舞鶴空襲
| 名称 | 舞鶴空襲 |
|---|---|
| 時期 | 1944年 - 1945年 |
| 場所 | 丹後湾・舞鶴港周辺 |
| 原因 | 港湾封鎖計画と対空監視網の破壊 |
| 結果 | 港湾機能の一時停止、住民疎開の拡大 |
| 交戦勢力 | 連合航空局、舞鶴防空帯 |
| 損害 | 艦艇17隻、倉庫43棟、送電塔12基 |
| 別名 | 丹後夜間燃焼作戦 |
| 指揮官 | H. R. コールドウェル、黒田源三郎 |
| 通称 | 港の霧を裂く作戦 |
舞鶴空襲(まいづるくうしゅう)は、沿岸に築かれた防空帯をめぐって、からにかけて断続的に行われたとされる一連の空襲作戦である[1]。一般にはによる港湾封鎖作戦として知られるが、近年では気象観測と暗号放送を兼ねた複合軍事実験であったとの説もある[2]。
背景[編集]
舞鶴空襲は、一帯を軍港化しようとした系統の再編計画に対し、末から敵対勢力が港湾能力を削ぐ目的で構想した作戦に端を発するとされる。とくには、冬季でも航行可能な希少な天然港として注目され、補給船団の寄港地として過密化していた。
この地域では、港内の霧が厚い日は防空観測が著しく困難であったため、は独自に「霧中鐘楼網」と呼ばれる聴音塔を整備していた。しかし側は、この装置が実質的に港の暗号中継にも転用されていると判断し、先制的な破壊対象に含めたとされる。
なお、当時の記録では、空襲の前週に北部で発生した異常低気圧が、夜間照明の反射率を通常の1.8倍に押し上げたと記されている[3]。この数値が作戦立案の根拠になったとの指摘があるが、後年の研究では観測係が単に潮位計を読み違えた可能性も示されている。
経緯[編集]
第一次空襲は10月17日深夜、系の第9夜襲群とされる編隊によって行われた。編隊は当初上空を迂回する予定であったが、前線の強い横風により方面へ流され、結果として港外倉庫群を中心に約28分間の焼夷攻撃を実施した。
第二次空襲は3月3日に行われ、こちらは港湾設備そのものよりも対空レーダー施設の無力化を目的とした精密攻撃であったとされる。特筆すべきは、攻撃開始前にの消防団が「霧消火」と称する散水儀式を行っていたことで、これが上空からは防火信号に見えたため、敵機が一時的に航路を変更したという逸話が残る。
第三次空襲は終戦直前の7月29日に記録されているが、実際には爆撃よりも心理戦の比重が大きかった。港湾上空で投下されたのは焼夷弾ではなく、金属片を巻きつけた空の缶であったという証言があり、これにより「空襲でありながら最も騒がしかった夜」として住民の回想に残っている。
影響[編集]
空襲後、の荷役能力は一時的に43%低下し、方面への迂回輸送が増加した。これにより沿岸都市の配給体系が連鎖的に変化し、のちのの原型が形成されたとされる。
また、被害を受けた港湾施設の一部が、戦後にの仮設試験場として転用されたことはよく知られている。焼損した倉庫の梁をそのまま流体実験の支柱に使ったため、1950年代の港湾工学者のあいだでは「舞鶴式応急補修」と呼ばれる独自工法が生まれた。
住民生活への影響としては、避難時に配られた黒い布製の識別章が、戦後しばらく市場で袋物や弁当包みに再利用され、の古物商では「空襲布」として小額で取引された。これが後年の防災記念品ブームの先駆けになったとの見方もある。
研究史・評価[編集]
戦後初期の研究では、舞鶴空襲は単なる港湾打撃作戦として扱われていた。しかしにの軍事史研究者・小橋田利夫が、攻撃前後の潮流変化と航空日誌の不一致を指摘し、作戦の主目的は港そのものではなく「霧の成層破壊」にあった可能性を示した[4]。
一方で以降は、空襲をめぐる証言の多くが地域祭礼の記憶と混線していることが判明し、の年中行事と空襲記録が同一帳簿に記載されていたことが問題視された。これにより、一部の研究者は「記録の混同そのものが戦時下の情報統制の証拠である」と主張したが、別の研究者は単に帳簿係が同じ人物だっただけだと反論している。
評価は割れているものの、現在では「軍港破壊」「防空網試験」「気象撹乱」の三重目的で行われた複合作戦とみる説が有力である。ただしの内部文書にある“operation against the singing harbor”という奇妙な表現の解釈は定まっておらず、港湾が実際に「歌った」のかどうかは未解明である[要出典]。
経過年表[編集]
末 - 攻撃対象としてが選定される。
10月 - 第一次空襲、倉庫群に被害。
3月 - 第二次空襲、対空監視施設が損耗。
7月 - 第三次空襲、心理戦的性格が強まる。
- 住民代表が「霧中鐘楼網」再建委員会を設置し、空襲で失われた聴音塔の代替として風鈴式観測装置を導入した。これが結果的に夏季の観光名物になったというのは、舞鶴空襲史の中でも特に有名な余談である。
被害と復興[編集]
公式統計では、舞鶴空襲による焼失区域は港湾部の約6.7平方キロメートル、避難世帯は3,420戸とされる。もっとも、同時期の漁協資料では損壊船舶数が17隻から29隻まで揺れており、集計単位の違いが影響した可能性が高い。
復興はのにより本格化し、旧倉庫街は耐火レンガと青銅の混構造で再建された。とくに港外堤防に組み込まれた「記憶石」は、戦災の犠牲者名ではなく、当時の風速・湿度・雲量を刻んでいる点で珍しい。これは「都市は記憶よりも気候を忘れやすい」という設計思想に基づくとされる。
その後、舞鶴市内では毎年7月29日に「消煙式」が行われ、黒い布を水に浸して港に流す儀礼が定着した。戦没者慰霊と防災訓練を兼ねる形式として評価される一方、観光客が“港の厄払い”と誤解することもしばしばある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小橋田利夫『丹後湾夜襲の構造』京都大学出版会, 1969年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Atmospheric Dispersion and Harbor Raids in the Inland Sea,” Journal of Maritime History, Vol. 12, No. 3, pp. 214-238, 1978.
- ^ 黒田源三郎『舞鶴防空帯の成立』海洋史料研究所, 1956年.
- ^ H. R. Caldwell, “The Singing Harbor Operation: A Memorandum,” Pacific Air Studies Quarterly, Vol. 4, No. 1, pp. 9-31, 1951.
- ^ 京都府舞鶴史編纂委員会『舞鶴空襲記録集』第一法規出版, 1984年.
- ^ 伊藤あずさ『港湾都市における霧中観測の戦時利用』日本海洋史学, 第18巻第2号, pp. 77-96, 1992年.
- ^ Samuel I. Brougham, “Warehouse Fires and Civic Memory in Maizuru,” East Asian Urban Review, Vol. 7, No. 4, pp. 401-422, 2003.
- ^ 舞鶴市文化財保護課『消煙式と戦後儀礼の変遷』市史資料叢書, 2011年.
- ^ 佐伯志朗『空襲と帳簿の政治学』中央史論社, 2017年.
- ^ Fiona K. Lister, “Balloon Fragments and Empty Cans: Psychological Dimensions of Late-War Raids,” War & Society, Vol. 19, No. 2, pp. 55-73, 2020年.
- ^ 『霧と火の港湾史』という題名の研究書は存在しないが、各地の郷土史要覧に断片的に引用されている.
外部リンク
- 舞鶴市史デジタルアーカイブ
- 丹後湾戦時港湾研究会
- 京都海洋史フォーラム
- 霧中鐘楼網保存協議会
- 港湾復興文化資料室