鐘厚芽 御色
| 人名 | 鐘厚芽 御色(かねあつめ おしょく) |
|---|---|
| 各国語表記 | Kané Atsume Oshoku / KANE ATSUME OSHOKU |
| 画像 | (画像は存在しないとされる) |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像説明 | 黒塗りの官服写真が官報に転載されたとされる |
| 国略称 | 日本 |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 御色内閣(第34代) |
| 就任日 | [[1949年]]〈[[昭和]]24年〉[[4月12日]] |
| 退任日 | [[1952年]]〈[[昭和]]27年〉[[10月29日]] |
| 生年月日 | [[1891年]]〈[[明治]]24年〉[[11月3日]] |
| 没年月日 | [[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[6月17日]] |
| 出生地 | 札幌北区(現・区画名の調整前) |
| 死没地 | 港区 |
| 出身校 | 法科 |
| 前職 | 高等文官試験委員(のち官僚) |
| 所属政党 | 革新国民同盟党 |
| 称号・勲章 | 大勲位菊花章頸飾、旭日大綬章、瑞宝章 |
| 配偶者 | 鐘厚芽(旧姓:綿矢)栞香 |
| 子女 | 鐘厚芽 見鴻、鐘厚芽 凛音 |
| 親族(政治家) | 綿矢家系(地方政界)・御色一族(中枢官庁OB) |
| サイン | 「御色」縦書き三画目が伸びると評された |
鐘厚芽 御色(かねあつめ おしょく、[[旧字体|舊字]]、[[1891年]]〈[[明治]]24年〉[[11月3日]] - [[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[6月17日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。」内閣総理大臣の第34代を務め、同時に[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内務大臣]]を歴任したとされる[1]。
概説[編集]
鐘厚芽 御色(かねあつめ おしょく)は、戦後の議会運営と経済安定を結びつけることで知られる[[日本]]の[[政治家]]である[1]。
官僚制の合理性を重んじつつ、「数で説得し、数字で責任を取る」との方針を掲げ、[[内閣総理大臣]]としては御色内閣を率いたとされる[2]。とくに、国会に提出された白書の文量を「ページではなく行数」で管理する制度案を打ち出したことが、後世に「御色式・官庁カウント」として残されている[3]。
もっとも、同時代から「政策の中身より、政策名の語感を整えることに熱心だった」との批判もあり、逸話が先行した人物像として記憶されることが多い[4]。
生涯[編集]
鐘厚芽 御色は[[明治]]24年の[[11月3日]]、[[北海道]]札幌北区に生まれた[5]。父は炭鉱監督官を務めたとされ、母は寺子屋の帳場役をしていたといわれる。幼少期から「音が先、意味があと」と書き癖を指摘され、字面の整いを磨くよう周囲に促されたとされる[6]。
学生時代、御色は[[東京帝国大学]]法科に進学し、同大学の文書学研究会では「官報の見出し語を規格化する」試作を行ったと伝えられる[7]。この試作はのちに、政権運営で多用される「見出し三段論法」へ発展したとされるが、真偽については異説もある[8]。
政界入りは、官僚出身の路線が硬直化していた時期に、[[革新国民同盟党]]の政策部へ転じる形で起きた。[[衆議院議員総選挙]]に立候補して初当選を果たしたのは[[1921年]]〈[[大正]]10年〉のことであるとされる[9]。当時の選挙公報は手彫りの木版で作られたといい、御色の筆跡だけが「逆さから読んでも意味が通る」よう調整されたと記録されている[10]。
その後、[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内務大臣]]を順に歴任し、当時の省庁統治を巡って複数回の政争を経て求心力を獲得した。とくに[[1946年]]〈[[昭和]]21年〉の「輸送比率改定」は、海運業者の請求書を一律の“行式”に統一した点が評価された一方、事務負担の増大を招いたとされる[11]。
そして[[1949年]]〈[[昭和]]24年〉[[4月12日]]、[[内閣総理大臣]]に就任した[12]。当時の第34代内閣では、就任直後に「国会答弁は小数点第2位まで」を原則とする通達を出したとされるが、実際にどの程度徹底されたかは不明である[13]。御色内閣は[[1952年]]〈[[昭和]]27年〉[[10月29日]]に退任した。
退任後は、故郷の[[北海道]]で「行数教育財団」を設立し、子ども向けの作文教室を開いたとされる[14]。同財団では、作文を採点する際に“句点の位置”と“呼応語の距離”を点数化したという記録が残るが、細部の設定は後年の創作が混じった可能性があると指摘されている[15]。
政治姿勢・政策・主張[編集]
御色の内政は、官庁運用の「見える化」を中心としていたとされる[16]。特に[[内閣]]で推進した「年間支出の行式整合」は、年度予算を“項目”ではなく“行”として監査し、行の増加がそのまま責任増に直結する仕組みを導入したとされた[17]。一方で、現場からは「行数だけ増えて政策が増えない」との不満が噴出し、御色は“行の削減より、行の意味を削れ”と返したという逸話がある[18]。
外交では、[[外務大臣]]時代の経験を踏まえ、条約交渉の文面を先に“語順テンプレート”化する方針が採られたとされる[19]。「相手国の言語の文化的禁忌に配慮しつつも、こちらの条文の骨格は崩さない」という主張で、交渉準備を秘密裏に前倒ししたといわれる[20]。ただし、その前倒しが情報漏えいに近い形になったのではないかという疑念も後年に提示された[21]。
御色は「理想はスローガンではなく、交点である」との語録を残し、成果指標の組み合わせで政策評価を行うスタイルが特徴とされた[22]。この手法は、国会の質疑時間を「質問の主語数」でも管理する提案にまでつながったとされ、議員の間で賛否が割れた[23]。
人物[編集]
性格は“丁寧だが逃げない”とされ、表情の変化が少ない代わりに、質問に答える際の語尾を必ず揃えたという[24]。秘書官の回顧録では、御色は会談の前に机上の鉛筆を3本並べ、左から「時間・約束・撤回」の順に並べ替える儀式をしていたと記されている[25]。そのため、側近は「御色の沈黙は、たいてい撤回の前兆だ」と冗談めかしていたと伝えられる[26]。
語録としては「鐘は集めるものではなく、厚く芽を出させるものだ」が有名である[27]。これは、政策名を“短く強く”するよりも、“長く育てる”べきだという比喩だと説明された。なお、語録の出典は当時の議事録の写しに基づくとされるが、写しそのものが確認不能である点が、記述の信憑性を揺らしている[28]。
逸話として、御色が初めて閣議机に着席した際、机の引き出しから砂時計が出てきたという話がある[29]。砂時計は閣僚が会話時間を測る道具だとされ、閣議が“沈黙の競争”になった時期があったと回想されている[30]。
評価[編集]
評価は概ね二分されている。肯定派は、御色が行政の説明責任を「数」として固定した点を重視し、後の政策評価制度に影響したと指摘する[31]。また、答弁の精度を上げることで議事の紛糾を減らしたとされ、官僚・議員双方から「疲労が半減した」という感想が寄せられたとする資料もある[32]。
一方で批判派は、御色の“数への執着”が現場を事務作業に閉じ込め、政策の実効性を損ねたと論じた[33]。とくに、通達を行式で管理する試みが、部署によっては書類だけが肥大化したという証言がある[34]。さらに、語感を整える方針が政策議論の中身より先に立つことがあり、国会答弁が「型の披露」に見えたとの指摘もある[35]。
近年の研究では、評価の分布が地域・派閥で偏っている可能性が指摘され、史料の編集過程にも注意が必要とされている[36]。
家族・親族(系譜)[編集]
御色の配偶者は[[鐘厚芽(綿矢)栞香]]とされる[37]。栞香は教育実務に携わり、夫の政治活動を支えたといわれるが、伝記の細部は後年に脚色されたとの見方もある[38]。
子女としては、長男[[鐘厚芽 見鴻]]、長女[[鐘厚芽 凛音]]が挙げられる[39]。見鴻は官界に入り、地方財政の標準化に関わったとされ、凛音は女子教育団体の会計監査を務めたと記録される[40]。
親族の系譜は「綿矢家系」と「御色一族」の二本に分かれると説明されることが多い。綿矢家系は[[北海道]]の旧藩士の末裔とされ、御色一族は中枢官庁のOBが多いとされる[41]。もっとも、系譜の接続関係については資料が一致していない部分があり、同族史が先に作られ、その後に政治伝として整えられた可能性があるとされる[42]。
選挙歴[編集]
御色は[[衆議院議員総選挙]]で繰り返し当選を果たしたとされる[43]。初当選は[[1921年]]〈[[大正]]10年〉の選挙で、得票率は推計で約61.3%とされるが、当時の集計方式が複数あったため厳密性には注意が必要とされる[44]。
その後、[[1930年]]〈[[昭和]]5年〉、[[1937年]]〈[[昭和]]12年〉、[[1942年]]〈[[昭和]]17年〉にも立候補し、それぞれ“接戦型”と“独走型”が交互に起きたと記述される[45]。とくに[[1937年]]の選挙では、選挙区の投票所を旧式の木造建築に戻したことが功を奏し、投票率が前回比で+8.9ポイントに上がったとされる[46]。
戦後は[[1949年]]〈[[昭和]]24年〉の総選挙で再選を果たしたが、選挙運動の時期に「鐘の音を真似た行進曲」を流したという逸話が伝わる[47]。ただし、この行進曲が実在したかどうかは不明とされる[48]。
栄典[編集]
御色は複数の勲章を受章したとされる[49]。最も格の高いものとして[[大勲位菊花章頸飾]]が挙げられ、受章年は[[1950年]]〈[[昭和]]25年〉とされる[50]。そのほか、[[旭日大綬章]]と[[瑞宝章]]を重ねて受けたとも記されるが、受章順序には異説がある[51]。
また位階は[[従一位]]であるとされ、受位時期については[[1949年]]〈[[昭和]]24年〉の内閣発足後すぐだったという説明と、退任直前だったという説明が併存している[52]。この食い違いは、位階台帳の写しの閲覧可否に左右されたのではないかとの指摘がある[53]。
栄典の背景には、予算統制の改革と外交交渉の成果があるとされるが、個々の功績の配分については伝記間で差が見られる。とくに“鐘厚芽”という姓の由来を功績と結びつける説が見られ、史料批判の対象になることがある[54]。
著作/著書[編集]
御色は政治家としての著作も残したとされる[55]。代表的なものとして『[[行式行政の骨格]]』([[1951年]])が挙げられる。書名の“骨格”は、条文の語順と予算の行数を対応させるという思想を指すと説明される[56]。
また、『[[条文のリズム—外交交渉を数で締める]]』([[1950年]])では、交渉文の句点配置が折衝の温度感を左右すると主張したとされる[57]。さらに『[[札幌の鐘は七回鳴る]]』([[1938年]])は随筆として紹介されるが、政治目的の隠語であるとの見立てもある[58]。
ただし、著書の多くは没後に出版されたという記述もあり、編集の過程で内容が再構成された可能性があるとされる[59]。
関連作品[編集]
御色をモデルにしたドラマや小説が複数存在するとされる[60]。たとえば、戦後直後のテレビドラマとして『[[御色内閣 行数の英雄]]』が挙げられるが、実際に放送されたかは定かでない[61]。
また、舞台作品『[[砂時計閣議]]』では、閣僚が砂時計をひっくり返すたびに政策が修正されるという演出が定番化したといわれる[62]。映画化案として『[[鐘の撤回法]]』が企画されたとも報じられるが、脚本資料の所在は確認されていない[63]。
一方で、御色の政策名や語録の“語感”を借用した二次創作も多く、作品によって人物像が誇張されていると指摘されている[64]。
脚注(注釈/出典)[編集]
参考文献[編集]
脚注に対応する参考文献は以下の通りである。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
御色内閣記録館
行数教育財団アーカイブ
札幌鐘史料データベース
日本政党史写本倉庫
官報見出し語索引
脚注
- ^ 山嵜晃成『御色式・官庁カウント論』東都書房, 1953.
- ^ Dr. Elza Hart 『The Syntax of Diplomacy in Postwar Japan』Tokyo Academic Press, Vol.12 No.4, pp.31-74.
- ^ 緒方静馬『戦後行政の行数監査と議事紛糾』国政研究所紀要, 第7巻第2号, pp.5-28.
- ^ 篠場俊逸『鐘厚芽 御色伝:厚く芽を出す政治』北星文庫, 1956.
- ^ Kazuhiro Minatani, “Heading Standardization in the Cabinet Minutes,” Journal of Bureaucratic Studies, Vol.19, pp.99-121.
- ^ 佐伯瑛一『条文のリズム—外交交渉を数で締める』海鳴出版社, 1950.
- ^ ペリグリーニ・ルイジ『Japanese Parliamentary Rhetoric and Decimal Precision』International Review of Public Speech, pp.201-230.
- ^ 鈴音文助『行数教育財団の採点法(句点距離主義)』札幌学芸館, 1962.
- ^ ロドリゲス・マリオ『Emperor’s Papers and the Phantom Copy of the Seals』Archivum Japonicum, 第3巻第1号, pp.1-18.
- ^ 鐘厚芽御色『行式行政の骨格』御色学士会, 1951.
- ^ (出典の一部が誤植とされる)“官報の見出し語規格”『官報研究年報』第2巻第9号, pp.77-88.
外部リンク
- 御色内閣記録館
- 行数教育財団アーカイブ
- 札幌鐘史料データベース
- 日本政党史写本倉庫
- 官報見出し語索引