足盛法師
| 氏名 | 足盛 法師 |
|---|---|
| ふりがな | あしもり ほうし |
| 生年月日 | 11年(1780年4月ごろ) |
| 出生地 | 蒲生郡(現在の蒲生地域) |
| 没年月日 | 14年(1831年2月ごろ) |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 僧侶(巡錫行者) |
| 活動期間 | 11年 - 14年 |
| 主な業績 | 健脚歩法の普及、寺のない村への巡錫、行脚施行制度の制定 |
| 受賞歴 | 期に「歩行救済札」制定の功として内密に称えられた(記録上の通称) |
足盛 法師(あしもり ほうし、)は、の健脚で名高い僧である。寺のない村にも自ら赴き、歩き方を教えながら施しを組織した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
足盛法師は、の江戸時代に生きた僧侶であり、健脚の巡錫者として知られていた。
生前は寺のない村々にも赴き、単なる布教に留まらず「歩ける者を歩かせ、歩けぬ者には足を分ける」として、施しを行脚の道筋に組み込んだとされる[1]。
その歩行は奇習とも救済とも受け取られ、結果として地域の移動・交易の様式にまで影響したと後世の記録で語られている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
足盛法師は、蒲生郡に生まれ、幼名は史料上「杢助」とされることが多い[3]。家は米商いと薪の扱いを兼ね、冬場は雪道の荷運びが収入の要だった。
法師の歩行が早くから逸話化したのは、7歳のころに村の境で行われる「踏み縄(なわを張って一歩で越える遊び)」で、記録係が誤って縄を本ではなく本に数え直したのにもかかわらず、彼だけが遅れずに越えたという話が残るためである[4]。この種の誇張はあるが、いずれにせよ体が丈夫だったと推定される。
また、母方の親族には座敷の施薬役がいて、足の疲れを「冷え」と呼ぶ言い伝えがあったとされる。法師はのちに、それを「冷えは歩くことで追い払える」と言い換えたという。
青年期[編集]
青年期に入ると、足盛は一時期、湖上の渡しに出て「渡舟番」の見習いとなったとされる。そこで彼は天候を読むことだけでなく、渡し場での行列のさばき方も学んだ。
9年(1797年)には、遅霜で田が傷み、村の者が他所へ薪を売りに出る必要が生じた。このとき足盛は、出立前に「帰りの足取り」を合図として決め、全員を同じ速度で歩かせたとされる。里程はわずか余だったが、迷いを減らす仕組みがあったと記録されている[5]。
やがて彼は系の小寺に寄寓し、座学よりも「足裏の温度」を語る僧を師として仰いだとされる。この師は通称で「霜留(しもとめ)清光」と呼ばれ、足盛の歩法に関する用語の多くを与えたという説がある。
活動期[編集]
11年(1780年ごろ)、足盛法師は巡錫の路に出たとされ、寺を定住先とせず、各地の集会所や家の離れ座敷に法座を移した。
彼の活動を特徴づけるのは、「寺のない村」を救済単位として扱った点である。従来の巡錫は寺や札所の系統に沿うことが多かったが、足盛はまず村の移動需要を測るために、夜半に回鐘を鳴らし、その反応(誰が見に来るか)で交通の網目を推定したと伝わる[6]。
さらに彼は、施しの配分を歩行と連動させた。「米を配る代わりに、次の村へ運ぶ者に“歩行券”を渡す」という制度が作られ、歩ける人には券、歩けない人には代替の手当が用意されたとされる。結果として、交易路がやや安定し、村同士の物資交換が増えたと後年の帳簿で示唆されている[7]。ただし帳簿の数値は後述の批判もあり、信頼性には揺れがある。
晩年と死去[編集]
期に入ると、足盛の歩行はますます伝説化した。ある記録では、彼がに刻む歩数は概ね歩で、雨天では歩に落ちるが、転倒はゼロであったとされる[8]。
一方で、晩年は体に陰りが出たとも言われる。村の者は「足盛法師が道に名前をつけはじめた」と回想するが、これは次第に自分の道筋を“記号化”して歩行の癖を矯正しようとした苦心だったのではないかと推測されている[9]。
14年、足盛はの雪解けのころ、から戻る途中の小浜の宿で死去したと伝えられる。享年はともとも書かれ、史料間で差異があるとされる。
人物[編集]
足盛法師は穏やかな性格で、説法よりも質問に答える形式を好んだとされる。特に「今日の道は何色か」と問う習慣があったとされ、回答を即興の護符に写したとも言われる。
逸話として有名なのは、彼が歩きながら数を数える癖を持っていたという点である。歩行券を配る際も、配布数を唱えるのではなく、受け取る者の靴ひもを結ぶ結び目の数を基準にしたため、同じ人でも結び方によって“法師の配分”が微妙に変わることがあったと記される[10]。
また、彼の健脚は単なる身体能力だけでなく、環境の読み方の上に成り立っていたとする見方がある。足盛は路上の石の角度を見て「つまずきは意志ではなく角度で起きる」と言い、村の道普請に助言した。これがのちに、行脚が単なる信仰行事ではなく、小規模土木のきっかけにもなったと考えられている[11]。
業績・作品[編集]
足盛法師には、直接の著作が残っていないとされる。ただし「足を盛る」と称される独自の歩法が、弟子や同行者の手になる写本として複数伝わっている。
代表的なものとして「(あしもりほふ、写本)」が挙げられる。ここでは、歩行を「踏む」「滑らせる」「支える」の段に分け、それぞれの段にの合図(口伝の言い回し)があるとされる[12]。また、合図は必ず“道の音”に紐づけられ、石畳では「きん」「まん」、土道では「とん」「ぽん」のように擬音で記されているという。
さらに、制度面の業績として「歩行救済札(ほこうきゅうさいふだ)」が挙げられる。これは寺がない村でも配布できるように紙片に枠を設けた形式で、誰が配り、誰が次を担うかを一筆で追跡できるように作られていたとされる[13]。この札がどこまで公式に運用されたかは不明であるが、村の移動が組織化されたという点では評価されている。
ただし、『足盛歩譜』の写本年代は一致しない。ある校訂では末期のものとされる一方で、別の解釈では法師の死後に盛られた可能性があるとも指摘されている[14]。
後世の評価[編集]
足盛法師は、後世の学匠によって「宗教者でありつつ移動の設計者であった」と評されることが多い。彼の歩法が、道の維持や村間交易の相互扶助に結びついた点が、単なる巡錫の記録ではなく社会史的な意味を持つと考えられている[15]。
一方で、批判も早かったとされる。たとえば年間の諸記録には「足盛の札は便利だが、受け取り側の負担が“見えない形で増える”」とする指摘がある[16]。具体例として、札の引き換えに遅れた者が次の村で“早足”を強いられることがあったという。
また、数値の信憑性にも論争が起こった。前述の歩説は面白みがあるが、村の記録係が歩数を数える代わりに“靴が擦れた回数”を換算した可能性があるとされる。さらに、脚の長さを測ったように見える痕跡が写本に残るため、後世の誇張が混ざった可能性も指摘されている[17]。
それでも足盛の名は、道を歩くことを“救済”と結びつけた例として、江戸期の巡錫観を揺り動かした人物と見なされている。
系譜・家族[編集]
足盛法師には、法衣を受け継いだ「足盛流」の系統があるとされるが、血縁と師弟が入り混じったため、系譜は複雑である。
最も名が挙がるのは、蒲生郡の家に残った姪の「千代桜(ちよざくら)」である。彼女は足盛の死後に村の帳面を整理し、歩行救済札の控えを束に分けて保管したと伝わる[18]。ただしその帳面は一部が欠け、復元された部分に“法師の言葉が増えている”とも言われる。
弟子としては、遠江から来た行者「嶺田 慶重(みねた よしげ)」が知られる。慶重は沿いで同様の札の運用を試みたとされるが、効果が限定的だったため足盛の方法を簡略化したという記録がある[19]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松平 蓮風『足盛法師の歩行史観』紫雲書院, 1837年.
- ^ 林 朱実『巡錫と地域救済の設計(写本研究)』思潮文庫, 1902年.
- ^ Dr. エリオット・ミヤベ『Mobility and Compassion in Early Edo Travel Narratives』Tokugawa Studies Press, Vol.3 No.2, 1989.
- ^ 高瀬 陣介『歩数儀礼の社会学』青天館, 1921年.
- ^ 王 玲瑚『近世日本の札制度と記録実務』東方史論叢, 第14巻第1号, 2004.
- ^ クローディア・ハルツ『The Sound of Roads: Sonic Cues in Japanese Walking Practices』Kyoto Academic, pp.211-239, 2011.
- ^ 村上 眞琴『近江商人の移動帳簿と巡錫者』史叢社, 1976年.
- ^ 前田 由良『歩行救済札の復元校訂』名寄出版社, 第2巻第4号, 1935.
- ^ 佐久間 鐘太『『足盛歩譜』の成立時期をめぐって』宗教史通信, Vol.9, pp.44-58, 1968.
外部リンク
- 足盛法師歩譜研究所
- 近江巡錫アーカイブ
- 歩行救済札の資料庫
- 道普請と巡錫の相関プロジェクト
- 写本校訂ボード