衆議院乱闘事件
| 名称/正式名称 | 衆議院乱闘事件 / 国会議事堂内議場秩序崩壊事案 |
|---|---|
| 日付 | 1978年11月16日 |
| 時間 | 午後2時17分ごろ - 2時41分ごろ |
| 場所 | 東京都千代田区永田町1-7-1 国会議事堂 衆議院本会議場 |
| 緯度経度 | 35.6751度, 139.7437度 |
| 概要 | 本会議中に与野党双方の議員団が座席配置をめぐって衝突し、議長席付近で集団的な押し合い・投げ合い・書類散乱が発生した事件 |
| 標的 | 議事進行の遮断、採決権限の奪取 |
| 手段/武器 | 木製議事棒、紙束、ネクタイ、折りたたみ椅子の転用 |
| 犯人 | 複数の議員および秘書官補助員 |
| 容疑 | 公務執行妨害、傷害、建造物内秩序攪乱 |
| 動機 | 委員会付託をめぐる採決阻止および派閥間の面子争い |
| 死亡/損害 | 死者0名、重軽傷24名、議場備品37点損壊、議案書類412枚紛失 |
衆議院乱闘事件(しゅうぎいんらんとうじけん)は、(53年)にので発生したである[1]。警察庁による正式名称は「国会議事堂内議場秩序崩壊事案」で、通称では「衆議院乱闘事件」と呼ばれる[2]。
概要[編集]
衆議院乱闘事件は、の会期末に起きたである。議場内での多数派工作が行き詰まる中、採決の可否をめぐって議員団が接触し、最終的に本会議場が一時的に封鎖された[1]。
事件は永田町ので発生し、は後日、議員11名と事務局関係者3名を事情聴取したとされる。なお、当時の記録映像の一部はのアーカイブに残されているが、音声が意図的に消されている箇所が多く、現在でも検証が困難である[2]。
背景[編集]
議事堂内の「静かな武装化」[編集]
事件の背景には、後半に広がった議場内の「静かな武装化」と呼ばれる慣行がある。これは実際の武器を持ち込む意味ではなく、議員が議事書類を厚く綴じたファイル、金属製の鉛筆削り、席札立てなどを防御具として用いる独特の文化を指すとされる[3]。
事務局の内部文書によれば、当時の与野党対立はを飛ばして本会議で採決を強行する慣例が連鎖し、議場内の緊張が日常化していた。後年の研究では、これを「日本型議会ボディコンタクトの初期形態」と呼ぶ説もある。
派閥間の誤送信[編集]
直接の引き金は、採決時刻を記した連絡票が10時台に誤って別派閥へ送付されたことである。これにより、ある派閥は「先に議長席を確保すれば議事日程を制した」と判断し、議員12名が座席から同時に立ち上がった[4]。
このとき使用された「議事妨害メモ」は、通常の付箋紙ではなく、印の厚手帳票の裏面が流用されていたため、揉み合いの中で鋭利な紙縁が被害者の頬を切ったと報告されている。要出典とされるが、当時の秘書官証言には複数の一致がある。
経緯[編集]
発生当日の動き[編集]
午後2時過ぎ、衆議院本会議場では採決順序をめぐる議長裁定が保留されていた。午後2時17分ごろ、与党側の先頭議員が議長席へ接近し、これに野党側が立ちはだかったことで、議員同士の押し合いが始まった[1]。
午後2時23分には書類束が空中に投げられ、午後2時28分ごろには演壇付近でネクタイを引き合う場面が記録されている。午後2時41分、議長席背後の花瓶が倒れたことで警備要員が介入し、事態はようやく収束した。なお、花瓶の破片は後にで「議会摩擦の象徴」として展示されたとされる。
現場の混乱[編集]
現場では、議員の一部が自らの座席番号を叫びながら移動したため、傍聴席からは「競技会のようだった」と目撃証言が残る。通報は議場内の経由で行われたが、当直係員が「演説会の一部」と誤認したため、初動が3分遅れた[5]。
また、議案書の束を押さえようとした事務局職員2名が床面のワックスで滑り、結果的に乱闘の拡大を防いだという説がある。これは後に「床面中立効果」と呼ばれ、議会安全論の古典例として引用されることになる。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
は事件翌日、に特別取扱班を設置し、議場内の動線と着席順を再現する捜査を開始した。捜査官は事務局が保管していた椅子の擦痕、紙片の折れ角、ネクタイの結び目の強度を証拠として採用した[6]。
当初は「自然発生的な騒擾」と見なす見解もあったが、議員の一人が会期前夜に周辺の喫茶店で「今期は座席が先だ」と発言していたことから、計画性が疑われた。
遺留品[編集]
遺留品として最も有名なのは、議長席横で発見された朱肉の付いたである。そこには指紋が17名分重なって残されており、専門家は「紙面が最も激しく争われた痕跡」であると分析した[7]。
ほかに、片方だけ残った革手袋、ちぎれたバッジ、そしてなぜか冷めたままのが回収された。特に緑茶については、乱闘開始前から置かれていたにもかかわらず最後まで倒れなかったことから、のちに「不動茶」と呼ばれ、議事堂内の守り神扱いになったという。
被害者[編集]
直接の被害者は、転倒で腰部を打撲した議員9名、頬部を紙縁で切った議員6名、眼鏡破損により視界を失った会派職員5名である。なお、傍聴席にいた記者3名も取材メモを奪われる形で被害申告をしている[8]。
最も重症とされたのは、議長補佐を務めていたで、採決札の束を守ろうとして両手の親指を捻挫した。本人は後年、「痛みよりも、議場で名札が曲がったことの方がつらかった」と供述している。
また、精神的被害として、議場の時計が30秒ずれたことによる「時間感覚の喪失」を訴える議員が続出した。事件後、議員宿舎ではしばらくの間、紙コップではなく割れにくい陶器製湯のみが支給されたという。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
初公判は(54年)、で開かれた。起訴内容は公務執行妨害、傷害、建造物内秩序攪乱の3点で、被告席には議員7名が並んだ[9]。
検察側は「犯行は偶発的に見えるが、議場への再入場を複数回試みた時点で故意性が認められる」と主張した。一方、弁護側は「これは乱闘ではなく、議事進行に対する過剰な身体的意見表明である」と反論し、法廷内で傍聴人の笑いを誘った。
第一審[編集]
第一審では、証拠として提出された椅子の脚の曲がり方が争点となった。裁判所は、1脚だけ異様に深く曲がっていた議場椅子を「過度の政治的圧迫が加わった物証」と認定し、主導的役割を担った3名に懲役8月から1年6月、執行猶予3年の判決を言い渡した[10]。
ただし、同時に「議会の緊張状態が行動を助長した可能性が高い」とも述べられ、量刑はかなり軽かったと批判されている。なお、判決文の注記欄には、裁判官が「議場用の机は想像以上に重い」と書き残していたとされる。
最終弁論[編集]
最終弁論で検察官は、「この事件は時代の空気ではなく、個々の被告の選択によって起きたである」と締めくくった。これに対し、被告側は「議場のルールが抽象化されすぎていた」として、制度設計の不備を強調した[11]。
最終的に上告は棄却され、事件はに確定したとされる。ただし、未だに一部の議員経験者は「当日は乱闘ではなく、立法手続の身体的確認だった」と回想しており、事件は半ば政治神話として語り継がれている。
影響[編集]
事件後、では議員同士の接近距離を管理する「議場間隔指針」が導入され、座席間に12センチの緩衝域が設けられた。また、議長席周辺には可動式の低柵が試験的に設置され、1980年代初頭の国会運営に大きな影響を与えた[12]。
社会的には、「国会は言葉の場であるべきか、身体の場でもありうるのか」という議論が広がり、新聞各紙は連日1面で報じた。特に夕刊の見出し「議場、ついに握手でなく押し合いへ」は、後に誇張表現の代表例として引用されている。
一方で、この事件以降、政治報道におけるカメラの望遠性能が向上し、議員の肩越しに見える「空気の緊張」まで可視化されるようになった。これが日本の国会中継文化を変えたとする研究もある。
評価[編集]
歴史家の間では、本事件は後の政治的疲労が議場内に噴出したものと評価されることが多い。とくにのは、これを「日本議会史上、最も短時間で最も多くの紙が飛んだ事件」と呼んだ[13]。
ただし、保守系の評論では「未熟な民主主義の象徴」として語られる一方、民俗学的には「近代日本における儀礼的衝突の一種」と捉える見方もある。なお、若年層の一部には、事件を題材にした再現ドラマの影響で、衆議院を「座席取りゲームの最高峰」と誤解する者がいるという。
一方で、事件の真相については、乱闘そのものよりも「誰が最初に議長席へ触れたか」をめぐる証言が食い違っており、現在でも未解決の細部が残る。
関連事件・類似事件[編集]
類似の事例としては、の、の、のなどが挙げられる[14]。
また、国外ではの議会で起きたとされる「パスタ投擲騒擾」や、の下院における「帽子接触事件」が比較対象としてしばしば引用される。もっとも、これらは比較法上の便宜的呼称であり、実際の暴力性は衆議院乱闘事件の方がやや地味であったとされる。
なお、事件を模したでの再現パフォーマンスが後半に各地で行われたが、いずれも本件ほどの迫真性はなかったと記録されている。
関連作品[編集]
書籍[編集]
『』(、)は、事件を契機に議会規律を論じたルポルタージュである。付録に議場椅子の強度比較表が収録され、研究者の間で珍重された[15]。
また、『』(、)は、発生時刻を分単位で追ったノンフィクションとして知られる。著者はあとがきで「最も難しかったのは、誰が怒鳴ったかではなく、誰が最初に息を吸ったかであった」と記している。
映画・テレビ番組[編集]
映画『』(、)は、事件を大幅に脚色した政治サスペンスである。乱闘シーンはすべてスローモーションで描かれ、議長席の花瓶だけが妙に実物大で再現された[16]。
テレビ番組では「」が代表的で、再現VTRに出演した俳優がネクタイを引きちぎる場面が話題になった。なお、深夜枠で放送されたバラエティ版では、議場の机がバラエティ用に軽量化され、歴史再現としては不正確であると批判された。
脚注[編集]
[1] 衆議院事務局『第85回国会議事録・特別整理版』1979年. [2] 警察庁警備局『国会周辺騒擾事案の分析』1981年. [3] 西園寺隆一「議場内防御文化の形成」『法政史研究』Vol.14, No.2, 1984年, pp. 33-57. [4] 竹村義彦「誤送信と集団行動の相関」『現代政治行動学』第7巻第1号, 1980年, pp. 11-29. [5] 東京都警察史編纂委員会『麹町警察署年報』1980年版. [6] 黒田美沙子『証拠としての椅子』中央法規出版, 1986年. [7] Richard P. Holloway, "Paper Friction and Parliamentary Disorder", Journal of Civic Incidents, Vol. 9, No. 4, 1987, pp. 201-219. [8] 佐々木茂「被害申告の曖昧性について」『報道倫理と現場記録』第12巻第3号, 1982年, pp. 88-103. [9] 東京地方裁判所判決録『国会議事堂内秩序攪乱事件』1980年. [10] 渡部幸雄『議会暴力の刑事法的検討』有斐閣, 1989年. [11] 中島礼子「最終弁論における制度批判」『刑事訴訟と政治』Vol.21, No.1, 1990年, pp. 5-18. [12] 国会安全研究会『議場間隔指針の導入効果』1985年. [13] 西園寺隆一『日本議会史の断層』岩波書店, 1993年. [14] 松浦健一「議会騒擾事件の比較史」『比較政治と秩序』第5巻第2号, 1995年, pp. 41-66. [15] 佐伯真一『議場は戦場になりうるか』新潮社, 1983年. [16] 『映画年鑑 1999』日本映画出版協会, 1999年, pp. 412-413.
関連項目[編集]
時代の事件
脚注
- ^ 衆議院事務局『第85回国会議事録・特別整理版』1979年.
- ^ 警察庁警備局『国会周辺騒擾事案の分析』1981年.
- ^ 西園寺隆一「議場内防御文化の形成」『法政史研究』Vol.14, No.2, 1984年, pp. 33-57.
- ^ 竹村義彦「誤送信と集団行動の相関」『現代政治行動学』第7巻第1号, 1980年, pp. 11-29.
- ^ 黒田美沙子『証拠としての椅子』中央法規出版, 1986年.
- ^ Richard P. Holloway, "Paper Friction and Parliamentary Disorder", Journal of Civic Incidents, Vol. 9, No. 4, 1987, pp. 201-219.
- ^ 佐々木茂「被害申告の曖昧性について」『報道倫理と現場記録』第12巻第3号, 1982年, pp. 88-103.
- ^ 渡部幸雄『議会暴力の刑事法的検討』有斐閣, 1989年.
- ^ 中島礼子「最終弁論における制度批判」『刑事訴訟と政治』Vol.21, No.1, 1990年, pp. 5-18.
- ^ 国会安全研究会『議場間隔指針の導入効果』1985年.
- ^ 西園寺隆一『日本議会史の断層』岩波書店, 1993年.
- ^ 松浦健一「議会騒擾事件の比較史」『比較政治と秩序』第5巻第2号, 1995年, pp. 41-66.
外部リンク
- 国会議事録アーカイブ研究所
- 永田町事件資料館
- 議会秩序史デジタルコレクション
- 昭和政治騒擾年表
- 日本議会トラブル年鑑