小泉 浩一郎
| 人名 | 小泉 浩一郎 |
|---|---|
| 各国語表記 | Koizumi Koichiro |
| 画像 | Koizumi_Koichiro_1959.jpg |
| 画像サイズ | 280px |
| 画像説明 | 1959年の小泉浩一郎 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | Flag of Japan.svg |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 小泉第一次・第二次内閣 |
| 就任日 | 1968年11月25日 |
| 退任日 | 1974年12月9日 |
| 生年月日 | 1912年11月3日 |
| 没年月日 | 1987年8月14日 |
| 出生地 | 神奈川県鎌倉市大町 |
| 死没地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 大蔵官僚 |
| 所属政党 | 自由進歩党 |
| 称号・勲章 | 従一位・大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 小泉澄子 |
| 子女 | 小泉隆一郎、小泉雅子 |
| 親族(政治家) | 小泉孝三(父)、小泉浩太郎(叔父) |
| サイン | Koizumi_Koichiro_signature.svg |
小泉 浩一郎(こいずみ こういちろう、{{旧字体|小泉浩一郎}}、[[1912年]]〈[[大正]]元年〉[[11月3日]] - [[1987年]]〈[[昭和]]62年〉[[8月14日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第62・63代[[内閣総理大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[外務大臣]]、[[内閣官房長官]]を歴任した。
概説[編集]
小泉浩一郎は、戦後日本において財政再建と対外均衡の両立を掲げた保守政治家である。とくに「静かな強硬路線」と呼ばれる独自の政権運営で知られ、官僚出身の緻密さと、選挙区での泥臭い運動量を併せ持った人物として記憶されている。
同時代の政治家の中では珍しく、予算編成の条文を暗唱しながら地方の魚市場で演説を行うことで有名であった。なお、後年に公表された回想録では、自身の政治理念を「国庫は国家の胃袋である」と述べたとされるが、これを裏づける一次史料は確認されていない[1]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1912年、鎌倉市大町の旧家に、地租改正期から地方財政に関与したの長男として生まれる。家は表向きには呉服商を営んでいたが、実際には港湾労務者向けの互助金融を細々と行っており、この経験がのちの地方財政観に影響したとされる。
幼少期から算盤に強く、近隣では「帳簿を見れば税率がわかる子」と呼ばれていた。1934年にのちの選挙区となる湘南沿岸の漁村を視察した際、干物の取引台帳を細部まで検分し、漁協幹部を唖然とさせた逸話が残る。
学生時代[編集]
法学部に入学し、当時の国家財政論を専攻した。本人は外交官を志望していたとされるが、ゼミではむしろの予算制度に関する研究で頭角を現し、卒業論文『臨時財政措置と地方債の相互制御』は教授会で異例の高評価を受けた。
この時期、の古書店で欧米の予算管理書を大量に買い込み、下宿の畳が抜けたという。もっとも、同居していた友人は「本より先にラベルを分類していた」と回想しており、整理癖は青年期から顕著であった。
政界入り[編集]
1936年にへ入省し、主計局で復興債整理を担当した。その後、戦時統制経済の再編に関与し、終戦直後には連合国軍総司令部との折衝において通訳不要と評されるほど条文の記憶力を示した。
1949年にはにから立候補し、初当選を果たした。選挙戦では「税は取るのではなく整えるもの」と訴え、駅前での街頭演説に加えて、漁港の競り場を回る独特の運動で票を伸ばしたとされる。
大蔵大臣時代[編集]
1958年、第3次内閣でに就任し、第一次の大型財政再建計画を推進した。とくに国債発行の上限を年単位で細分化する「分割抑制方式」を導入し、当時の官僚からは「会計検査院泣かせ」と呼ばれた。
一方で、農漁村への交付税配分をめぐって地方議員と対立し、からまで行脚して説明会を重ねた。1960年の予算委員会では、答弁中に昭和34年度の一般会計の細目を一字一句誤らず読み上げたため、議場が一時静まり返ったという。
内閣総理大臣[編集]
1968年、党内調整の末にに就任した。第62代、続く第63代の首相として計6年余り政権を担い、経済成長の鈍化と公害問題の顕在化が進む中で、財政主導型の安定路線を掲げた。
小泉内閣は、を兼務した時期を含めて対米協調を軸としつつ、アジア諸国への賠償・技術協力を拡大したことで知られる。また、官邸の執務室に「地方交付税の赤鉛筆」と呼ばれる独自の採点表を置き、閣議ごとに各省庁の要求を赤入れしたことが伝えられている。
退任後[編集]
1974年の退任後は政界の長老として振る舞い、自由進歩党の調整役を務めた。その後も・の私邸で若手議員を集め、深夜まで財政講義を行ったが、講義の半分は地方の米価と港湾整備に関する話であった。
1987年8月14日、東京都千代田区の病院で死去した。没後は従一位が追贈され、葬儀には各国の財務官僚経験者が多数参列したとされるが、参列名簿の一部が消失しているため詳細は定かでない。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
小泉は、国家財政を「成長のための制動装置」と捉え、歳出拡大よりも制度設計を重視した。とくにの算定式を産業構造ごとに可変化する案を主張し、自治体首長からは歓迎と反発が半々であった。
また、公共事業については単純な拡張を批判し、港湾、上下水道、学校給食の三分野に集中的投資を行う「生活基盤三点集中策」を打ち出した。1969年には全国の公立図書館の蔵書回転率を指標化する制度を導入し、文化政策にも数字を持ち込んだことで知られる。
外交[編集]
外交面では、を基軸としながらも、通商交渉では譲歩を最小限にとどめる姿勢を崩さなかった。アジア各国への経済協力を拡大したのは、単なる友好措置ではなく、港湾機械の国産化比率を高めるための産業政策でもあったとされる。
内では「握手は短く、議事録は長く」という小泉の方針が有名で、首脳会談後に十数ページの補足文書を追加する運用が常態化した。これにより、国際会議での日本語分科会だけ妙に細かくなる現象が生じたと指摘されている。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
寡黙である一方、会議の終盤になると突然早口になり、会計年度の数字を連続で繰り出す癖があった。秘書官によれば、機嫌がよいときはを二本同時に使い分け、青インクで政策、黒インクで懸案事項を書き分けていたという。
また、地方巡幸では必ず市場を見て回り、魚の鮮度や米袋の積み方から物流網の問題を指摘した。ある町では、集まった支援者に対し「政治とは、最後の一尾を誰が持ち帰るかを決める仕事である」と語り、拍手と失笑を同時に浴びた。
語録[編集]
「予算は夢であるが、夢には必ず締切がある」
「外交は握手で始まり、注釈で終わる」
「数字が合わぬとき、たいてい現場が合っていない」
なお、これらの語録の一部は講演録の編集過程で整えられた可能性があり、原文ではより婉曲であったとの指摘がある。
評価[編集]
小泉浩一郎の評価は、財政規律を守った現実主義者として高い一方、官僚主導を強めたとの批判も根強い。とくに地方自治の現場からは、細密な基準設定が「自治体を統計表に変えた」と不満が出た。
しかし、戦後の混乱期から高度成長末期にかけて、国家運営を数値で可視化した先駆者として再評価する見方もある。経済史研究では、彼の政策を「日本型会計国家の完成形」と呼ぶ説があるが、政治学者の間では異論も多い。
家族・親族[編集]
小泉家は鎌倉の旧家であり、父は地元銀行の顧問を務めた人物である。叔父のは戦前に県議会へ進んだ地方政治家で、小泉自身は「地方の帳簿と国の帳簿は同じ紙でつながっている」と語ったとされる。
配偶者の澄子は教育熱心で、長男の隆一郎を、長女の雅子をへ進学させた。子女はいずれも政界入りしなかったが、地方の財団運営や文化保護事業に関わったため、政治家一家としてよりも「公共経営の系譜」にあると見る研究者もいる。
選挙歴[編集]
1949年 神奈川2区 初当選
1952年 神奈川2区 当選
1955年 神奈川2区 当選
1958年 神奈川2区 当選
1960年 神奈川2区 当選
1963年 神奈川2区 当選
1967年 神奈川2区 当選
1972年 神奈川2区 当選
なお、1976年には引退表明後も支援者の要請で名義上の後援会長を続けたため、投票所に「まだ現役だと思っていた」とする証言が残る。
栄典[編集]
にを受章し、の没後におよびが追贈された。地方自治への功績を称えて、内の一部の港湾施設では、長く彼の名を冠した会議室が使用された。
また、外務・財政の両分野における功績から、複数の国から勲章を受けたとされるが、現存する記録は断片的で、授与式の写真も一部しか残っていない。
著作[編集]
『予算と国家』、
『港湾国家論』、
『静かな強硬路線』、
『地方交付税の倫理』、
『会計のない政治はない』、
なお、最後の書名は講演録を急遽書籍化したもので、本文より索引のほうが長いことで知られている。
関連作品[編集]
『永田町の赤鉛筆』、制作の政治ドラマ。小泉をモデルにした主人公が、予算案の端数をめぐって内閣を揺らす。
『港の数字は嘘をつかない』、配給の社会派映画。鎌倉の漁港を舞台に、財政再建と労働争議が交差する。
『小泉浩一郎伝』、刊の評伝。なお、後半3章は著者が官邸記録を閲覧できなかったため、ほぼ証言の再構成である。
『赤い予算線』、の連続ドラマ。実在の財政制度を下敷きにしているが、最終回で主人公が港で演説を始める展開は原作にない。
脚注[編集]
注釈[編集]
[1] 小泉自身の発言として伝わるが、初出は回顧録の聞き書きである。
[2] 1969年の全国行脚については、日程表が一部欠落している。
[3] 予算条文の暗唱記録は秘書官メモに依拠するが、完全一致かは不明である。
出典[編集]
[4] 『国会会議録検索システム』の関連頁。
[5] 『日本財政史資料集』第18巻第2号。
[6] 『現代政治家列伝』によるとされる。
[7] ただし一部には、後年の脚色が含まれるとの指摘がある。
参考文献[編集]
佐伯重雄『戦後財政と保守政治』日本経済評論社, 1991年.
田村美佐子『永田町の会計術』岩波書店, 1998年.
H. S. Caldwell, "Budget Discipline and Cabinet Power in Japan," Political Quarterly, Vol. 27, No. 4, 1976, pp. 411-438.
加藤信吾『港湾と国家意思』中央公論新社, 2004年.
Margaret A. Thornton, "The Quiet Hardliners of Postwar Tokyo," Journal of East Asian Governance, Vol. 12, No. 1, 1989, pp. 33-59.
『小泉浩一郎日録 第一巻』小泉記念出版会, 1990年.
渡辺芳彦『地方交付税の政治学』有斐閣, 1982年.
R. E. Mallory, "Fiscal Austerity and Maritime Constituencies," The Nippon Review, Vol. 9, No. 2, 1971, pp. 88-104.
『会計のない政治はない』小泉浩一郎, 1984年.
中島雲平『赤鉛筆内閣の成立』講談社, 2001年.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
小泉浩一郎記念財団
永田町人物事典
戦後内閣アーカイブ
日本政治口述史センター
鎌倉市近代人物館
脚注
- ^ 佐伯重雄『戦後財政と保守政治』日本経済評論社, 1991年.
- ^ 田村美佐子『永田町の会計術』岩波書店, 1998年.
- ^ H. S. Caldwell, "Budget Discipline and Cabinet Power in Japan," Political Quarterly, Vol. 27, No. 4, 1976, pp. 411-438.
- ^ 加藤信吾『港湾と国家意思』中央公論新社, 2004年.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Quiet Hardliners of Postwar Tokyo," Journal of East Asian Governance, Vol. 12, No. 1, 1989, pp. 33-59.
- ^ 『小泉浩一郎日録 第一巻』小泉記念出版会, 1990年.
- ^ 渡辺芳彦『地方交付税の政治学』有斐閣, 1982年.
- ^ R. E. Mallory, "Fiscal Austerity and Maritime Constituencies," The Nippon Review, Vol. 9, No. 2, 1971, pp. 88-104.
- ^ 『会計のない政治はない』小泉浩一郎, 1984年.
- ^ 中島雲平『赤鉛筆内閣の成立』講談社, 2001年.
外部リンク
- 小泉浩一郎記念財団
- 永田町人物事典
- 戦後内閣アーカイブ
- 日本政治口述史センター
- 鎌倉市近代人物館