郷椋名
| 名称 | 郷椋名 |
|---|---|
| 読み | ごうむくな |
| 英語表記 | Gomukna |
| 分野 | 文書学・民俗分類法 |
| 成立 | 1780年代ごろとされる |
| 主な地域 | 信濃国南部、甲斐国西部 |
| 用途 | 戸籍補助、祭礼名簿、山論記録 |
| 特徴 | 地名由来の仮名割り当てと家名の層別化 |
| 関連文書 | 郷椋帳、名寄せ札、村方覚書 |
郷椋名(ごうむくな)は、の近世文書に見られるとされる、村落ごとに異なる読み仮名と家格注記を組み合わせた表記体系である。後期ので整えられたとする説が有力で、のちに南部の記録法として継承されたとされる[1]。
概要[編集]
郷椋名は、同音異字の多い村落名や家名を整理するために作られたとされる表記法である。一般にはの奉納札、帳、初期の学区文書に残った奇妙な注記として知られている。
この方式では、同じ「むく」音に対して「椋」「躬」「杢」などの字をあえて使い分け、さらにそれぞれの上に「郷」「里」「新田」などの層位記号を付した。結果として、読みやすさよりも「どの集落の誰か」を示すことが優先され、後世の研究者からは半ば暗号、半ば行政術として扱われている[2]。
歴史[編集]
成立の背景[編集]
郷椋名の起源については、年間の度重なる飢饉により、村々で同名の庄屋が増えたことが契機になったとする説がある。とくにの山間部では、隣村との往来が多いにもかかわらず家名が三代続けて同じであったため、書役のが識別用の補助符号を考案したと伝えられる。
もっとも、初期の文書は現存数が少なく、の旧家に伝わる「郷椋草稿」に依拠する部分が多い。草稿には、家ごとの通称、田地の方角、家屋の屋根材まで記号化する案が見られ、実用性と執着の両面で後世の注目を集めた。
普及と制度化[編集]
年間に入ると、郷椋名はの代官所で一時的に採用され、山論の調停記録に用いられたとされる。この時期、記録官の間では「椋」「椋々」「小椋」の三段階を用いて家格を示す方式が整えられ、村役人の席次整理にも流用された。
からにかけては、寺子屋の手習い帳にも混入し、子どもが自分の家の郷椋名を毎朝書き写す習慣があったという。なお、ある年の藩では、誤って家畜の繋留簿にまで導入されたため、牛に「椋上」「椋下」の別がつけられたとの記述がある[3]。
近代以降の再評価[編集]
政府による文書様式の統一で郷椋名は急速に廃れたが、の国文調査室では、地方史料の読解補助として再評価が進んだ。とくに末から初期にかけて、民俗学者のが長野・山梨の山村で採集した記録が、郷椋名研究の国際的な出発点になったとされる。
一方で、戦後にはの整理過程で「郷椋名」を家紋の一種と誤認した学芸員がいたことが知られている。この誤認は数年間放置され、展示パネルに「椋は飛翔する家格を象徴する」と書かれていたため、来館者から妙に人気を集めたという。
表記法[編集]
郷椋名の基本構造は「郷層+椋字+名注」である。たとえば「中郷椋之助」「川椋新田」「里椋平右衛門」などの形があり、先頭の層位語が居住地、中央の椋字が同音区別、末尾の名注が家の由緒を示すと解釈されている。
表記には地域差が大きく、系では「椋」を好み、系では「杢」を用いる傾向がある。また、祭礼文書では「名」を省略して椋字だけを書き、代わりに朱筆で家の格式を添えることが多かった。このため、同じ人物でも用途によって四通りの郷椋名が存在することがあり、研究者を悩ませてきた。
なお、の未整理目録には、郷椋名を「地方詠唱の一種」とする謎の分類票が1枚だけ残っている。これについては真偽不明であるが、書字の揺れを見た担当者が歌詞と誤認した可能性が指摘されている。
社会的影響[編集]
郷椋名は、単なる表記法にとどまらず、村落内の序列や境界意識を可視化する装置でもあったとされる。婚姻の可否、祭礼の席順、山林共同利用の権利までが郷椋名で整理された地域もあり、名の違いがそのまま土地の違いとして機能した。
このため、南端では「郷椋名が違うと鍬の角度も違う」と言われ、嫁入り前に相手方の帳面を見せてもらう慣習が生まれたという。もっとも、実際には帳面の読み違いが多く、3軒先の家の名を自家のものだと信じていた例も報告されている。
の郷土史ブームでは、郷椋名は「失われた村の知恵」として脚光を浴びたが、自治体職員の間では「印刷時に校正を地獄にする文字体系」として恐れられた。ある町史編纂委員会では、1冊の原稿に23種類の椋字が混在し、最終的に全て「木」に統一されたことで研究者同士が十年ほど口を利かなかったとされる。
批判と論争[編集]
郷椋名研究には、そもそも実在したのかという根本的な疑義がある。の古文書学派は、現存史料の多くが後年の筆写であり、郷椋名という語自体が近代の郷土教育で作られた可能性を示唆している[4]。これに対し、地方史料派は「文書の不自然な細部こそ制度の痕跡である」と反論している。
また、40年代に刊行された『村役場の椋字帳』が、実は筆者による創作日記だった疑いがあることも論争の種である。日記の中には「椋を三つ並べると村が静まる」といった記述があり、学術的には到底採用しがたいが、民俗芸能の研究ではしばしば引用されている。
主な郷椋名の例[編集]
中郷椋之助(なかごうむくのすけ)- の名主家に伝わる形式で、最も古い郷椋名の一つとされる。正月の帳面では「椋之助」とだけ書かれるが、盆になると「中郷」を必ず付す慣例があった。
里椋新左衛門(さとむくしんざえもん)- 西部で見られた格式名で、村境をまたぐ婚姻の際にのみ使われた。ある年、誤って米俵にもこの名が書かれ、俵が「新左衛門」として扱われたという。
川椋平(かわむくたいら)- 河川工事の記録に頻出する簡略形で、増水時の人夫名簿に便利であったとされる。ところが、同名の舟が3隻あったため、帳簿では人と舟がしばしば入れ替わった。
新田杢蔵(しんでんもくぞう)- 初期の地租改正資料に現れる例で、旧式の椋字を避けて杢字を採用した過渡的形態である。役所側が「木」に直し忘れたため、数年間だけ正式名称として通用した。
高原椋右衛門(たかはらむくえもん)- 周辺で確認される最上位の家格名で、神事の先頭に立つ家にのみ許された。実際には5家しか該当しないはずが、儀礼の都合で12家に増やされたため、後に格付け制度そのものが形骸化した。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『信濃村落における椋字表記の発生』信州郷土史研究会, 1898.
- ^ Margaret A. Thornton, “Gomukna and Local Rank Markers in Central Japan,” Journal of Rural Philology, Vol. 12, No. 3, 1931, pp. 214-247.
- ^ 佐久間定治『郷椋帳の文法と家格』地方文書学院出版部, 1956.
- ^ 小野寺澄子『村落記号としての椋名』日本民俗叢書, 1968.
- ^ Harold B. Whitcombe, “Administrative Semiotics in the Kiso Highlands,” Transactions of the East Asian Antiquarian Society, Vol. 7, No. 1, 1948, pp. 33-61.
- ^ 山岸光雄『高遠藩山論記録にみる郷椋名』長野史料刊行会, 1974.
- ^ 田代静江『椋、杢、そして名注—中部山地の補助記号体系—』古記録文化研究, 第9巻第2号, 1982, pp. 88-109.
- ^ Eleanor J. Phelps, “When a Cow Became a Rank: Misread Registers from Shinano,” Archivum Nipponicum, Vol. 19, No. 4, 1995, pp. 401-429.
- ^ 中村義雄『郷椋名の終焉と近代校正の悲劇』東京書誌, 2007.
- ^ 木村晴香『村役場の椋字帳は誰が作ったか』信州歴史資料館紀要, 第14巻第1号, 2016, pp. 11-39.
- ^ 『村役場の椋字帳』校訂委員会編『村方覚書とその周辺』甲州文庫, 1973.
- ^ Penelope G. Marsh, “A Very Strange Reading System from Nagano,” Oriental Records Review, Vol. 5, No. 2, 1962, pp. 77-95.
外部リンク
- 信濃郷椋名文書アーカイブ
- 甲州補助符号研究所
- 長野県山村表記史データベース
- 国立古記録整理センター 椋字目録
- 郷土記号学会ウェブ年報