自走式震源地
| 正式名称 | 自走式震源地 |
|---|---|
| 英語名 | Self-Propelled Epicenter |
| 初出 | 1968年 |
| 提唱者 | 渡会義一郎 |
| 主な用途 | 耐震訓練、振動経路の再配置、避難誘導試験 |
| 開発拠点 | 神奈川県藤沢市・鵠沼臨海試験区 |
| 運用単位 | 1台あたり半径18〜42km |
| 関連法規 | 臨時揺動装置取扱要綱 |
| 後継機 | SE-7型「潮風」 |
自走式震源地(じそうしきしんげんち、英: Self-Propelled Epicenter)は、地震波の発生点を人工的に移動させるために設計された可搬式の装置、およびそれを中核とする災害工学上の概念である。主として後期の周辺で研究されたとされ、のちにやの耐震訓練に影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
自走式震源地は、地震の「発生点」を固定された地下の一点としてではなく、車両・レール・圧電杭を組み合わせた移動体として再定義した装置である。都市域の耐震訓練において、実際の断層活動を待たずに揺れの到達順序を再現できる点が特徴とされた[2]。
この概念は、の後に高まった防災需要の中で、当時の技術者らが「震源は動かせるのではないか」と真顔で議論したことから生まれたとされる。もっとも、初期の設計図にはやなど、用途と機構の関係が不明瞭な部品名が並んでおり、研究史家の間では「災害工学というより移動広告塔に近い」とも評される[3]。
歴史[編集]
起源と初期研究[編集]
起源は、の非公開研究会である「揺動再配置小委員会」に遡るとされる。委員会の議事録によれば、が発表した「震源の可搬化に関する覚書」が好奇心を呼び、当初はの地震工学研究室で机上検討が行われた[4]。
渡会は、震央の座標を三次元的に平面へ写像する過程で、震動の起点もまた「追従可能な工業製品」とみなせると主張した。なお、この時点ですでに「震源地を自走させるなら、避難訓練の順路も一緒に動かすべきである」とのメモがあり、後年の運用思想を先取りしていたとされる。
試作機SE-1型[編集]
に完成したSE-1型は、全長4.8メートル、総重量6.2トンで、製の台車上に製の同期制御盤を載せた半移動式の装置であった。時速は最大で1.7kmに過ぎなかったが、床面振動を介した伝達効率は従来型模擬地震装置の約1.4倍に達したとされる[5]。
もっとも、初運転ではの試験道路で路面標示が剥がれ、近隣の自転車通学路に一時的な混乱を生じさせた。この事故を受け、研究班は「震源地の進路表示」を義務化したが、実際には操縦担当者の間で方角の解釈が食い違い、訓練が常に30分ほど遅延したという。
自治体導入と黄金期[編集]
以降、・・の一部自治体が、港湾施設や高層住宅の避難試験に自走式震源地を導入した。とりわけでは、揺れの到達順を時間差で再現する「港湾周遊型震源訓練」が話題となり、見学者は年間約8,000人に達したとされる[6]。
黄金期には、震源地が市街地を「通過」するという独特の発想が受け入れられ、訓練に参加した消防団員が「今日は震源が遅れている」と言い合う光景まで見られた。なお、のを受けて急速に需要が増したという説もあるが、同時期に観光イベントへ転用された記録も残り、実際には防災と娯楽の境界がかなり曖昧であった。
構造と技術[編集]
自走式震源地の基本構造は、震源ユニット、揺動床、位置制御車輪、ならびに「心理的震央表示灯」から成るとされた。とりわけ表示灯は、実際の揺れより先に赤色回転灯が点滅し、住民の危機認知を平均4.2秒早める効果があるとして重視された[7]。
機構上の特異点は、震源を一点に固定せず、前後3列の補助杭で“余震の尻尾”まで追従させる設計にあった。これにより、訓練中の参加者は本震・余震・再本震の区別を体感できると説明されたが、実際には機械の移動音が犬の遠吠えに似ていたため、周辺住民は「動物型災害装置」と呼んでいたという。
また、SE-4以降ではの中古台車が転用され、揺れの向きによって線路側に寄る癖が生じた。技術報告書には「進行方向の直線性は保たれているが、精神的な左折が見られる」との奇妙な一文があり、後世の編集者を悩ませている[要出典]。
運用と社会的影響[編集]
防災訓練への定着[編集]
自走式震源地は、系の合同訓練において、避難開始の合図を固定式スピーカーよりも数秒早く出せるとして評価された。特にのでは、震源が県庁前から運動場まで約1.9km移動しながら揺れを再現し、参加者12,400人のうち、実際に転倒したのは補助員2名のみであったという。
この成功により、学校、防潮堤、病院の屋上などに「一時停車可能な震源待機地点」が設置され、地域ごとに“震源が来る曜日”が定められた。もっとも、曜日を巡る調整は宗教施設や商店街と衝突し、月曜震源派と木曜震源派の対立まで発生した。
都市文化への波及[編集]
1980年代後半には、自走式震源地は防災機材としてだけでなく、都市文化の装置としても扱われた。やでは、揺れの経路を可視化した地図が喫茶店の壁に貼られ、「本日の震源進路」という日替わりの娯楽要素が人気を集めたとされる。
一部の建築家は、震源が通る前提で街区を設計する「可動震央都市論」を提唱したが、実用化されたのは観覧席付きの避難広場だけであった。これについて都市史研究者のは、「日本の防災行政が、災害を待つ側から迎えに行く側へ一度だけ振れた瞬間」と述べている。
批判と論争[編集]
自走式震源地には、導入当初から「本来は固定されるべき震源を、なぜ移動させるのか」という根本的な批判があった。特にの国会質疑では、ある議員が「震源が動くなら責任の所在も動くのではないか」と問い、これが新聞の見出しを飾った[8]。
また、訓練のたびに「今回は震源が右から左へ抜けた」「前回より加速が鈍い」といった感想が蓄積され、住民の中には実災害との区別を曖昧にする者もいたとされる。これを受けては、震源地の自走速度と実際の緊急地震速報の混同を避けるため、表示フォーマットの統一を求めたが、現場では依然として「震源が遅延している」といった独特の表現が残った。
さらに、SE-6型に導入された自動追尾機構が、祭礼の山車と誤認されて神社境内へ進入しかけた事件は有名である。この件は「災害訓練と地域行事の境界」をめぐる象徴的事例として後に教材化されたが、当時の記録には、参加者が機械を止めるより先に笛を吹いてしまったとある。
衰退と再評価[編集]
に入ると、計算機シミュレーションと高性能スピーカーの普及により、自走式震源地は次第に第一線を退いた。維持費が1台あたり年間約2,600万円に達したこともあり、地方自治体の多くは固定式の振動装置へ切り替えた[9]。
ただし、完全に消滅したわけではなく、の旧実験棟やの防災資料館では、SE-3型の残骸が「移動する震央の思想」を伝える展示として保存されている。近年は、都市のレジリエンス教育を視覚化するための演出装置として再評価され、学会発表では「災害を歩かせた唯一の国産システム」とまで呼ばれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡会義一郎『可搬震源概論』日本揺動工学会誌 第12巻第3号, 1969, pp. 14-29.
- ^ 佐伯千代『自走式震源地の都市訓練利用』防災計画研究 Vol.7, No.2, 1975, pp. 88-104.
- ^ M. A. Thornton, "Mobile Epicenters and Civic Preparedness," Journal of Applied Seismics, Vol.18, No.4, 1978, pp. 221-239.
- ^ 小笠原瑞枝『可動震央都市論の生成』都市工学評論 第9巻第1号, 1983, pp. 3-18.
- ^ Hiroshi Kanda and Ellen P. Brooks, "Self-Propelled Epicenter Systems in Coastal Drills," Coastal Safety Review, Vol.6, No.1, 1986, pp. 41-60.
- ^ 防災科学技術研究所編『臨時揺動装置取扱要綱集成』、1987年、pp. 112-146.
- ^ 石渡圭一『震源の移動性に関する一考察』日本地震工学会論文集 第21巻第5号, 1991, pp. 501-517.
- ^ Margaret L. Henshaw, "The Epicenter That Walked," Proceedings of the Pacific Safety Institute, Vol.3, No.7, 1994, pp. 9-26.
- ^ 中島真琴『自走式震源地の残存機構と保存活用』防災資料館紀要 第4巻第2号, 2002, pp. 57-73.
- ^ 『揺れる都市、動く震央』建設文化新書, 2008, pp. 33-68.
外部リンク
- 日本揺動工学会アーカイブ
- 防災資料館デジタル展示室
- 可搬震源研究会旧録
- 臨時揺動装置保存連絡会
- 都市防災史電子年表