藤本仁胡
| 生誕 | 1914年 |
|---|---|
| 死没 | 1987年 |
| 出身地 | 静岡県浜名郡(現・浜松市周辺とされる) |
| 国籍 | 日本 |
| 研究分野 | 気象工学、微細風速測定、都市上昇気流学 |
| 所属 | 内務省風洞調査所、東京帝国大学臨時気圧研究班 |
| 主な業績 | 仁胡式反転観測網の確立、紙旗式風向補正盤の考案 |
| 影響 | 戦後の高層建築気流設計および屋上風見文化に影響 |
藤本仁胡(ふじもと にこ、 - )は、の者、の先駆者である。とくに、を利用した「仁胡式反転観測網」の創始者として知られる[1]。
概要[編集]
藤本仁胡は、前期から戦後復興期にかけて活動したとされる者であり、特に都市部に発生する微小な上昇気流を観測・分類する体系を築いた人物として語られている。彼女の研究は、当時の系技術官僚の間で半ば冗談、半ば実務として受け入れられ、やがての高層建築計画や港湾設計にも参照されたとする説がある[2]。
もっとも、藤本の名が広く知られるようになったのは、学術的業績よりも、彼女が持ち歩いていたとされる「木製の小型風鳴箱」と、風速が0.3メートル毎秒を下回ると自動的に鈴を鳴らすという奇妙な装置である。これが後年、の企画展で再評価され、都市気流研究の黎明期における象徴的人物として扱われるようになった[3]。
生涯[編集]
幼少期と進学[編集]
藤本はの浜名郡に生まれたとされる。幼少期から周辺の強い季節風に興味を示し、12歳のころには自宅の縁側に和紙を張り、風向きごとのたわみ方を記録していたという。近隣の尋常小学校では、理科の授業で使われる紙旗があまりにも正確に倒れるため、教師が「気圧ではなく性格の問題である」と মন্তব্যしたという逸話が残る[4]。
に進んだ後、藤本は物理学ではなく、当時まだ独立した学問として扱われていなかった「風のふるまいの家政学」を独学で学んだとされる。卒業論文は『台所換気と洗濯物乾燥速度の相関』であったが、審査委員の一人が「統計は立派だが、結論が妙に誠実すぎる」と評したという。
研究者としての活動[編集]
、藤本はの嘱託技師となり、の下町における建物間風速の測定に携わった。彼女は当初、計測器の誤差を減らすために、測定地点の周囲に白線を引き、その上を通過する落ち葉の数を補助指標にする方法を提案したが、これは「きわめて日本的な前処理」として歓迎された一方、後に測定班の事務官から「落ち葉係」の予算が独立項目になったことで有名である[5]。
には、の旧書店街で収集した風向標の鉄片を用いて、紙旗式風向補正盤を作成した。この装置は、風向が不安定な夜間でも周囲の気配からおおよその風位を推定できるとして注目されたが、実際には使用者の勘が7割を占めていたと伝えられる。
戦後の展開[編集]
、藤本はの臨時気圧研究班に招かれ、戦災復興地区における「空き地風」の調査を担当した。この調査で彼女は、焼け跡に生じる風の抜け道が、周辺住民の洗濯、配給列、子どもの凧揚げにまで影響することを示し、都市設計における風の社会性を主張したのである。
一方で、同班が提出した報告書『戦災都市における微風の倫理』は、用語が難解すぎたため、内部では「風が善悪を持つとは何事か」として半ば回収対象になった。藤本自身はこれを気にせず、むしろ「風には責任がある」と講演で繰り返したため、聴衆の一部からは半ば宗教家のように扱われた。
仁胡式反転観測網[編集]
藤本の最大の業績とされるのが、に提唱された「仁胡式反転観測網」である。これは、地上の風向計だけでなく、屋上、階段踊り場、物干し台、さらには豆腐店の軒先までを観測点として結び、都市全体の風を立体的に読むという方法であった。観測点は最盛期にはで84か所、地方都市を含めると217か所に達したとされる[6]。
この方式の奇妙な点は、各観測点に配置された「逆向き風車」が、実際の風向ではなく周囲の人間の歩行速度に反応して回転することである。藤本はこれを欠陥ではなく「都市が自ら発する気流の自白」とみなし、以後の報告書では風向と混雑度を並列表記する独自の図表を用いた。なお、の一部部署が交通整理に応用しようとした記録があるが、実用化の直前に「回転数が人情に左右される」として見送られている[7]。
社会的影響[編集]
藤本の研究は、都市計画や建築の分野に限定されず、茶道、屋台経営、学校の窓開け当番など、風の出入りに関わるあらゆる実務へ波及したとされる。とりわけ後半には、の若手会員の間で「風を読むことは都市を読むことに等しい」という標語が流行し、会合のたびに扇子を使って気流を再現する風習が生まれた[8]。
また、藤本が提案した「風鈴による騒音・風速の同時観測」は、一部ので理科教材として採用された。もっとも、児童が風鈴を鳴らすこと自体を目的化してしまい、観測より合奏が活発になったため、教育委員会が「観測目的を逸脱している」と通達したという。これに対し藤本は「逸脱こそ風の本性である」と答えたとされ、以後この発言は引用だけが独り歩きしている。
批判と論争[編集]
藤本の業績には、発表当初から批判も多かった。特に、測定値の補正に季節の匂いや近隣の干し物の枚数を用いたことから、気象学教室の一部研究者は「統計学の衣を着た生活観察である」と批判した[9]。さらに、彼女の図表にはしばしば手描きの鳥や洗濯ばさみが付記されており、これが学術性を損なうとされたのである。
ただし、後年の再評価では、これらの要素が都市環境を定性的に捉える先駆的手法だったと見る向きもある。なお、1963年の講演『風はいつも右から来るとは限らない』は、実際には右から来る風について何も論じていないが、題名のインパクトだけで地方紙に大きく取り上げられた。これが藤本の名を一般層に広めた決定的な要因であったともいわれる。
晩年[編集]
に入ると、藤本は第一線の研究から退き、主として講演活動と装置の収集に専念した。晩年はの木造住宅で暮らし、庭先に設置した十数基の風向計を毎朝いちいち名指しで点検していたという。近隣住民によれば、雨の日でも「今日は北東が不機嫌である」などと独り言を漏らしていたが、これを聞いた犬が吠えると風向が変わったため、かえって信憑性が増したとされる。
に死去。遺品の整理の際、段ボール箱から未発表ノート『微風における沈黙の等級』が発見されたが、内容の大半が天気予報欄への書き込みと、なぜかの百貨店の包装紙に関する考察であったため、学会誌では短報扱いとなった。
評価[編集]
藤本仁胡は、近代における風の観測を「数値」から「生活」に引き戻した人物として評価されている。特に、都市の風を単なる物理現象ではなく、通勤、買い物、洗濯、避難行動にまたがる複合的現象として捉えた点は、後のやにも影響を与えたとされる[10]。
一方で、その業績の一部は神話化されており、実在した研究成果と講談調の逸話の境界は曖昧である。もっとも、この曖昧さ自体が藤本の研究対象であった風の性質とよく似ているため、近年では「藤本仁胡は方法論そのものが伝説化した稀有な人物」と総括されることが多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯澄江『都市風速観測史』風鳴書房, 1998.
- ^ Harold T. Vance, "Reversing the Wind: Fujimoto's Urban Circulation Theory", Journal of Applied Meteoric Studies, Vol. 12, No. 3, 1964, pp. 201-229.
- ^ 黒田雅彦『戦災復興と空き地風』景観科学社, 2007.
- ^ A. M. Ellerton, "Paper Flags and Civic Drafts in Postwar Tokyo", Bulletin of the East Asian Environmental History, Vol. 4, No. 1, 1971, pp. 44-58.
- ^ 藤本仁胡『微風における沈黙の等級』未刊稿, 1986.
- ^ 中井千鶴『風と家政の近代史』中央出版, 2011.
- ^ Mireille Dufour, "Urban Updrafts and the Ethics of Measurement", Proceedings of the International Society for Atmospheric Design, Vol. 19, No. 2, 1980, pp. 88-117.
- ^ 『戦災都市における微風の倫理』東京帝国大学臨時気圧研究班報告第7号, 1948.
- ^ 平山一郎『風鈴教材の成立と逸脱』教育実践評論社, 1969.
- ^ Keiji Morimoto, "A Study on the Human-Led Anemometer Networks in Japan", Asian Journal of Synthetic Meteorology, Vol. 6, No. 4, 1992, pp. 311-340.
外部リンク
- 国立風史研究センター
- 東京都市気流アーカイブ
- 浜名風俗資料館
- 日本微風学会
- 昭和風洞デジタル年表