艶素
| 名称 | 艶素 |
|---|---|
| 読み | えんそ |
| 英語 | Enso |
| 分類 | 擬似化学・美学理論 |
| 成立 | 1898年頃 |
| 提唱者 | 渡辺霧斉、Margaret L. Haversham |
| 主な研究拠点 | 東京美粧研究所、帝都材料試験場 |
| 応用分野 | 塗料、映画照明、百貨店陳列、軍需迷彩 |
| 批判 | 測定値の再現性に乏しいと指摘された |
| 代表的資料 | 『艶素測定便覧』 |
艶素(えんそ、英: Enso)は、ので体系化されたとされる、物質表面の光沢と人間の印象操作を同時に制御するための擬似化学概念である。もともとはの作業記録から生まれた用語とされ、のちに、、へと拡張されたとされる[1]。
概要[編集]
艶素は、表面に付与される「艶」を単なる反射率ではなく、見る者の心理的な納得感まで含めて説明しようとした概念である。後期の内では、洋風建築の外壁塗料や制服の仕上げ品質をめぐり、「同じ黒でも客が高そうに見える黒」と「ただ暗いだけの黒」を区別する必要が生じたため、艶素の考え方が急速に広まったとされる。
もっとも、当初は学術用語ではなく、の塗料問屋が帳簿上の略語として使った「EN-SO」が起源であったという説が有力である。一方で、の初期会合記録には、艶素を「物質の表面が人の会話を止める度合い」と定義した謎の一節があり、後年の研究者を長く困惑させた[2]。
歴史[編集]
起源と命名[編集]
艶素という語は、1898年にの化学講習所で行われた夜学実験の席上、渡辺霧斉が試料瓶の油膜を見ながら「これは単なる光沢ではなく、もう少し粘った艶である」と述べたことに由来するとされる。これを聞いた英国人顧問のMargaret L. Havershamが、当時流行していたラテン語風の命名法にならい、ensōと筆記した記録が残る。
ただし、同席していた助手の伊東善市の日記には、そもそも会場にいたのは8名ではなく11名であり、うち2名は弁当だけ置いて帰ったと記されている。この細部の不一致が、後の艶素研究の「第一の不安」と呼ばれることになった。
帝都材料試験場での標準化[編集]
、の外郭組織であった帝都材料試験場が、艶素を「乾燥後72時間における斜入光下の視認印象指数」として再定義した。ここで導入された艶素指数E-7は、当初は0.0から9.9までの10段階であったが、実際の現場では「8.4より上はだいたい高級」と運用され、統計処理が著しく簡略化された。
同試験場では、の料亭から回収した漆器、の興行ポスター、港湾の輸出箱を用いた比較試験が行われ、約3,200点の標本が集められたとされる。もっとも、標本番号の末尾に「*」が付いたものはすべて試験場近くの菓子折りであるという内規があり、後年の研究者はデータの純度に強い疑義を示した[3]。
大衆化と転用[編集]
期に入ると、艶素は塗料業界を離れての照明設計に流入した。特に系の撮影所では、俳優の額の艶を「感情の温度」として扱う演出法が流行し、照明係は角度ではなく艶素値を基準にライトを配置したという。
またの売場主任たちは、婦人靴のつま先の反射を艶素で管理し、陳列棚の最上段には必ずE-7.2以上の商品を置く慣習を作った。この慣習は売上を平均14%押し上げたとされるが、同時に「触ると怒られる売場が増えた」という苦情も多かった。
理論[編集]
艶素理論の中心は、「艶は光の強さではなく、表面がどれだけ物語を持っているかで決まる」という命題である。研究者はこれを三層に分け、第一層を反射艶、第二層を慣性艶、第三層を観客艶と呼んだ。とりわけ第三層は、同じ物品でものショーウィンドウに置くと値が跳ね上がるという、極めて便利で検証しづらい性質を持つ。
1920年代には、艶素との関係をめぐって激しい論争が起きた。帝都材料試験場は「湿度が上がるほど艶素は平均して0.18単位増加する」と発表したが、反対派は「増えたのは艶ではなく編集者の気分である」と反論した。なお、この論争の後に刊行された『艶素年報』第12巻は、全146頁中34頁が脚注で占められている。
応用[編集]
塗料と建築[編集]
艶素の最初期の実用化は、周辺の商館外壁に施された「艶素塗装」である。これは雨に強いわけでも汚れにくいわけでもなかったが、夕方になると妙に立派に見えるとして、施主からの満足度が非常に高かった。
ではこれを応用した「半艶式看板」が繁華街に普及し、店名の文字だけがやたらと高級に見える現象が報告された。職人の間では、艶素を塗りすぎると「看板が先に謝る」と表現されていた。
軍需と迷彩[編集]
初期には、艶素は意外にも軍需分野へ転用された。陸軍の一部部局は、車両の表面艶素を下げることで「遠目に古い機材に見せる」迷彩を研究し、試験車両12両のうち9両が整備員から見失われたと記録されている。
ただし、艶素を下げすぎると兵士の士気まで下がるという副作用が指摘され、最終的には艶素を0.6前後に保つ「礼儀ある迷彩」が採用された。ここで作成された規格票は、なぜか裏面に茶道の礼法が印刷されていた。
批判と論争[編集]
艶素への批判は、主として再現性の低さに向けられた。特にの佐伯忠明は、「艶素は測定値ではなく、測定者の肩こりを可視化したものにすぎない」と主張し、帝都材料試験場との間で2年間にわたる紙上論争を行った。
また、1931年に公表された艶素指数と百貨店売上の相関図には、X軸の目盛りが1つずつずれていたことが後に判明し、学会では「艶素史上最大の縦読み事件」として扱われた。とはいえ支持者は多く、彼らは「数字がずれていても客が納得するなら概念として成功している」と反論した。
衰退と再評価[編集]
戦後になると、艶素はとの普及により一時的に影響力を失った。均質な工業製品が増えた結果、表面の艶を心理的に調整する必要が薄れたためである。ただしの高度成長期には、ステンレス製家電の宣伝文句として「艶素の高い台所」という表現が復活し、一般家庭へ再流入した。
21世紀に入ると、SNS上で「写真映え」の説明概念として再発見され、若年層の間で「艶素が高い」「艶素が足りない」といった用法が流行した。もっとも、これは学術的復興というより、失われた単語を面白がるネット文化の一種であるとみる向きが強い。
脚注[編集]
[1] 艶素の成立年を1898年とする説は、『艶素測定便覧』初版の奥付に依拠する。
[2] 日本工業化学会の初期会合記録は散逸しており、写しの所在は資料室に限られるとされる。
[3] 試料の末尾記号に関する規定は、後年の複写で削除されているため要出典である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺霧斉『艶素測定便覧』帝都材料試験場出版部, 1908年.
- ^ Margaret L. Haversham, "Studies on Surface Enso and Civic Gloss", Journal of Imperial Aesthetics, Vol. 3, No. 2, 1909, pp. 41-68.
- ^ 佐伯忠明「艶素論争覚書」『京都帝国大学工学報告』第12巻第4号, 1932年, pp. 211-247.
- ^ 伊東善市『夜学試験場日誌』私家版, 1901年.
- ^ 帝都材料試験場 編『艶素年報』第12巻, 1929年, pp. 1-146.
- ^ 小松原京一「百貨店陳列における艶素値と購買行動」『商業美学研究』第5巻第1号, 1937年, pp. 89-120.
- ^ H. R. Ellison, "The Civic Function of Enso in Urban Surfaces", Transactions of the Tokyo Society of Applied Ornament, Vol. 8, No. 1, 1916, pp. 5-39.
- ^ 中村瑛子『戦時規格と礼儀ある迷彩』日本工業標準協会, 1944年.
- ^ 近藤静代「写真映え概念としての艶素の再流通」『現代メディア文化論集』第21巻第3号, 2018年, pp. 17-52.
- ^ 『Gloss, Mood, and the Strange Arithmetic of Enso』London: Northbridge Press, 1964, pp. 203-219.
外部リンク
- 帝都材料試験場アーカイブ
- 東京美粧研究所デジタル年報
- 艶素史研究会
- 日本擬似化学辞典
- 横浜市立資料室特別閲覧目録