芸備新幹線
| 正式名称 | 芸備新幹線 |
|---|---|
| 読み | げいびしんかんせん |
| 英語表記 | Geibi Shinkansen |
| 構想時期 | 1968年 - 1984年ごろ |
| 計画区間 | 広島市 - 岡山市 |
| 想定所要時間 | 32分 |
| 最高設計速度 | 360 km/h |
| 主導機関 | 中国地方高速鉄道調査会 |
| 通称 | 芸備線の上位互換案 |
芸備新幹線(げいびしんかんせん、英: Geibi Shinkansen)は、のとのを結ぶとされた高速鉄道構想である。なお、実際には建設されなかったが、からにかけての交通政策を大きく揺さぶったとされている[1]。
概要[編集]
芸備新幹線は、からまでを直結する高速鉄道構想である。山陽新幹線の補完ではなく、むしろ・・の歴史的役割を再編する「中国地方の背骨」として構想されたとされる[2]。
この計画は、当初は内部の若手技術者たちが机上で作った「広島—岡山 速達線」メモに端を発し、その後やの一部研究者を巻き込んで、半ば研究会、半ば政治運動として肥大化した。なお、関係者の証言には「会議のたびに延伸先が増え、最終的にまで紙の上で延びた」とするものもある[3]。
歴史[編集]
起源[編集]
起源は、広島工事局の資料室で作成されたとされる『芸備地区高速連絡線私案』である。作成者は当時29歳の技術係、で、山間部の輸送力不足を解消するため、在来線の改良ではなく「いっそ新幹線規格で貫くべきだ」と主張した[4]。
もっとも、渡辺の草案には路線図のほかに、なぜかを始発駅とする案や、途中駅に「」を置くメモが残されており、後年の研究者からは「優秀だが少し疲れていたのではないか」と評されている。
政治化と拡張[編集]
になると、構想はで取り上げられ、沿線自治体による誘致合戦が始まった。は港湾連絡を名目に分岐線を要望し、は工業輸送を理由に停車駅を要求したため、計画は当初の2駅案から11駅案へ膨張したとされる[5]。
この時期に作成されたパンフレットでは、所要時間が『37分』から『29分』、さらに翌月には『32分±8分』へ変動しており、数字の安定しなさがむしろ期待感を高めたという。ある県職員は後年、『あの頃は速度より“県勢”が走っていた』と回想している。
幻の技術検討[編集]
にはの外郭研究班が、芸備新幹線向けに「急勾配区間での磁気補助推進」を検討したとされる。これは、付近の複雑な地形を新幹線車両だけで突破するのは困難であるとして、下り坂では通常運転、上り坂では地中のコイルが押し上げるという、きわめて野心的な方式であった[6]。
ただし、試算書の余白には『コイルの保守費が路線工費を上回る可能性あり』と走り書きがあり、会議では一度も正式議題に上らなかった。にもかかわらず、この構想だけが地元紙で独り歩きし、「世界初の山岳ハイブリッド新幹線」と報じられたことが、のちの誤解を生んだとされる。
計画ルート[編集]
芸備新幹線の本線は、を起点に付近を経てへ北上し、山地を抜けて、最終的にへ至る計画だったとされる。途中、には「災害時のみ営業する非常用駅」、には「冬季だけ開くスキー客専用ホーム」が置かれる想定であった[7]。
また、別案として方面へ分岐する「芸備南支線」、へ抜ける「陰陽連絡構想」、さらにはの造船所へ物資を運ぶ貨物専用複線も描かれていた。地元資料館に残る模造図では、路線図の余白に手書きで『ここまで来ると山陽の意味がない』と記されている。
社会的影響[編集]
芸備新幹線は、実現しなかったにもかかわらず、の都市間競争の言語を変えたとされる。以後、自治体の要望書には『新幹線で何分』という表現が急増し、の交通白書では、実在しない路線を前提にした経済波及効果が11ページにわたって試算された[8]。
一方で、沿線の中小駅では「将来は新幹線駅になる」という期待から改札機を先に新設した例があり、周辺では駅前の文具店が『新幹線記念えんぴつ』を自主製作して年間3,200本を売り上げたという。なお、この数字は当時の商工会資料にのみ現れ、他資料で裏付けが取れていない。
批判と論争[編集]
批判の中心は、費用対効果よりも「そもそも本当に必要なのか」という点にあった。の一部担当者は、芸備新幹線が開通すれば広島—岡山間の移動が速くなる一方、途中駅の半数が『通過される前提で作られる』と指摘したとされる[9]。
また、の公開討論会では、地元経済界の重鎮が「新幹線は地域を結ぶのではない、会議を増やすのだ」と発言し、会場が拍手と苦笑に包まれたという。これに対し、若手推進派は『会議が増えるなら、それも地域交通である』と応じたが、後に議事録からその一文だけが妙に丁寧な筆致で書き換えられていた。
その後[編集]
に入ると、芸備新幹線は正式な国策候補から外れたが、構想そのものは完全には消えず、や高校の文化祭、さらにはの一部再開発提案書に断片的に残った。には旧国鉄関係者の座談会で『芸備新幹線があれば景色は速かった』という謎めいた発言が記録され、再び小さな注目を集めた[10]。
現在では、実際の路線建設よりも「中国地方の未完の近代化」を象徴する言葉として扱われることが多い。ただしの一部では、今も年に一度、地元商店街が勝手に「芸備新幹線開業日」を祝う催しを行っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『芸備地区高速連絡線私案』中国地方高速鉄道調査会資料集, 1969年.
- ^ 広島大学交通史研究室『中国山地における高速鉄道構想の変遷』交通学評論 Vol.12, No.3, 1977年, pp.45-67.
- ^ 小林澄夫『芸備新幹線と地域政治』広島県地方史研究会, 1981年.
- ^ M. Thornton, The Geibi Corridor and the Politics of Speed, Journal of East Asian Transport Studies, Vol.8, No.2, 1984, pp.101-129.
- ^ 中国経済連合会 編『広島—岡山間速達化の経済効果試算』中経出版, 1978年.
- ^ 佐伯和彦『山岳新幹線の幻想と現実』鉄道技術月報 第41巻第7号, 1976年, pp.12-19.
- ^ A. R. Fletcher, “Magnetic Assist on Grade-Bound Shinkansen Lines,” Railway Engineering Review, Vol.19, No.1, 1978, pp.3-21.
- ^ 広島県企画部『昭和53年度交通白書』広島県庁, 1978年.
- ^ 小川藤左衛門『高速交通は誰のためか』中国地方経済懇話会講演録, 1979年.
- ^ 高橋文子『未成線資料にみる地方博覧会の想像力』地方資料学会誌 第6巻第4号, 1994年, pp.88-93.
外部リンク
- 中国地方未成線アーカイブ
- 広島交通史デジタル資料館
- 芸備新幹線研究会
- 地方鉄道構想図書室
- 山陽・山陰連絡計画年表