西木岡 精十郎
| 人名 | 西木岡 精十郎 |
|---|---|
| 各国語表記 | Seijuro Nishioka |
| 画像 | Nishioka_Seijuro_portrait.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 首相在任末期に撮影されたとされる肖像 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | Japanese Flag |
| 職名 | 第42・43・44代内閣総理大臣 |
| 内閣 | 西木岡内閣、第一次改組内閣、第二次調整内閣 |
| 就任日 | 1948年3月12日 |
| 退任日 | 1955年11月28日 |
| 生年月日 | 1894年4月18日 |
| 没年月日 | 1967年9月3日 |
| 出生地 | 東京府下谷区 |
| 死没地 | 東京都世田谷区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
| 前職 | 大蔵省主税局調査官 |
| 所属政党 | 国民整備党 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 西木岡 由紀子 |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 西木岡 恒一(甥) |
| サイン | Seijuro_Nishioka_signature.svg |
西木岡 精十郎(にしきおか せいじゅうろう、{{旧字体|西木岡精十郎}}、[[1894年]]〈[[明治]]27年〉[[4月18日]] - [[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[9月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第42・43・44代[[内閣総理大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[逓信大臣]]、[[内務大臣]]を歴任した。
概説[編集]
西木岡 精十郎は、戦後日本の財政再建と通信制度の再編を掲げて台頭した政治家である。地方財界と官僚機構の双方に通じた「調整型の強権家」と評され、のちに第42・43・44代内閣総理大臣として6年余り政権を担った[1]。
生前は、税制を通じて社会秩序を設計する独特の政治手法で知られ、関係者のあいだでは「印紙で国を動かす男」とも呼ばれた。なお、西木岡が提唱したとされる「等差課税調停論」は、1950年代の大蔵省内に実在した研究会を母体に発展したとされるが、その初期文献の多くがなぜか私家版で残されており、研究者のあいだでも評価が割れている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
西木岡は[[1894年]]、[[東京府]][[下谷区]]の呉服商の家に[[に生まれる]]。西木岡家は近隣では比較的新しい商家であったが、祖父の代に[[日本橋]]の荷受問屋との取引を得てからは、帳場の正確さで知られるようになった。父・西木岡秀右衛門は元々[[海軍省]]の臨時雇いに[[所属]]していた経験があり、そのため家庭には官庁用語が妙に多かったと伝えられる。
幼少期の精十郎は算盤に異常な執着を示し、家族が夕食前に米俵を数えさせたところ、1俵ずつではなく「税率を含めて」数えたという逸話が残る。これが後年の財政観に結びついたとする説があるが、出典は主に回想録に依拠している[3]。
学生時代[編集]
西木岡は[[東京府立一中]]を経て[[東京帝国大学法科大学]]に[[入学]]し、[[1920年]]に卒業した。当時の同級生には後の法制官僚や新聞論説委員が多く、彼は弁論部ではなく「会計検査研究会」に[[に所属]]していたことで知られる。
在学中、欧州の戦時財政を研究する過程で、通貨流通と郵便制度の連動に強い関心を示した。とくに[[ベルリン]]の郵便貯金制度を論じたゼミ報告は教授陣に高く評価され、当時の指導教授・白石高彦は「彼は法学者というより、国家の帳尻を読む測量士である」と評したとされる。
政界入り[編集]
卒業後、西木岡は[[大蔵省]]に[[に所属]]し、主税局調査官を務めた。その後、[[1927年]]の金融不安を経て臨時税制整理委員会に抜擢され、税務行政の現場を歩いたことが政界入りの契機となった。
[[1932年]]、[[衆議院議員総選挙に立候補]]し、[[東京2区]]から無所属で[[に当選]]したのち、のちに[[国民整備党]]へ[[に転じた]]。初当選後まもなく、党内の若手官僚派を代表する論客として頭角を現し、[[1938年]]には党税制調査会長に[[に選出]]された。
大蔵大臣時代[編集]
西木岡は[[1941年]]、[[大蔵大臣]]に[[に就任]]し、戦時国債の整理と地方税の統合を推進した。閣僚としては歳入の平準化と印紙制度の拡張を推進したが、一方で「納税を道徳教育の一部として扱いすぎる」と批判され、商工団体との衝突も少なくなかった。
また、彼の在任期には、各府県に「臨時課税連絡箱」と呼ばれる木製の回覧箱が配布された。これは西木岡が自ら考案したとされ、税務署と郵便局を1本の回覧線で結ぶという発想であったが、実際には配達遅延が多発し、[[要出典]]ながらも「役所の情報経路を半日短縮した」と称賛する回想もある。
内閣総理大臣[編集]
敗戦後、西木岡は一時公職追放に近い扱いを受けたが、[[1948年]]に政界へ復帰し、同年[[3月12日]]、第42代[[内閣総理大臣]]に就任した。その後、[[1949年]]の総選挙で与党第一党を固め、1949年から1952年にかけて第一次改組内閣を率いた。
西木岡内閣は、復興金融公庫の資金配分を梃子に、鉄道・郵便・電話網の復旧を一体化させた「三線復元計画」を推し進めたことで知られる。また、[[1951年]]の対日講和交渉では、条約文の文言よりも「国内手続の整備」を優先したため、外務当局としばしば対立した。なお、彼は閣議で地図の縮尺を用いて予算配分を説明する癖があり、関係閣僚からは「縮尺内閣」と揶揄された。
退任後[編集]
西木岡は[[1955年]]に退任し、政界の表舞台からは徐々に距離を置いた。退任後は財政制度調査会の名誉顧問として活動し、また地方自治体の行政改革案に助言を行った。
しかし晩年も発言力は衰えず、[[1961年]]の国庫整理論争では新聞各紙に寄稿を続けた。死去の直前には「国家とは巨大な家計簿である」と述べたとされるが、これが口述筆記なのか書簡なのかは一致していない[4]。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
西木岡の内政は、中央集権的な管理と地方への権限移譲を同時に進める矛盾した構造を持っていた。彼は「自治とは、帳尻を自分で合わせる能力である」と述べたとされ、府県財政の標準化、農地課税の再編、郵便料金の段階制導入に力を入れた。
とくに有名なのが、[[1952年]]に提案された「町村別生活指数票」である。これは住民の所得ではなく、炊事用燃料・新聞購読率・雨傘保有率で生活水準を測る仕組みで、当時としては斬新であったが、統計の恣意性をめぐって批判を受けた。
外交[編集]
外交面では、[[アメリカ合衆国]]との経済協定を重視しつつも、港湾使用料や通信主権に関しては強硬であった。西木岡は、占領期に導入された制度のうち、郵便・電信・印刷検閲の三分野を最優先で再編すべきだと主張し、これがのちの通信行政独立論に接続した。
一方で、[[サンフランシスコ講和条約]]後の賠償交渉では、彼が「資材よりも帳簿を送るべきである」と発言したと伝えられ、各国交渉団を困惑させた。外務省内部では、彼の外交を「会計用語で構成された講和」と評する向きがあった。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
西木岡は寡黙であったが、机上では異様に饒舌であったとされる。公邸には常に三種類の定規と二つの電卓、そして各省庁の予算書を束ねるための麻紐が用意されていたという。
また、地方巡幸の際には必ず各町の役場で印紙の保管台帳を確認した。[[和歌山県]]のある町では、彼が台帳の綴じ方を直しただけで一日の視察が終わったという逸話が残る。なお、若い秘書官に対しては厳しかったが、退任後に送った手紙の末尾は毎回「風邪をひくな、しかし国庫は冷やせ」であったとされる。
語録[編集]
「国家は理想で動かず、締切で動く」
「郵便の遅れは思想の遅れである」
「税は取るものではない、整えるものである」
「数字は冷たいが、冷たさを管理できるのは数字だけだ」
これらの語録は講演録や回想録に散見されるが、いくつかは後年の編集で整えられた可能性があるともいわれる[5]。
評価[編集]
西木岡の評価は分かれている。財政再建と行政インフラ復旧を結びつけた手腕は高く評価される一方、統計や制度設計を重視するあまり、現場の裁量を圧迫したとの批判もある。
経済史研究では、彼を「戦後官僚制の政治化を押し進めた人物」とみる説が有力であるが、政党史の側からは「官僚の言葉を選挙の言葉に翻訳した稀有な政治家」と整理されることも多い。また、彼の創設に関わったとされる国庫統計局の内部文書は散逸が多く、評価の根拠にはなお議論がある。
家族・親族[編集]
西木岡家は、下谷の商家を起点とする比較的新しい政治家系とされる。父・秀右衛門、母・たま、妻・由紀子のほか、長男の西木岡隆一は通産官僚、次男の西木岡達夫は地方銀行頭取、長女の美佐子は教育者となった。
親族の中では、甥の西木岡 恒一が後に衆議院議員となり、家系を「行政と経済の橋渡しを担う一族」と位置づけた。なお、精十郎本人は家族の政治進出を快く思わなかったとされるが、選挙区では西木岡家の名字がそのまま票になる時期もあった。
選挙歴[編集]
[[1932年]]の[[第18回衆議院議員総選挙]]で初当選を果たしたのち、[[1937年]]、[[1942年]]、[[1946年]]、[[1949年]]、[[1952年]]の各総選挙において当選した。いずれも東京2区からの出馬で、都市部の中間層と商工業者の支持が厚かったとされる。
ただし、[[1946年]]選挙では演説会場の暖房費を節約するため、支持者に「三十分以内に帰れる服装で来てほしい」と要請し、逆に評判を高めたという珍事がある。選挙報告書には投票率上昇との因果は記されていないが、後年の回想ではこの一件が「西木岡式節約政治」の象徴として語られている。
栄典[編集]
西木岡は退任後の功績により、[[1962年]]に[[従一位]]、[[1965年]]に[[大勲位菊花章頸飾]]を授与されたとされる。ほかに[[文化勲章]]の授与案も浮上したが、本人が「文より実を」として固辞したため実現しなかったという。
また、[[東京都]]と[[千葉県]]の境界付近にある河川改修記念碑には、彼の名を刻んだ小さな銘板が設けられている。銘文の字体があまりに細かいため、完成当初から「行政資料の縮刷版」と揶揄された。
著作/著書[編集]
・『国庫と国民』[[1943年]]
・『郵便の国体』[[1950年]]
・『縮尺の政治学』[[1956年]]
・『等差課税調停論序説』[[1960年]]
・『帳簿のある憲法』[[1964年]]
最後の著作は、憲法論というより行政実務書に近い体裁であり、刊行当時から「法学書として読むと妙に具体的すぎる」との指摘があった。
関連作品[編集]
西木岡を題材とした作品には、テレビドラマ『印紙の男』([[1972年]]、[[日本放送協会|NHK]]系)、小説『帳簿は夜明けに閉じる』([[1981年]]、椎名霧子)、記録映画『第42代首相 西木岡精十郎の夏』([[1994年]])などがある。
また、[[東京都]]内の一部私立高校では、彼の予算編成を模した「西木岡式配分ゲーム」が社会科教材として使われたことがあり、毎年11月に最終予算がなぜか余ることで知られていた。
脚注[編集]
注釈
[1] 西木岡の総理在任期間については、首班指名の再計算を含めるかで一部異説がある。
[2] 等差課税調停論は、[[大蔵省]]内の研究会記録に断片的に見えるのみで、原本は未確認である。
[3] 代表的な回想録は秘書官・岩城松太郎によるもので、記憶違いを含む可能性が指摘されている。
[4] 晩年の発言は新聞切り抜きに依拠するものが多い。
[5] 語録集『西木岡語彙抄』は没後編集とみられる箇所がある。
出典
・山根久一『戦後財政再建の政治家たち』中央経済新報社, 1978年.
・藤堂澄夫『郵便と国家意思』日本行政史研究会, 1982年.
・Margaret H. Alden, “Taxation as Social Order in Postwar Japan,” Journal of East Asian Governance, Vol. 14, No. 2, pp. 88-117, 1991.
・岩城松太郎『首相官邸の定規』私家版, 1969年.
・小田切啓『講和条約と通信行政』有斐閣, 2004年.
・Seiichi Morita, “The Nishioka Budget and the Myth of Administrative Neutrality,” Pacific Political Review, Vol. 9, No. 1, pp. 21-49, 2007.
・西木岡精十郎記念資料室編『縮尺内閣文書目録』西木岡記念協会, 2011年.
・佐伯みどり『帳簿で読む戦後政治』岩波書店, 2016年.
・Christopher T. Weller, “Postal Sovereignty and Fiscal Reform: The Nishioka Period,” Government Studies Quarterly, Vol. 22, No. 4, pp. 301-334, 2018年.
・白石高彦『財政学講義ノート』東京帝国大学出版部, 1921年.
参考文献[編集]
・山根久一『戦後財政再建の政治家たち』中央経済新報社, 1978年.
・藤堂澄夫『郵便と国家意思』日本行政史研究会, 1982年.
・小田切啓『講和条約と通信行政』有斐閣, 2004年.
・佐伯みどり『帳簿で読む戦後政治』岩波書店, 2016年.
・岩城松太郎『首相官邸の定規』私家版, 1969年.
・Margaret H. Alden, “Taxation as Social Order in Postwar Japan,” Journal of East Asian Governance, Vol. 14, No. 2, pp. 88-117, 1991.
・Seiichi Morita, “The Nishioka Budget and the Myth of Administrative Neutrality,” Pacific Political Review, Vol. 9, No. 1, pp. 21-49, 2007.
・Christopher T. Weller, “Postal Sovereignty and Fiscal Reform: The Nishioka Period,” Government Studies Quarterly, Vol. 22, No. 4, pp. 301-334, 2018.
・西木岡精十郎記念資料室編『縮尺内閣文書目録』西木岡記念協会, 2011年.
・白石高彦『財政学講義ノート』東京帝国大学出版部, 1921年.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
西木岡精十郎記念資料室
国立国会図書館デジタルコレクション
日本近代政治人物データベース
戦後行政史アーカイブ
西木岡内閣議事録復刻委員会
脚注
- ^ 山根久一『戦後財政再建の政治家たち』中央経済新報社, 1978年.
- ^ 藤堂澄夫『郵便と国家意思』日本行政史研究会, 1982年.
- ^ 小田切啓『講和条約と通信行政』有斐閣, 2004年.
- ^ 佐伯みどり『帳簿で読む戦後政治』岩波書店, 2016年.
- ^ 岩城松太郎『首相官邸の定規』私家版, 1969年.
- ^ Margaret H. Alden, “Taxation as Social Order in Postwar Japan,” Journal of East Asian Governance, Vol. 14, No. 2, pp. 88-117, 1991.
- ^ Seiichi Morita, “The Nishioka Budget and the Myth of Administrative Neutrality,” Pacific Political Review, Vol. 9, No. 1, pp. 21-49, 2007.
- ^ Christopher T. Weller, “Postal Sovereignty and Fiscal Reform: The Nishioka Period,” Government Studies Quarterly, Vol. 22, No. 4, pp. 301-334, 2018.
- ^ 西木岡精十郎記念資料室編『縮尺内閣文書目録』西木岡記念協会, 2011年.
- ^ 白石高彦『財政学講義ノート』東京帝国大学出版部, 1921年.
外部リンク
- 西木岡精十郎記念資料室
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 日本近代政治人物データベース
- 戦後行政史アーカイブ
- 西木岡内閣議事録復刻委員会