貧乏飯研究会
| 正式名称 | 貧乏飯研究会 |
|---|---|
| 英名 | Poverty Meal Research Society |
| 設立 | 1954年ごろ |
| 設立地 | 東京都文京区本郷 |
| 活動内容 | 低予算献立の調査、相互試食、炊飯器改造 |
| 代表的会員 | 小峰義彦、田村澄子、長谷部二郎 |
| 機関誌 | 『月刊けちらし』 |
| 関連施設 | 本郷共同炊事室 |
| 標語 | 安く、うまく、少しだけ多く |
貧乏飯研究会(びんぼうめしけんきゅうかい、英: Poverty Meal Research Society)は、のを背景に、安価な食材と調理法の体系化を目的として成立したとされるである。特に内の下宿文化と結びついた実践的な献立研究で知られている[1]。
概要[編集]
貧乏飯研究会は、半ばにの下宿人と夜学の学生を中心に始まったとされる、節約料理の研究団体である。名称からは自虐的なサークルに見えるが、実際には、、がゆるく交差する半学術組織として扱われていた[2]。
同会は、米の配給制度が形を変えたのちも残っていた、、、などを組み合わせ、1食あたりの原価をからの範囲に抑える献立を推奨したとされる。また、会員の一部は近くの安食堂やの市場を巡回し、当日の最安値を記録する「価格日報」を作成していたという。
ただし、会の実態には不明な点も多く、に一度だけ行われたとされる「炊き込みご飯の全国同期試食会」については、参加者がからまでいたとする記録と、実際にはしか集まらなかったとする回顧録が併存している。いずれにせよ、同会は戦後の都市下層文化を象徴する存在として後年再評価された[3]。
歴史[編集]
発足の経緯[編集]
発足は、の下宿「松風荘」の共同台所で行われた夜食会にさかのぼるとされる。主催者のはの書生見習いで、月末になると味噌汁を二日に一度しか作れなかったことから、同じ境遇の者を集めて「飯の工夫を共有する会」を提案したという。
当初はの非公式な集まりであったが、翌年にはやの下宿仲間が加わり、会員数はに達したとされる。なお、初回会合の議事録には「空腹時の判断は過大評価される」「焼き海苔は主食のふりをする」などの記述があり、後世の研究者からは半ば詩文として評価されている。
機関誌『月刊けちらし』[編集]
に創刊された機関誌『月刊けちらし』は、同会の知名度を大きく押し上げた。編集長を務めたはで学んだ経歴を持つとされ、毎号、原価計算表、台所の写真、そして「残り物の再起動法」と題する短文を掲載した。
とくに第12号の「卵を割らずに卵味を出す三段活用」は有名で、1個を使わずに卵風茶碗蒸しを成立させる方法が紹介された。のちにこの技法は後期の学生寮に広く伝播したとされるが、実際には味よりも「見た目だけで士気が上がる」との心理効果が重視されていたらしい。
拡大と分派[編集]
に入ると、会は単なる節約同好会から、調理哲学をめぐる複数の分派を抱えるようになった。最も有名なのは、出汁を極端に薄めることで「素材の不在を肯定する」ことを目指したと、調味料の種類だけを増やして満腹感を演出するである。
には両派がの貸会議室で公開討論を行い、議題は「醤油は主役か脇役か」であった。討論は続き、結論は出なかったが、会場外の屋台で売られた焼きそばの売上が通常のになったため、主催者側は事実上の成功と発表した。
活動内容[編集]
会の活動は、献立研究にとどまらず、食材の保存、調理器具の改造、集団配膳の効率化まで含んでいた。とくにを二重底にして蒸し野菜と同時調理する「兼用化研究」は、会の発明としてよく知られている。
また、会員はを重視し、、、の各市場で毎週火曜の閉店前に売られる見切り品を比較した。1959年の報告書では、同じでも店頭表示より平均安くなる時間帯が存在するとされ、これを「黄昏相場」と呼んだという。
さらに同会は、安価な食事を「貧しさの記録」ではなく「都市の知恵」として扱った点で独特であった。会員の一人は、にとを塗っただけの料理を「戦後型サンドイッチ」と命名し、これがのちに学生寮の定番となったと主張している[4]。
代表的な献立[編集]
三大定番[編集]
同会が最も重視した献立は、後に「三大定番」と呼ばれる三品である。第一はで、にを少量だけ使うことで、満腹感の錯覚を最大化するとされた。第二はで、前日のご飯を粘り気が出るまで煮るのが特徴である。
第三はで、近所のから無償提供された耳を再加工するものだった。会誌によれば、最も上手に揚げた会員には「耳の王」の称号が授与されたが、受賞者は翌月から毎回自腹で油を持参する義務を負ったという。
季節献立[編集]
季節ごとの献立も体系化されていた。夏は冷やし麺のつゆを水で三倍に薄める「省冷房そうめん」、冬はの芯を重点的に使う「芯づくし鍋」が推奨された。
に発表された「梅雨時の食欲減退対策」では、酸味を強くしすぎたにを足して“誤差を減らす”という独特の理論が述べられている。これについては現在でも賛否が分かれるが、少なくとも同時代の学生には非常に受けが良かったとされる。
社会的影響[編集]
貧乏飯研究会は、期の「豊かさ」の裏で、都市生活者がどのように食費を削っていたかを示す資料群として注目された。特にには、『週刊生活』や『暮しの手帖』風の生活欄で引用され、節約術の先駆けとして紹介された。
一方で、同会の影響は必ずしも料理に限られない。会員が作成した「一週間の食費を見せるための家計簿」は、のちにの審査資料のような精密さを持つと評され、家計教育の教材にも転用されたという。また、の一部ゼミでは、同会の会報が「生活史一次資料」として扱われた[5]。
ただし、会の節約思想が過度に美化されたことへの批判もあった。特に以降、外食産業の拡大に伴い、「貧乏飯」は単なる倹約ではなく、選択肢の狭さをロマン化する言葉だと指摘する声も出た。これに対し会の後継団体は、「安さは美徳ではなく技術である」と応答している。
批判と論争[編集]
もっとも大きな論争は、の「缶詰の開封は料理か」という事件である。会長代行のが、を皿に移しただけの献立を「完成度87%の料理」と発表したところ、若手会員が「それは美学の放棄である」と反発し、会は一時分裂した。
また、の会報には「塩むすびに刻み海苔を乗せると上級者扱いされる」との記述があり、これが“階層的な貧乏飯観”を助長したとして批判された。会側は「海苔は象徴資源である」と説明したが、かなり苦しい弁明であったとされる。
さらに、同会の記録には出典不明の料理写真が多く、なかには一枚の皿にの茶色い食材が乗っただけで「祝祭献立」とされたものもある。研究者の間では、これは当時の白黒写真の限界ではなく、単純に撮影者の感覚が麻痺していた可能性があると指摘されている[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小峰義彦『本郷下宿の食卓史』東洋食生活研究社, 1968.
- ^ 田村澄子「低予算献立における味覚の補正」『家政学評論』Vol. 14, No. 2, pp. 41-58, 1961.
- ^ H. Nakamura, “Economy Meals and Urban Survival,” Journal of Postwar Studies, Vol. 8, No. 1, pp. 103-121, 1972.
- ^ 長谷部二郎『缶詰の倫理学』北斗出版, 1975.
- ^ 佐伯真理子「下宿文化と貧乏飯の相互作用」『都市生活史研究』第6巻第3号, pp. 77-96, 1983.
- ^ Margaret L. Thornton, “The Yellow-Twilight Market Index in Tokyo,” Culinary Anthropology Quarterly, Vol. 3, No. 4, pp. 9-33, 1970.
- ^ 小林修一『月刊けちらし総目録 1958-1979』本郷資料出版会, 1988.
- ^ A. P. Wilkes, “The Sociology of Leftover Heat,” Food and Society Review, Vol. 11, No. 2, pp. 201-219, 1981.
- ^ 中島あきら「塩むすびの象徴性について」『食文化の周縁』第2巻第1号, pp. 5-17, 1990.
- ^ 『貧乏飯研究会史料集 第一輯』東西生活史刊行会, 1994.
- ^ 渡辺千代子「昭和学生寮におけるパン耳消費の定量分析」『生活経済学年報』Vol. 19, No. 1, pp. 66-84, 1998.
外部リンク
- 本郷生活文化アーカイブ
- 月刊けちらしデジタル目録
- 戦後食卓研究センター
- 節約料理口承資料館
- 都市下宿文化研究フォーラム