遠藤朝永
| 生年月日 | 10月3日(戸籍上) |
|---|---|
| 没年月日 | 6月17日(遺族申告) |
| 出身 | |
| 主な業績 | 朝永算法、信用点数表の標準化 |
| 所属 | |
遠藤朝永(えんどう ともなが)は、の「朝永算法」と呼ばれる家計簿・信用評価の手法を普及させたとされる人物である[1]。民間金融の黎明期において、手数と利息を「気温」と「人の歩速」に分解する独自の整理法が注目されたとされる[2]。ただし伝記の細部には複数の異説があると指摘されている[3]。
概要[編集]
遠藤朝永は、家計管理と小口信用を結び付ける事務手法を考案し、「朝永算法(えんどうさんえいさんぽう)」として広く引用された人物とされる[1]。
その特徴は、単なる収支記録ではなく、返済能力を“数式化”しようとした点にあるとされる。具体的には、取引のたびに「金額」「期日」「支払遅延回数」に加え、支払に関わる生活のリズムを推定する項目(歩速指数、街路の混雑度、冬季の行動変化など)を併記した帳票が作られたとされる[4]。
朝永算法は、帳簿の運用を通じて金融機関のみならず、商店街の共同仕入れや、地域の互助会にも波及したとされるが、後年になって“根拠の薄さ”が笑い話のように広がったとも伝えられている[5]。なお、遠藤本人の経歴については、伝記が複数の版で書き換えられた経緯があると推定されている[6]。
生涯と業績[編集]
幼少期と帳簿への執着[編集]
遠藤朝永はに生まれ、祖父が町内の貸付金を管理していたことがきっかけになったとされる[7]。幼いころから紙を数える癖があり、よく使う帳面は「表紙の厚みが0.73ミリを超えると、数字が逃げる」と家族に言ったと伝えられている[8]。
また、遠藤は小学生の頃、の時刻表を“延滞の予告装置”として眺めていたとされる。具体的には、列車が遅れる日ほど商店の仕入れが遅れ、結果として支払が遅れるという因果を、当時の家庭内データ(全12か月、観測点27)で導いたとされる[9]。もっとも、この観測点の数は後年の版では「全12か月、観測点29」に改稿されていることが知られており、編集の痕跡がうかがえるとされる[10]。
この時期のノートには、「朝は時間に勝ち、夜は遅れに負ける」という短い格言が残っていたとされるが、格言の原型は別人が書いたという説もある[11]。
朝永算法の発明と普及[編集]
朝永算法の成立は、内の小規模質屋(当時の記録では屋号が複数あり、現存写本では「永見質店」か「朝永質店」かが揺れている)で、手続の煩雑さを整理する目的で進んだとされる[12]。
遠藤は帳簿を「金額の列」と「遅れの列」に分け、さらに遅れの列を、歩速指数(1.0を基準として当日の見込みから±で評価)と、街路混雑係数(単純な混雑ではなく“曲がり角の数”を加点として扱う)で補正したとされる[13]。ここでの曲がり角は、の指定の通りで、往路・復路それぞれ15個ずつ数えたと記されているが、ある写本では「往路16、復路14」とされており、数える気分による誤差だと後に説明されたという[14]。
この算法は、やがて小口信用の評価表として商店街に持ち込まれ、の周辺で“家計の工学”として口伝されたとされる[15]。さらに、帳票の改訂版は紙の配合まで指定し、「硫酸紙では遅延がにじむので禁ず」といった注意書きが付されたとされる[16]。その結果、遠藤の手法は統一書式として採用され、同時期の事務職員の教育テキストにも引用されるようになったとされる[17]。
晩年と“朝永点”騒動[編集]
遠藤朝永の晩年、彼の方法から派生したとされる「朝永点(えんどうてん)」が一部で独り歩きし、金利よりも点数の上下が話題になったとされる[18]。新聞の地方版では、ある日だけ朝永点が急上昇した理由として「夜の風が北北東だったから」と報じられ、読者が一斉に検算を始めたという逸話が残っている[19]。
この時期、の互助会では、点数が高い会員に対して先に配分を回す制度を導入したが、結果として“点数が高い人だけが疲弊する”という苦情が出たとされる[20]。遠藤自身は「点数は努力を評価するためで、疲弊は別問題である」と述べたと伝わるが、その発言録は後に「努力を評価し、疲弊は気候に帰す」と要約されている[21]。
また、遺品整理の際に、帳簿用の鉛筆芯が“厳密に2.1本”残っていたという記録があり、家族が「なぜ半端なのか」を議論したという[22]。この細部は、家族の笑い話として語られた一方で、帳簿が複数回書き換えられていた証拠だと解釈する研究者もいるとされる[23]。
朝永算法の仕組み(とされるもの)[編集]
朝永算法は、返済能力を「残高」「期限」「遅延の癖」として捉え、さらに生活変数で補正する枠組みであると説明されることが多い[24]。
具体的には、月ごとの記録から「当月の支払率」を算出し、その値を歩速指数と掛け合わせて補正点を出すとされた。また補正点は、商店街のイベント(盆、祭り、雨の日の臨時休業)を“遅延の季節性”として吸収する仕組みになっていたとされる[25]。
なお、朝永算法には公的な数式が一枚でまとまっておらず、複数の私的ノートから推定されたとされる。そのため、初期の手法と後期の手法で係数の呼び名が異なる場合があると指摘される[26]。この状況は、朝永が「書式は生き物であり、固定すると嘘が増える」と語ったという伝承で説明されることもある[27]。もっとも、こうした説明は後世の編集者による“整頓”ではないかという見方もある[28]。
社会的影響[編集]
朝永算法は、金融機関の審査を“人の感覚”から“手続の整合性”へ寄せる試みとして語られてきたとされる[29]。
とくにやの一部では、帳票の導入によって延滞率が改善したという報告が残っている[30]。ただし、改善幅は報告書によって異なり、「延滞率が約3.4ポイント減少」とするものがある一方で、「約3.1ポイント減少」に改稿されているともされる[31]。この差は観測期間(同一とされる期間でも、起算日が“月の最初の金曜”と“月の最初の営業日”の2通り)によるものと説明されている[32]。
一方で、算法の導入は“記録すること自体”を強制する空気も生んだとされる。結果として、帳簿を更新できない家庭が不利に扱われる事態が起き、やがて自治体の福祉相談で「計算より生活を見よ」という議論につながったとされる[33]。このとき引用された言葉は、遠藤の言葉として扱われたが、実際には別の講師の発言だったのではないかという指摘がある[34]。
批判と論争[編集]
朝永算法は、科学的根拠が弱いとして批判されたとされる。歩速指数や街路混雑係数を、金融の信用評価に結び付ける点が“比喩を数にしただけ”ではないかと議論されたのである[35]。
また、朝永点の運用が過熱し、地域によっては点数の噂が取引の優先順位を左右したという。これに対し、審査の透明性が失われる懸念が出たとされるが、当時の事務手続書には「噂はデータの一種である」と書かれていたとも言われる[36]。ただしその文言が書式に採用されたのは後の版で、初版には見られなかったという証言もある[37]。
さらに、遠藤本人の伝記資料では、出身地の表記が「焼津」から「相良」へ揺れたとする研究もあり、編集者が“史料に合わせて地名を滑らかにした”可能性が指摘されている[38]。このため、遠藤朝永の業績は称えられつつも、史料批判の対象として扱われやすい存在となっているともされる[39]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 遠藤朝永『朝永算法の実務:帳のうねりと遅れの読み方』永明書房, 1937年, pp.12-33.
- ^ 川瀬圭一『家計計測と地域信用—歩速指数の系譜』東都経理研究所, 1954年, pp.41-59.
- ^ Margaret A. Thornton『Probabilistic Bookkeeping in Early Modern Japan』Oxford Ledger Press, 1962年, Vol.3, pp.77-104.
- ^ 中村静也『商店街審査の手触り』大阪公論社, 1949年, pp.88-102.
- ^ 鈴木貞夫『帳簿の紙質と意思決定』紙技学会, 1951年, 第2巻第1号, pp.5-18.
- ^ Hiroshi Watanabe『Street-Corner Indices and Credit Scoring』Journal of Civic Arithmetic, 1970年, Vol.12, No.4, pp.201-219.
- ^ 朝永点研究会『朝永点の流行と誤読—統計が走る前に』東京学術出版, 1983年, pp.3-29.
- ^ 田中玲子『噂はデータの一種か:事務文書の文言変遷』文書史学会, 1996年, pp.55-73.
- ^ Klaus Riedel『Weather, Delay, and the Fiction of Coefficients』Berlin Quant Review, 2001年, Vol.9, pp.1-24.
- ^ 佐伯真琴『焼津から相良へ—遠藤伝記の地名調整』静岡地域史叢書, 2010年, pp.101-130.
外部リンク
- 朝永算法アーカイブ
- 地域信用帳票博物館
- 紙質・計算資料室
- 街路混雑係数のノート倉庫
- 朝永点メディア論考サイト