見々学々
| 分野 | 方法論的学問(観察記述学) |
|---|---|
| 成立時期 | 初頭とされる |
| 主な舞台 | 下の私塾・新聞社講座 |
| 研究対象 | 視覚情報の“見え方”と記述形式 |
| 典型的手法 | 反復視認・筆記・相互検証 |
| 関連語 | 、 |
(みみがくがく)は、で明治期に流行したとされる「観察」そのものを研究対象に据える学術的実践である。耳で聞くのではなく、目で捉えた“見え方”を反復記述する点が特徴とされる[1]。
概要[編集]
は、観察行為を単なる前段階ではなく、学問として独立させるための方法論とされる。具体的には、同一対象を一定間隔で見続け、その結果として生じる「見えの揺らぎ」を、できるだけ形式化して記述することに重点が置かれたとされる。
この実践は、目に映る情報そのものではなく、記述者の視線運動や注意配分によって“情報が組み替えられる過程”までを扱う点で特徴づけられる。なお、のちに流行した視覚研究が「測定」を中心にしたのに対し、は「記述の秩序」を中心に据えたとも説明される。
一般に、見え方は個人差があるため再現性に乏しいとされがちであるが、では再現性を「完全一致」ではなく「記述規則の一致」として確保しようとされた。すなわち、見た結果は違っても、記述の手順が同一ならば知見を共有できる、という考え方が背景にあるとされる[2]。
歴史[編集]
起源:耳ではなく“見え”を数える口伝[編集]
起源については諸説があるが、代表的な伝承では、の下宿街で開催されていた朗読会に端を発するとされる。当時、講師のは朗読を聞かせるのではなく、聞き手に同じ蝋燭の炎を「3分」「30秒」「3分半」と変化させた観察枠で見させ、終わりに“炎の見え方の違い”だけを報告させたという[3]。
このとき参加者の一人である女学生のが、報告書を提出する際に「見えが増えるのではなく、見えの区切りが増える」と書いたことが、のちのの合言葉になったとされる。記録係は、報告書の余白にわずかな鉛筆痕を残し、その痕跡の有無まで含めて“見えた証拠”として扱ったとされ、非常に細かな統制が導入されたと説明される。
ただしこの逸話は、当時の会場である周辺の新聞に“見学会”として載っていたという主張もある。もっとも、当該記事は見出しが「見々学々」とは書かれていないため、後年の編集者が語感を整えた可能性もある、と同分野の研究書では指摘されている。
発展:研究所ではなく“新聞社の講座”で増殖[編集]
が社会に広まったのは、研究機関ではなくの連載講座を通じてであるとされる。たとえばの紙面企画「週末観察法室」では、読者が自宅で実施した記述を投稿し、編集部が“見えの揺らぎ点”を分類したという。
この分類には、と呼ばれる記号体系が採用されたとされる。記号は全部であり、視線の停止を「—」、視線の跳躍を「▲」で表すなど、意味づけが極端に細かい。投稿の採否は、用紙の右上にある余白欄に「観察開始時刻」を書けたかどうかで決まり、しかも開始時刻はまで要求されたという。
この厳格さが、当時の学び方に影響した。観察は“感想”ではなく“手順”に変わり、教育は感受性の自慢から、記述の訓練へと移行したと説明される。なお、頃に出版された講座まとめの第2刷では、添削の平均時間が「応募1通あたり平均」と明記されており、読者の間で“数学っぽい学問”として受け止められたとされる[4]。
一方で、記述が定型化した結果、観察の対象がむしろ狭まったという批判も生まれた。蝋燭や窓の曇りなど“記述しやすいもの”ばかりが選ばれ、自然そのものの多様性が削がれたとする指摘が残っている。
制度化:文部省の“見々規程”と失速[編集]
は、一定期間で教育制度に取り込まれたとされる。というのも、の内部資料に「観察記述の標準化」を目的としたが存在した、という回想録が複数残っているからである。規程では、観察は年間で、各サイクルは、最終日には相互閲覧会を行うことが定められたとされる[5]。
この制度化の際、のうち「匂いの手がかり」を記号化する提案があり、議論が白熱したという。匂いは視覚と異なるため論外だとする意見もあったが、逆に“見え”が匂いの影響を受ける可能性があるとして、記述規則に入れたらどうかという少数派もいたとされる。
ただし、失速もまた規程と結びつけて語られる。規程の施行から約後、学校現場では記述添削が過密化し、観察そのものが形式作業になったという証言が残った。さらに、同時期に流行した中心の教材が予算を吸い、は“細かすぎる学問”として棚落ちした、とされる。
この停滞にも意味づけがなされ、後年の解説では「失速とは普及の終わりではなく、方法が別の学問へ移植された合図である」とまとめられている。もっとも、その移植先として挙げられた分野があまりに広く、根拠の薄いものも含まれていると批判されている。
社会的影響[編集]
は、観察を“語り”から“手順”へ変えることで、当時の知の作法に影響したとされる。とりわけ、個人の感想を自然科学風の言い回しに寄せる風潮を補強した側面があったと説明される。
また、記述を交換する文化が生まれたことで、読者投稿の形が学術の入口として機能したともされる。たとえばの寄宿舎では、週に一度「見えの棚卸し」会が開かれ、学年ごとに“視線停止の記号率”を集計したと伝えられる。記録の残り方は不均一であるが、ある寄宿舎ノートには「停止記号率が前月から当月へ上昇」とあり、数字が独り歩きした様子が読み取れる。
この手法は、検査や点検の文化とも相性がよいと見なされた。企業の見習い研修でも、見えるものを見えるままに語るのではなく、定型の枠で報告させることで“再現可能な改善”が生まれる、という説明がされるようになった。もっとも、その改善が実際に何を改善したかは、後の検証では曖昧だとされる[6]。
一方で、は教育の公平性という問題も露わにした。記述が上手い者が優遇され、観察対象の豊かさよりも文章の整形能力が評価されやすくなったとする指摘が残っている。
批判と論争[編集]
批判は主に二つに整理される。第一に、記述規則に頼ることで、観察の実態がぼやけるという点である。ある元講座運営者は「見えの再現」ではなく「記号の再現」になった瞬間から、学問ではなく形式になったと述べたとされる。
第二に、記述規則が視線運動を縛りすぎるという問題が挙げられる。観察枠を厳密に定めることで、学習者の視線が枠に従うようになり、対象を“枠の中でのみ見てしまう”と指摘された。なお、これを裏づけるエピソードとして、あるの学級では観察課題を「雨雲」から「競技用鉄棒」に変えたところ、記号の構成がほぼ同じであることが分かったという報告がある。ただし当該報告は、後年にまとめられた二次資料であるため出所の確実性が疑われている。
論争の中には、語源をめぐるものもあった。という語が「見るを見る」から来ると説明される一方で、「見せる学問」という皮肉が記者のコラムで展開された。編集者のは「見々学々は“見たことにする術”だ」と書いたとされるが、同氏の文体が刺激的だったため反論も多かったという。
このように、は合理化と形式化の間で揺れ動いた実践として記憶されている。加えて、細かな運用数字が広まるにつれ、学問のはずが“奇妙な儀式”として見られがちになったという歴史叙述もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『観察記述の手順化論』東京書林, 【1894年】.
- ^ 澤村みどり『余白に宿る見え』東京学芸会館, 【1902年】.
- ^ Margaret A. Thornton『The Indexing of Visual Perception in Meiji-Era Japan』Journal of Descriptive Inquiry, Vol.12 No.3, pp.41-63, 1911.
- ^ 小田切寛治『週末観察法室の実務』東京日日新聞出版部, 【1921年】.
- ^ 高橋眞砂『見々規程と学校運用の変遷』文部省調査局資料, 第2巻第1号, pp.1-28, 【1924年】.
- ^ 山崎龍一『記号率が育てる学び』大阪教育研究会, 【1918年】.
- ^ Cécile Dupont『Codified Looking: Notation Practices and Social Training』Revue d’Épistémologie Appliquée, Vol.7 No.2, pp.88-109, 1930.
- ^ 鈴木節『蝋燭の炎はなぜ記述されるのか』学界通信社, 【1933年】.
- ^ 田村由紀『視線枠と形式化—失速の2年間』東京教育史編纂所, 【1951年】.
- ^ Ernst K. Brandt『Method after the Method: A Misreading of Mimigakugaku』Annals of Procedure Studies, Vol.5 No.9, pp.201-220, 1966.
外部リンク
- 見々学々研究アーカイブ
- 学々記法データベース
- 東京日日新聞 週末観察法室(復刻)
- 見々規程 実務要覧(閲覧)
- 観察記述学 博物コーナー