発展[編集]
戦後復興期[編集]
後、自れ連立政権は復興行政の迅速化手法として一時的に拡大した。特にからにかけては、資材不足のため政策立案そのものが配給制に近い形をとり、各省庁が週ごとに「配分可能な政策数」を申告する制度が敷かれた。これにより、農業、水道、教育の3分野が同時に進む珍しい政権運営が実現したとされる。
この時期の象徴的事件がである。ある閣僚が会合の途中で「財政はあとでいい」とメモに書き、別の閣僚がそれを「財政は後で“良い”」と誤読した結果、補正予算が翌朝に可決されたという。誤読の連鎖が制度を前進させた最初の例として、政治史では半ば神話視されている。
最盛期[編集]
後半から初頭にかけて、自れ連立政権は最盛期を迎えた。この時期には系会派だけでなく、農協系、商工会系、大学自治会系の各派が「準連立」として内閣に参加し、政策の多層化が進んだ。1969年の調査では、内閣構成員27人中9人が「自分は与党ではないが、与党っぽい」と回答している。
特に有名なのはである。首相が午前9時に改造を発表し、9時5分には閣内の3人が互いの所属を再確認できなくなったため、官報上で「暫定的に全員留任」と記された。これにより、改造の定義そのものが「名札を替えること」へと縮小され、後の行政文書に大きな影響を与えた。
社会的影響[編集]
自れ連立政権は、政治家の協調技術だけでなく、一般社会の合意形成にも影響を与えたとされる。ではこの方式を模倣した「自れ総会」が流行し、会長、副会長、会計がそれぞれ別の議案を持ち寄る運営が採用された。結果として、決算は早くなったが、誰も何を決めたのか覚えていない会議が増えた。
また、の政治学講義では、1978年頃から「自れ連立モデル」がケーススタディとして扱われるようになった。学生のレポートには「合意形成の効率が高い」とする肯定論と、「透明性が低く、説明責任が分散する」とする否定論が半々程度で見られたという。なお、あるゼミではこの研究の影響で、発表資料が毎回3枚ずつ増殖し、最終的に教員が「資料そのものが連立している」と評した逸話が残る。
批判と論争[編集]
批判の中心は、責任の所在が曖昧になる点にあった。特にの「第三次寄せ合い内閣」では、失政の責任を問われた際に、閣僚の誰一人として「自分が最初に賛成した」と証明できなかったため、国会での追及が4時間にわたり平行線をたどった。この件を契機に、野党側は自れ連立政権を「責任のない共同編集」と呼んだ。
一方で擁護論も根強い。制度研究者の一部は、自れ連立政権が「硬直した党議拘束を柔らかくする文化装置」であったと評価している。ただし、その評価はたびたび「実務が柔らかいのではなく、決裁印が増えるだけである」と反論される。さらに、1980年代後半にはの標準公文書化により、寄せ紙束の使用が事実上禁止され、制度は急速に衰退したとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『可変内閣論』東京帝国大学出版会, 1928年.
- ^ Thornton, Margaret A. “Self-Assembled Coalitions in Postwar Japan.” Journal of Comparative Cabinet Studies, Vol. 12, No. 3, 1964, pp. 211-238.
- ^ 佐伯隆一『寄せ紙束と近代行政』霞城書房, 1971年.
- ^ 横浜港史編纂室『港湾会議録断簡集』横浜港資料刊行会, 1959年.
- ^ Kobayashi, Eiji. “Coalition by Accretion: A Survey of Tokyo Backroom Politics.” The Eastern Political Review, Vol. 8, No. 1, 1972, pp. 44-79.
- ^ 高松真一『赤坂覚書事件の研究』中央政経叢書, 1980年.
- ^ Müller, Hans P. “The 5-Minute Cabinet Reshuffle and Administrative Fluidity.” Verwaltung und Politik, Vol. 5, No. 2, 1976, pp. 90-113.
- ^ 森川あやめ『自れ連立政権の社会的波及』日本行政史研究, 第14巻第2号, 1987年, pp. 5-31.
- ^ 田島誠一『政策が先で印鑑が後—自れ政体の運用実務—』弘文堂, 1991年.
- ^ Ishikawa, Naomi. “From Coalition to Co-Assembly: Minorities in the Diet Corridor.” Asian Government Quarterly, Vol. 19, No. 4, 1999, pp. 301-329.
外部リンク
- 国立自れ政体研究所
- 永田町口伝アーカイブ
- 横浜港湾会議史デジタル館
- 比較連立制度学会
- 赤坂覚書事件資料室