血のクリスマス事件
| 分類 | 模倣連続事件(通称) |
|---|---|
| 発生日 | 1917年12月13日〜同月25日(報道集計) |
| 発生地域 | ・・の一部(とされる) |
| 関与組織 | 内務省警保局特別係(推定)ほか |
| 代表的手口 | 模造の祝祭装飾と偽の血痕 |
| 影響 | 郵便・新聞の検閲運用見直し(とされる) |
| 公式記録の所在 | 散逸・統合失念が指摘される(要出典) |
血のクリスマス事件(ちのくりすますじけん)は、の中旬にかけて各地で報告されたとされる、奇妙な模倣連続事件の総称である。事件名は、最初に発見された現場の壁面に残されていた「血液色の赤いもみの葉飾り」と、当時の新聞が用いた同日付の見出しに由来するとされる[1]。
概要[編集]
は、1917年冬に相次いで報じられた「赤いクリスマス装飾」と「血痕のような赤色」が結びつけられたことで成立した、いわば報道主導の事件史であるとされる。後世の整理では、実際の加害状況は一枚岩ではなく、互いに連動した可能性と偶然の重なりの可能性が併存するとされてきた。
名称は、の下町で「もみの葉飾りが壁から染み出すように見えた」と記した新聞記事(後に「比喩が過剰」と訂正)を起点として広まったとされる。特に「赤いもみの葉飾り」が“血の色”として語られたことから、専門家ではない読者にも理解しやすい通称が定着したと考えられている[2]。
この事件は、単なる犯罪としてではなく、当時の都市生活者が“祝祭の裏側”に恐怖を見出す心理構造、そして報道と行政がどのように連鎖するかを観察する素材として語られることが多い。なお、公式資料の欠落が多く、検証可能性は低いとされる一方で、なぜか目撃証言の細部だけは一致するという奇妙な性格を持つと指摘されている[3]。
概要[編集]
一覧化された報道件数は、一次資料の再集計により総計で「」とする説がある一方、「」とする説も存在する。集計方法が時期・媒体・地理区分により揺れるためであるとされるが、いずれにせよ年末の僅かに集中している点が特徴とされる。
当時の行政側は、事件の実態が一つの組織によるものか、複数の模倣者によるものかを判別できないまま、まずは「祝祭装飾の流通」と「郵便物の封緘」に焦点が当てられたと推定されている。内務省系の文書では、郵便封緘率の低下が「祝祭恐怖の伝播速度」とみなされたとする記述が見つかったとされるが、現存性は確認しがたい[4]。
このような経緯から、事件の“核”は血痕そのものではなく、赤色をめぐる誤認と拡散にあるとする見方が有力である。実際、赤色の成分が均一に見える写真が多いことが報告されているが、写真乾板の保存条件が揃っていないため、科学的には疑義があるとされる[5]。
歴史[編集]
発生の遠因:祝祭装飾検査令と“色の恐怖”[編集]
1917年以前、に類する祝祭装飾は都市部で増加していたとされ、商店街では「赤い飾り」が子どもに人気化していたという。ところが同年、の関連部局で「衛生上の赤色染料に関する簡易検査」が導入されたとする伝承がある。検査はわずかで形骸化したとされるが、その間に“赤の規格”を巡る噂が広がったと推定される。
噂は、赤色染料に“腐食性”がある可能性を示唆したという点で、当時の生活不安と接続したと考えられている。結果として、赤い装飾が置かれた現場は「偶然でも不吉」と受け止められやすくなったとされ、の温床になったと指摘される[6]。
さらに、地方紙の編集者の間では「恐怖の比喩を使いすぎると読者が離れる」という暗黙の了解があった。しかし年末には検閲の運用が強まり、記事は短く、表現は強くなる傾向があったとされる。この“短文の恐怖化”が、後日の事件名を決定づけたという説がある[7]。
連鎖の起点:1917年12月13日・【東京府】下町の「赤いもみの葉」[編集]
起点とされるのは、内の下町、港に近い運河沿いの倉庫街(地名は当時の呼称でと記される資料がある)での出来事である。12月13日の夜、倉庫の入口に飾られたもみの葉が、壁に沿って滲むように見えたという通報があったとされる。
調べに入った巡査は、血痕と見える赤色を拭った布が翌朝も硬かったと記録したとされ、ここから「粘性のある血液代替物」説が出回った。しかも現場では、もみの葉飾りの針金がだけ新しく結び直されていたという。さらに、倉庫の床に落ちた“赤い粉”が、定規で測ると一辺の薄片状に固まっていたとする目撃証言が後に引用された[8]。
ただし、この数値群は後世の再編集で整えられた可能性があるとされる。実際、複数媒体で同じ数値が一致しすぎており、「編集者が安全に記述できる“物差し”を用いた」可能性が指摘されている(要出典)[9]。
拡大:郵便・新聞の“色の伝播”仮説と模倣事件の増殖[編集]
事件は翌日以降、との一部にも飛び火したとされる。特にでは、12月17日に宗教施設の倉庫で「赤いリボンが天井から垂れていた」と報じられ、12月19日には北方の町で「もみの葉飾りが雪に引きずられて赤い筋を作った」という記事が出たとされる。
このとき注目されたのが、郵便経路での混入疑惑である。内務省系の文書では「赤色染料に見えるものが郵便袋に付着した」とする“色の伝播”仮説がまとめられたとされるが、科学的検証は十分ではなかったとされる[10]。
また、模倣が増えた理由として、新聞の見出しがあまりに覚えやすかった点が挙げられる。たとえば各紙で共通して用いられたのが「血のクリスマス」という4語だけである。さらに、見出しの配置が毎回同じ—上段に中央見出し、下段に“詳細は次号”という余白—だったため、読者が連続記事を追いやすかったと推測されている[11]。
終息:12月25日・“祝祭の沈黙”と検閲強化の副作用[編集]
12月25日、事件は唐突に沈静化したとされる。最後の目撃として記録されるのは、に近い宿場町で「もみの葉飾りが飾られたが、誰も近づかなかった」という報告である。報道は翌日付であっさり締めくくられ、「赤色の件は誤認の疑い」とする補足が小さく掲載されたという[12]。
終息の理由は複数挙げられている。第一に、街頭での“赤色規格”の検査が再導入され、飾りの流通が抑制されたと推定される。第二に、郵便袋の封緘率が一時的に上がり、伝播仮説が“疑わしいが困る”段階で止まったとされる。
ただし副作用として、年末年始に届かない手紙が増え、商業界では「祝祭通信の遅延」が問題になったとされる。結果として行政は、事件そのものの真相ではなく、“恐怖を増幅しない運用”へと方針転換したと考えられている。なお、この方針転換を裏づける一次資料は散逸しているとされる[13]。
批判と論争[編集]
事件の真偽をめぐっては、「そもそも統一犯が存在したのか」という疑問が繰り返し提示されている。なぜなら、現場ごとに赤色の“見え方”が違うはずなのに、目撃証言の形容がやけに似通っているからである。たとえば「壁に沿って滲む」「雪に引きずられ筋になる」「リボンが垂れる」といった表現は媒体をまたいで類似し、これは偶然としては不自然とされる[14]。
また、事件名があまりに詩的である点も論争の種になった。「血のクリスマス」という語が出たことで、報道は“読者の想像力”を刺激しすぎたのではないかという批判である。一方で擁護側は、当時の読者にとっては“すでに目に入っている赤”を比喩として整理する必要があったと主張したとされる。
さらに、科学的観点からは、血液代替物の成分推定が難しいという指摘がある。写真乾板が同じ工房で処理された可能性があるため、色味が揃って見えたのではないかという説があるが、これも確証に乏しい。要するに、は「事実の検証」よりも「恐怖の伝播のモデル」として語られやすい構造を持つとされ、学術界では評価が分かれている[15]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『年末都市の比喩恐怖』博文社, 1919.
- ^ Margaret A. Thornton『Media-Driven Panic in Early Twentieth-Century Cities』Oxford University Press, 1932.
- ^ 内田文左衛門『内務省警保局の裏面記録(推定)』東京書房, 1921.
- ^ Eiko Matsumura『Chromatic Regulation and Public Anxiety』Cambridge Scholars, 2007.
- ^ 古川礼三『検閲下の見出し設計:1910年代の新聞編集』青藍堂, 1956.
- ^ S. R. Havelock『Postal Seals and Rumor Propagation』Journal of Urban Communications, Vol. 12, No. 3, pp. 201-219, 1974.
- ^ 山口邦男『事件名が先に走る:大正期の呼称形成』国書刊行会, 1988.
- ^ 【タイトル】『血のように見える赤色:乾板色の比較』日本写真学会, 第4巻第1号, pp. 55-66, 1931.
- ^ クロスビー・J・E『恐怖の四語:見出しの記憶効率』Princeton Review, Vol. 8, No. 2, pp. 77-90, 1961.
外部リンク
- 衛生史料アーカイブ
- 都市恐怖研究フォーラム
- 新聞見出し復刻サイト
- 乾板色調データベース
- 郵便制度史の館