若尾 涼司
| 人名 | 若尾 涼司 |
|---|---|
| 各国語表記 | Ryoji Wakao |
| 画像 | Wakao_Ryoji.jpg |
| 画像サイズ | 280px |
| 画像説明 | 1969年の若尾涼司 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | Flag of Japan |
| 職名 | 内閣総理大臣、衆議院議員 |
| 内閣 | 若尾内閣、第2次若尾内閣 |
| 就任日 | 1968年11月8日 |
| 退任日 | 1972年7月5日 |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 没年月日 | 1987年9月3日 |
| 出生地 | 東京府下谷区 |
| 死没地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 農商省官僚、外務省政務調査官 |
| 所属政党 | 進和党 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 若尾百合子 |
| 子女 | 若尾彰一、若尾真理 |
| 親族(政治家) | 若尾信三(義兄) |
| サイン | Wakao_signature.png |
若尾 涼司(わかお りょうじ、{{旧字体|若尾涼司}}、[[1912年]]〈[[明治]]45年〉[[4月18日]] - [[1987年]]〈[[昭和]]62年〉[[9月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第72・73代[[内閣総理大臣]]、[[通商産業大臣]]、[[外務大臣]]、[[官房長官]]などを歴任した。
概説[編集]
若尾涼司は、戦後日本の高度経済成長期において、官僚出身の調整型政治家として知られた人物である。の下町に生まれ、を卒業後、に入省し、戦時統制と復興行政の双方を経験したのち政界に転じた[1]。
その後、に当選して国政へ進出し、通商産業行政の制度設計を担ったのち、1968年に第72代内閣総理大臣に就任した。若尾内閣は「静かな改造内閣」と評され、表向きは穏健であったが、実際にはや構想など、やや先走った国家事業を連発したことで知られている。
また、若尾は外交面でを押し進めた一方、党内では「会議を増やすほど権力は薄まる」として長時間会議を嫌った逸話が残る。なお、没後に整理された私文書から、彼が首相在任中に“政策を紙に書く前に鉛筆を三本折る”という奇癖を持っていたことが確認されたが、これは本人の発言録と一致しないため、真偽は定かではない[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
若尾涼司は[[1912年]]、東京府下谷区の質屋兼文房具商の家に三男として生まれる。父・若尾清平は区会議員を務めたことがあり、地域の道路舗装と氷室の設置をめぐって名を上げた人物であった。涼司は幼少期から算盤と新聞を好み、近所では「帳簿を読む子」と呼ばれていたという。
一家はで商店を半焼したが、これを機に父が町内の復興組合に関与し、涼司も災害復旧の会議に同席していたとされる。この経験が後年の「行政は現場で磨かれるべきである」という持論につながったとされる。
学生時代[編集]
からを経て、に入学した。学生時代はよりもを好み、ゼミでは「法令を読むより運用を読むべきだ」と語ったという。当時の同級生には、のちに大蔵省へ進む、新聞人となるらがいた。
また、学内では英語討論会の常連で、米国留学生相手に「日本の官僚は書類を通じて国家を作る」と主張していたとされる。なお、彼が卒業論文として提出した『統制経済における省令の柔軟運用』は、題目だけで教授会の一部を沈黙させたという逸話が残る。
政界入り[編集]
1936年にへ入省し、食糧管理局配属となった。ここで若尾は、配給帳票の記載方法を統一する「若尾式印字符号」を提案し、庶民の不満を減らしたとされる。この改正は実務上の効果が高く、当時の省内では「帳票を直すと市場が静まる」とまで言われた。
戦後はの調査業務に転じたのち、1949年のに公認で立候補し、初当選を果たした。選挙区では「役所を知る男」として支持を集め、また地元の漁協との折衝で一度も大きな演説をせずに票を積み上げたことが、後年の寡黙な政治手法の原型になったとみられる。
通商産業大臣時代[編集]
1961年、若尾は[[通商産業大臣]]に就任した。ここで彼は、鉄鋼、造船、電機の三分野を「国の背骨」と位置づけ、業界団体ごとの利害を省庁横断で整理する方針を採った。閣僚としての再編を推進したほか、工業地帯の電力不足を緩和するため、を主導したとされる。
一方で、若尾の会議運営は極端に短く、局長会議を15分で切り上げたことから「砂時計の首相」と呼ばれた。これに対して官僚側からは反発もあり、当時のでは「資料は出すが説明はしない」若尾メモが密かに流通したという。
内閣総理大臣[編集]
1968年、党内の調整を経て若尾は内閣総理大臣に就任した。第72代、続く第73代として第2次若尾内閣まで務め、在任中は都市公害対策、流通合理化、エネルギー安定供給を三本柱に掲げた。
この時期、彼はを打ち出し、東京・横浜・川崎の間に半ば行政的な「調整回廊」を設けようとしたが、実施段階でとの権限整理が混乱し、最終的には“会議のための会議”が増えただけだったとされる。また、構想では、房総半島沖に試験的な送電ケーブルを敷設し、海洋研究者からは高評価を受けた一方、野党からは「国家が海を長机代わりにしている」と批判された[3]。
外交ではとの資源協定、への経済協力拡大を進めたほか、との調整にも関与した。なお、1971年の米価調整をめぐる国会答弁では、彼が「農家のための値段は数字ではなく生活である」と述べたと記録されているが、その直後に具体的な数字を20分間読み上げたため、演説の趣旨がやや不明瞭になった。
退任後[編集]
1972年の退任後、若尾は政界の表舞台からは一歩退き、進和党の顧問として政策集の校閲にあたった。もっとも、派閥調整の電話は晩年まで続き、本人は「引退したのではない、机を広く使うようになっただけである」と語ったとされる。
晩年はの自宅で回想録執筆を試みたが、原稿は未完に終わった。没後、関係者の証言から彼が毎朝7時12分に同じ便箋へ「今日も道路と配電と税率」とだけ書いていたことが知られるようになり、官僚出身首相としての生活感覚を象徴するものとして引用されている。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
若尾の内政政策は、行政技術の細密化と現場主義の折衷に特徴がある。とくにの配分基準を見直し、人口だけでなく道路延長と港湾処理量を加味する方式を導入したことで、沿岸部の自治体から高い支持を得た。
また、公害対策についてはを強化したが、施行の前日に「基準値を守れない企業は、守れる日まで待てばよい」と言ったとされ、実務家らを困惑させた。この発言は実際には秘書官の回想に基づくもので、要出典とされることもある。
外交[編集]
外交面では、若尾はを基軸としつつも、との工業協力を重視した。彼は「港を持つ国とは、まず港の掃除から始めるべきである」と述べ、インフラ整備を通じた相互依存を説いたという。
一方で、との国交正常化に向けた非公式接触では、若尾自身が相手方高官に日本製の文房具を贈ったことが外交儀礼として記録されている。これが後に「鉛筆外交」と呼ばれたが、本人は最後までその呼称を嫌った。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
若尾は寡黙でありながら、必要な場面では妙に細部へこだわる性格だった。会議では長広舌を避ける一方、旅程表の改行位置を巡って秘書官を3時間待たせたことがあり、周囲からは「沈黙の管理者」と呼ばれた。
また、の行事に出席した際、靴の音が大きすぎるとして控え室で2回履き替えたという逸話がある。これにより、彼は礼服の裾丈まで自ら確認する首相として知られるようになった。
語録[編集]
若尾の語録としては、「政治は旗を立てることではなく、旗竿を腐らせないことである」「予算は増やすより、崩れないように置くほうが難しい」などが伝えられる。
もっとも有名なのは「大きな方針は一行でよい。細目は別紙二十六枚である」という発言で、官僚機構の実務感覚を端的に表すものとして引用される。
評価[編集]
若尾涼司は、政策立案能力の高い実務家として評価される一方、政治的な夢のなさを批判されてもきた。支持者は、戦後復興から成長期への移行を無難に橋渡しした人物として位置づけるが、批判者は、巨大事業を会議と通知で処理しようとしたことが結果的に行政の肥大化を招いたと指摘している。
とくには、後年の都市政策研究において「構想の壮大さと実装の小ささの落差」が論じられる代表例となった。ただし、当時の政治状況を考えれば、若尾の慎重さはむしろ危機管理として妥当であったとの見方も根強い。
家族・親族[編集]
若尾家は下谷を拠点とする商家系で、父・清平、母・とみのほか、長兄・正一、次兄・保郎がいた。妻の若尾百合子は旧家の出で、戦後は社会福祉活動に関わったとされる。
子女は長男の若尾彰一、長女の若尾真理で、彰一は金融関係、真理は文化事業に進んだ。なお、義兄の若尾信三はで活動した地方政治家であり、若尾一族は「地方行政と国政をまたぐ政治家の系譜にある」と評されることがある。
選挙歴[編集]
1949年のに公認で立候補し、初当選を果たした。その後、1952年、1955年、1958年、1960年の各総選挙で再選され、計7回当選したとされる。
とくに1958年選挙では、地元の港湾整備計画の是非が争点となり、若尾は演説会を1回しか行わずに票を伸ばした。選挙後、新聞各紙は「若尾は街頭よりも書類で勝つ男」と報じたが、本人は「書類が街頭の代わりをしてくれた」と述べたという。
栄典[編集]
若尾は退任後、[[1973年]]に[[大勲位菊花章頸飾]]を受章し、[[1987年]]の死後に[[従一位]]を追贈された。これらの栄典は、戦後の政務運営と長期にわたる党内調整への功績によるものとされる。
そのほか、[[1965年]]に[[勲一等旭日大綬章]]、[[1972年]]に[[文化功労者]]候補として内々に検討された記録があるが、後者は制度上の取り扱いが曖昧で、官報上の確認は難しい。
著作/著書[編集]
『行政は夜に育つ』(1966年、若尾涼司著)は、官僚機構と政治判断の関係を論じた随筆集で、巻末に「机の上で結論を出すな」という短文が収録されている。
『海底電力網構想ノート』(1971年)は、首相在任中の政策メモを整理したものとされ、技術者向けの図表が妙に多いことで知られる。なお、同書の第3章には突然「紙は湿る前に回収せよ」という一節があり、編集上の事故ではないかとする説もある。
関連作品[編集]
若尾涼司をモデルにしたとされる戯曲『砂時計の議長』(1979年)は、官僚出身の首相を風刺した作品で、初演時に「会議が短すぎて舞台転換が間に合わない」と評された。
また、テレビドラマ『若尾内閣』(1984年、)では、首相官邸の静けさを徹底的に描いた結果、視聴者から「政治ドラマなのに電話が鳴らない」と苦情が寄せられたという。
脚注[編集]
1. 若尾家旧蔵の履歴書断簡による。 2. 秘書官・三浦浩文回想録『首相室の鉛筆』中央政経社、1991年。 3. 海底電力網試験に関する国会審議録第58号、1969年5月。
注釈 - 彼の出生地については、のどの町内かで記録が揺れている。 - 「鉛筆外交」という呼称は後世の新聞見出しに由来するとされる。
参考文献[編集]
山岸直人『戦後政権と官僚首相』晃洋書房、1988年。
三浦浩文『首相室の鉛筆』中央政経社、1991年。
高見沢譲『高度成長期の政治技術』東京大学出版会、1994年。
Elizabeth H. Moore, "Administrative Men in Postwar Japan," Journal of East Asian Politics, Vol. 12, No. 3, 1996, pp. 211-238.
石井正臣『通産行政の形成と若尾涼司』日本評論社、2002年。
David R. Hall, "The Wakao Doctrine and Coastal Power Lines," Pacific Affairs Review, Vol. 8, No. 1, 2005, pp. 44-69.
宮本栄子『沈黙の管理者 若尾涼司』岩波書店、2008年。
『若尾涼司関係文書目録』国立政治史料館、2013年。
小松原修一『海底電力網とその時代』みすず書房、2017年。
Haruto Senda, "Ryoji Wakao and the Art of Short Meetings," The Tokyo Historical Quarterly, Vol. 27, No. 4, 2020, pp. 9-31.
関連項目[編集]
進和党
第72代内閣総理大臣
通商産業省
高度経済成長
海底電力網
首都圏再編計画
鉛筆外交
官僚政治
外部リンク[編集]
国立政治史料館 若尾涼司アーカイブ
首相官邸歴代内閣データベース
戦後政治人物事典オンライン
若尾涼司研究会
日本近代政党史デジタルコレクション
脚注
- ^ 山岸直人『戦後政権と官僚首相』晃洋書房、1988年。
- ^ 三浦浩文『首相室の鉛筆』中央政経社、1991年。
- ^ 高見沢譲『高度成長期の政治技術』東京大学出版会、1994年。
- ^ Elizabeth H. Moore, "Administrative Men in Postwar Japan," Journal of East Asian Politics, Vol. 12, No. 3, 1996, pp. 211-238.
- ^ 石井正臣『通産行政の形成と若尾涼司』日本評論社、2002年。
- ^ David R. Hall, "The Wakao Doctrine and Coastal Power Lines," Pacific Affairs Review, Vol. 8, No. 1, 2005, pp. 44-69.
- ^ 宮本栄子『沈黙の管理者 若尾涼司』岩波書店、2008年。
- ^ 『若尾涼司関係文書目録』国立政治史料館、2013年。
- ^ 小松原修一『海底電力網とその時代』みすず書房、2017年。
- ^ Haruto Senda, "Ryoji Wakao and the Art of Short Meetings," The Tokyo Historical Quarterly, Vol. 27, No. 4, 2020, pp. 9-31.
外部リンク
- 国立政治史料館 若尾涼司アーカイブ
- 首相官邸歴代内閣データベース
- 戦後政治人物事典オンライン
- 若尾涼司研究会
- 日本近代政党史デジタルコレクション