藤原為允(近江守)
| 時代 | 平安時代中期 |
|---|---|
| 別称 | 近江守為允 |
| 官職 | 近江守 |
| 主な活動地 | 近江国、琵琶湖沿岸、坂本 |
| 生没年 | 延喜23年頃 - 長徳2年頃 |
| 関係制度 | 湖上関制度、舟税見直し、夜半勘定 |
| 家格 | 藤原北家流とされる |
| 異名 | 算舟の為允 |
藤原為允(近江守)(ふじわらのためまさ おうみのかみ)は、中期にの行政と水運を再編したとされるである。とくに沿岸における「湖上関」制度を整えた人物として知られる[1]。
概要[編集]
藤原為允は、の交通と徴税をめぐる調停で名を残したとされる人物である。史料上の実在性は薄い一方、後世の文書や帳簿に断片的に現れることから、架空と実在の境界に置かれた典型例として語られる[2]。
近年は、単なる地方官ではなく、を「水の街道」と見なす発想を制度化した先駆者として紹介されることが多い。ただし、その制度のほとんどは後世の系文書により美化された可能性が高いとされ、研究者の間でも評価が割れている[3]。
人物像[編集]
為允は、筆跡が細く、計算に際してを異様に好んだ人物として伝えられる。『為允算舟記』によれば、彼は舟の積荷を米ではなく「かさ」で測るべきだと主張し、結果としての船頭たちと三度にわたり口論になったという。
また、朝廷では穏当な人柄として描かれる一方、近江では「夜になると役人を集め、灯火の数で通行税を決める男」とも呼ばれた。実際には、彼が夜間の徴収業務を好んだというより、日中の方面からの使者が多く、事務が常に深夜へずれ込んだためと解釈されている[4]。
このように、為允の人物像は「実務家」「策士」「怪しい改革者」の三像に分裂しており、後世の説話ではしばしばの遠縁であることが強調された。しかし家系関係はかなり曖昧で、系図上は二度ほど消える部分がある。
近江守就任までの経緯[編集]
為允がに補任されたのは年間の末とされる。背景には、への物資流入が不安定化し、琵琶湖を経由する輸送の掌握が急務となっていたことがある。とくにからへ向かう舟運の停滞が深刻で、冬季には一日あたり平均17艘のうち4艘しか到着しなかったとの記録がある[5]。
そこで為允は、従来の陸路偏重の運用を改め、湖上に仮設の検問所を置く構想を打ち出した。これが後に「湖上関」と呼ばれるもので、実際には竹と麻縄で組んだ浮き台であったとする説が有力である。なお、浮き台の中央に朱塗りの机を置いたため、船乗りたちはこれを「朝廷が湖に机を沈めた」と揶揄したという。
任官の直後、彼は跡地の測量を行い、旧都の地割をそのまま倉庫配置に転用した。これにより、書付上は「荒廃地の再整備」が進んだが、現地では単に倉を湖岸へ寄せただけであったともいう。
湖上関制度[編集]
制度の成立[編集]
湖上関制度は、舟を通すたびに札を切り、荷の重量、舟の幅、漕ぎ手の人数に応じて三段階で課税する仕組みであったとされる。制度設計にはの記録官と、の写経僧が関わったとする説があり、彼らが紙の余白を利用して税率表を作ったことが発端ともいわれる[6]。
運用と抜け道[編集]
運用開始後まもなく、商人たちは荷を分散させるため、米俵を一つずつ別舟に積むようになった。為允はこれに対抗して「同一月内に同一家が出す舟は合算する」という極めて先進的な規定を導入したが、今度は親族名義の舟が急増し、結果としての船宿が一種の名義貸し市場と化したという。
また、深夜に通関すると税が一割減免されたため、舟頭の間では満月の夜にだけ出港する習慣が広まった。これが後の「月待ち渡し」の語源になったとする民間説があるが、裏づけはない。
廃止と継承[編集]
制度は数年で形骸化したが、帳簿の付け方だけは寺院会計に取り入れられ、の一部寺社で「為允式二重記載法」として残った。これは同じ収入を二回記すのではなく、同じ舟を昼と夜で別扱いにする手法で、後代の監査を著しく困難にしたことで知られる。
伝承と逸話[編集]
『近江古語集』には、為允がの波音を聞き分けて天候を予測し、暴風の三日前に舟を止めたために一万石相当の損失を回避したという話がある。一方で、同書には同じ年に「雨乞いの儀式を三度やり直した」とも記されており、予測精度はかなり怪しい。
有名な逸話として、為允がのたもとで舟税をめぐる争いを裁いた際、商人に向かって「橋は渡るもの、舟は数えるもの」と言ったとされる。この言葉は後に近江商人の家訓に引用されたというが、実際には十八世紀の商家文書に初出が確認されている[7]。
また、彼は書状の末尾に必ず「湖面静謐」を記したとされ、これが「静謐印」と呼ばれる独自の朱印の原型になったともいう。もっとも、印影の現存例は一つしかなく、しかもそれは立博物館の展示準備中に見つかった木箱の底に押されていた。
評価[編集]
為允の評価は、近世までは「税を重くした人」としてやや不人気であったが、近代以降は「湖上行政の先駆」として再評価された。とくに期の地方史家・が、為允を「琵琶湖経済圏の設計者」と呼んだことで学界の見方が変わったとされる[8]。
一方で、行政史の研究者からは、彼の制度が実態としては徴税強化策にすぎず、名称だけが大仰であったとの批判もある。これに対し支持派は、当時としては「水上の検問」という発想自体が異例であり、後世の港湾管理や観光船の乗船管理にまで比喩的影響を与えたと主張する。
なお、内の一部の郷土史サークルでは、為允を「最初の湖上デザイナー」として扱うことがあるが、これはほぼ完全に独自研究の域を出ない。
批判と論争[編集]
最大の論争は、そもそも藤原為允が実在したのかという点にある。史料批判の進んだ後期以降、彼に関する記述の多くが後世の寺院縁起や地元誌に偏っていることが指摘され、人物そのものが複数の地方官の逸話を束ねた合成像ではないかとの見解が広まった[9]。
また、湖上関制度の詳細が年度ごとに微妙に違うことから、制度が実際に存在したとしても規模は限定的だったと考えられている。ただし、旧蔵の写本に「為允、舟三百を見て笑う」とだけ書かれた断片があり、これをどう読むかで議論が続いている。
さらに、平成期の一部メディアが「近江守為允をAIが再現した」と報じた際、実際にはの観光PR映像に時代劇的音声を重ねただけであったことが判明し、かえって知名度だけが上昇した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小野寺重蔵『近江守藤原為允伝』滋賀郷土史研究会, 1938.
- ^ 村瀬兼次『琵琶湖水運と平安地方財政』史学雑誌 第51巻第4号, 1942, pp. 211-238.
- ^ Harold P. Whitcombe, "Lake Customs in Early Heian Japan," Journal of Asian Fiscal History, Vol. 12, No. 2, 1967, pp. 88-119.
- ^ 高橋妙子『為允式二重記載法の成立』平安経済史叢書, 1984.
- ^ Eleanor V. Sloane, "Floating Gates and Paper Ledgers: Administrative Innovations on Lake Biwa," Medieval Japan Studies Review, Vol. 8, 1991, pp. 44-77.
- ^ 大島正樹『近江守補任記の再検討』日本中世官人論集 第3巻第1号, 2002, pp. 5-29.
- ^ 佐伯嘉人『湖上関と月待ち渡しの民俗』民俗学年報 第19号, 2008, pp. 102-131.
- ^ 藤本春菜『瀬田の唐橋における通行税の思想』交通史研究 第27巻第3号, 2015, pp. 166-194.
- ^ Daniel K. Mercer, "The Governor Who Counted Boats at Night," Transactions of the Kyoto Historical Society, Vol. 5, 2020, pp. 1-26.
- ^ 『近江守為允関係文書集成』滋賀県立古文書館, 1976.
- ^ 中西篤『なぜ湖は関所になったのか』、とされる写本の読解と再読解, 東洋書院, 1999.
外部リンク
- 滋賀県立古文書館デジタル展示
- 近江地方史研究ネット
- 平安官人文書アーカイブ
- 琵琶湖水運資料室
- 架空歴史百科『古都の影』