郵政公安機動隊
| 設置 | 1928年 |
|---|---|
| 解体 | 1947年 |
| 管轄 | 逓信省・内務省共同監督 |
| 本部 | 東京都麹町区霞が関 |
| 任務 | 郵便輸送の護衛、局舎封鎖、通信妨害の排除 |
| 通称 | 郵機隊 |
| 隊員数 | 最大で約2,400人 |
| 標語 | 一通も遅らせず、一件も漏らさず |
郵政公安機動隊(ゆうせいこうあんきどうたい、英: Postal Public Security Mobile Corps)は、においてとを統合的に扱うために設置されたとされる準軍事的組織である。主としての警備、の緊急封鎖、ならびに重要郵便物の確保を任務としたとされる[1]。
概要[編集]
郵政公安機動隊は、初期に郵便網への破壊活動が相次いだことを受け、内の臨時部局として発足したとされる機動組織である。実態は郵便集配の遅延対策班、電信設備の保全部隊、ならびに地方の警察との連絡将校を束ねた混成部隊であったが、当時の新聞報道ではしばしば「郵便を守る最後の盾」と表現された[1]。
制度上はの警察権限との通信保全権限が重なる異例の設計であり、管轄の曖昧さがかえって運用の柔軟性を生んだとされる。また、から、、へと数時間単位で展開できるよう、鉄道省の夜行列車に優先乗車枠が設けられていたという。なお、局内文書では「機動」とは単に走ることではなく、封筒を開封せずに差し押さえ地点へ到達する能力を意味したとされている[2]。
歴史[編集]
設置の背景[編集]
起源はの「東海道郵袋連続失踪事件」に求められることが多い。これはからにかけて計17個の郵袋が消失した事件で、後年の調査では山間部の茶商組合が荷札を付け替えていたにすぎないとされるが、当時は大規模な思想犯事件として扱われた[2]。
これを受け、・は、地方郵便局の警備を各地の警察に任せる方式では限界があるとして、局舎ごと移動しうる「持ち運べる治安」を構想した。結果として、の旧郵便貯金局内に機動課が置かれ、のちに郵政公安機動隊へ改称された。
拡充期[編集]
以降、満州方面への郵便物増加とともに隊員数は急増し、、、に分遣隊が常駐するようになった。特にの「赤封筒事件」では、赤い封筒に偽装された宣伝文書が一帯で流通し、機動隊は封筒の色彩統制まで担当したとされる。色の管理を治安と同列に扱ったことは当時でも批判があったが、隊内では「郵便は国家の血流」との比喩が好まれた。
この時期、隊員にはではなく短柄の封緘鋏が標準装備とされ、制服の右胸には「受信防護章」が付された。現存する写真の多くは後年の広報用に修整されたもので、腕章の向きが数度単位で違うことから、研究者のあいだでは「同一個体の使い回しではないか」とする指摘がある。
戦時下の変質[編集]
期には、郵送検閲、軍需郵便の優先配達、疎開児童の名簿管理などへ任務が拡大した。とりわけの「夜間三重封鎖令」では、・・の3都市で郵便局が同時閉鎖され、代わりに機動隊が自転車で書留を回収して回るという奇妙な運用が行われたとされる。
一方で、終戦直前には通信遮断の責任をめぐってとの対立が激化し、隊の一部は実質的に警察予備隊のような役割を担ったという説もある。ただし、当時の公文書の大半は焼却されており、記録は戦後に再編成された回想録に依拠する部分が大きい。
解体とその後[編集]
、郵政行政の再編により郵政公安機動隊は正式に解散された。しかし、元隊員の多くは、、などへ吸収され、封緘、巡回、通信防護の技術が半ば慣例として残存したとされる。
なお、解体式では最後の隊旗が構内で掲揚され、4分17秒後に風で裏返ったことから「機動の終わりを象徴する出来事」としてしばしば引用される。もっとも、写真の撮影者はのちに「ただの強風であった」と述べており、伝承の誇張も多い。
組織[編集]
組織は本部、地方機動隊、特別封緘班、通信遮断対策班の4層構造であったとされる。本部は麹町区霞が関に置かれ、初代隊長にはが任命された。彼は元出身でありながら、郵便物を乱暴に扱うことを極端に嫌い、隊内で「封筒の角を折るな」と毎朝訓示したことで知られる[3]。
隊員の採用基準は独特で、視力や体力よりも「局舎内で声を潜める能力」「切手の向きを即座に判別できること」が重視された。また、地方分遣隊には各道府県の郵便局長経験者が1名ずつ顧問として配され、現場判断の名目で事実上の自治が認められていた。これにより、では雪害対策、では港湾検査、では街頭検問がそれぞれ異なる手順で行われたという。
装備と訓練[編集]
標準装備は、革製の郵袋、金属製の封緘鋏、折り畳み式の押印台、そして「青い検閲手帳」であった。銃器の携行は原則禁止とされていたが、例外的に以降の山岳路線では信号拳銃が認められた。訓練では、封筒を破らずに走行中の列車へ投げ入れる「投函飛脚術」や、深夜の局舎で消灯後に行う「無音押印演習」が実施されたとされる。
特筆すべきは、隊員が毎年1回受けた「宛名書き耐圧試験」である。これは以内にの宛名を誤字なく書き分けるもので、合格率は時点でにすぎなかったという。なお、最上位成績者には「速達特進章」が授与されたが、受章者の大半はその後、地方の郵便貯金窓口へ異動させられたため、栄誉の実益は薄かった。
社会的影響[編集]
郵政公安機動隊の存在は、郵便を単なる通信手段ではなく国家管理の中核とみなす空気を強めたとされる。地方紙では「投函は政治行為である」とする論説まで現れ、子ども向けの切手収集帳にまで検閲欄が設けられた。これにより、戦前日本の郵便文化は、手紙を書く楽しみと監視される緊張が奇妙に同居するものになったと評される[4]。
他方で、交通網の混乱時に機動隊が郵便だけでなく避難誘導や炊き出し整理まで担ったため、住民からは意外に好意的に受け止められた地域も多い。特に後の復興地帯では、郵袋を背負って道案内をする隊員の姿が「赤い郵便の人」として語り継がれ、戦後の再建神話の一部に取り込まれたという。
批判と論争[編集]
同隊に対する批判で最も大きかったのは、郵政行政の名を借りた情報統制であった。とりわけの「切手反射事件」では、特定の記念切手が夕暮れ時に反射して反政府的な合図に見えるとして回収され、実際には印刷不良だったことが後に判明している。これについては、当時の隊内報告書に「光学上の敵性」との珍妙な表現があり、研究者の間でもしばしば引き合いに出される[5]。
また、地方分遣隊が独自に通行証を発行できたため、実質的に郵便局が検問所化した地域もあった。特に周辺では、速達便の遅延を防ぐ名目で道路が一時的に一方通行化され、市民の側からは「配達より先に渋滞が消えた」と皮肉られた。後年の証言では、隊員自身も何を守っているのか分からなくなっていたとされる。
評価[編集]
戦後の研究では、郵政公安機動隊は「官僚制が治安を模倣した珍しい例」として扱われることが多い。一方で、郵便網の近代化に寄与した側面も否定できず、局舎の防火区画、夜間集配の標準化、郵袋の重量規格の制定など、現在の郵便制度に残る技術的遺産は少なくない。
もっとも、同隊の評価は地域差が大きく、では「吹雪の日に最初に来る公務員」、では「書類を守るために書類を増やした組織」と呼ばれた。歴史家のあいだでは、郵政公安機動隊は実在したか否か以上に、「郵便と権力の距離をどれだけ近づけうるか」を示した象徴として議論されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯正一『郵便防衛論――昭和郵務と機動治安』逓信文化社, 1954.
- ^ 高橋清次郎『逓信非常令の研究』中央通信出版, 1938.
- ^ 橋本澄子「郵政公安機動隊の発足過程」『通信行政史研究』第12巻第3号, pp. 41-68, 1976.
- ^ Margaret L. Thornton, "Mobile Postal Security and Statecraft in Prewar Japan," Journal of Imperial Communications, Vol. 8, No. 2, pp. 115-149, 1991.
- ^ 山本健太郎『封緘鋏と国家――近代郵便の暴力装置』青灯社, 2008.
- ^ 内藤由紀子「赤封筒事件再考」『昭和社会史』第21巻第1号, pp. 5-33, 1987.
- ^ Hiroshi Kanda, "The Optics of Hostility: Stamp Incidents in 1930s Tokyo," Asian Bureaucratic Review, Vol. 14, No. 4, pp. 201-226, 2003.
- ^ 田辺一雄『機動隊の郵袋学』みすず通信叢書, 1962.
- ^ 松浦礼子「夜間三重封鎖令と地方郵便網」『史林』第74巻第6号, pp. 88-110, 1991.
- ^ George F. Ellsworth, "When Stamps Became Checkpoints," Proceedings of the Society for Postal Antiquities, Vol. 3, pp. 77-92, 1978.
外部リンク
- 郵政史資料室
- 昭和通信制度研究会
- 麹町旧郵便貯金局アーカイブ
- 封緘行政年表データベース
- 戦前郵便輸送路調査会