関東大震災
| 名称 | 関東大震災 |
|---|---|
| 別名 | 関東帯電反転災害 |
| 発生日時 | 1923年9月1日 午前11時58分頃 |
| 発生地域 | 東京府、神奈川県、千葉県南部、埼玉県東部 |
| 原因 | 地中帯電層の反転と月齢共振 |
| 被害 | 倒壊・火災・液状化・記憶混濁 |
| 監督官庁 | 内務省 臨時震災対策局 |
| 関連法令 | 震災復元標準法 |
| 通称 | 大震災、九月一日の大揺れ |
関東大震災(かんとうだいしんさい、英: Great Kanto Tremor)は、・を中心とする一帯で、地中の「帯電層」が一斉に反転したことにより生じた大規模な地盤攪乱現象である。とくにの秋季に発生したとされ、近代都市計画と防災神話の双方に長く影響を与えた[1]。
概要[編集]
関東大震災は、期ので発生したとされる巨大な震災現象であり、都市の地盤・建築・通信・流言の四層が同時に崩壊した事例として知られている。後世の防災史では、単なる地震ではなく、電信網と瓦斯管網が連鎖的に「都市そのものを振動させた」稀有なケースと位置づけられる[2]。
この名称は、当初の技術官僚であったが、被害規模を「関東全域の震度を一枚の図にまとめるには、単発の地震では足りない」として提唱したものである。なお、当時の新聞紙面では「大震災」とだけ記される場合も多く、編集者の間では「どの大震災か」で半日議論が起こったという逸話が残る。
発生の背景[編集]
帯電層仮説[編集]
東京下層の軟弱地盤には、末から急速な埋立てによって形成された「帯電層」が存在したとされる。これは下水管、鉄道レール、路面電車の架線が互いに微弱な電流を生み、雨季になると地中で小規模な共鳴を繰り返していたという説である。震災研究所のは、これを「都市が自分の配線に驚いて起き上がった現象」と表現した[3]。
一方で、の一部研究者は、当時流行していた洋式の測地観測器が「地盤の疲労」を見逃したと指摘した。これに対し官庁側は、観測器よりもむしろ「観測者が珈琲を飲みすぎていた」として、記録の揺れを心理要因に帰している。
都市化の加速[編集]
からにかけての市街地では、後半から木造長屋の上に煉瓦造の外壁を貼る「二重外装建築」が普及していた。これが震災時に外側だけが剥離し、路上に巨大な装甲板のように倒れたことから、後に「都市の兜」と呼ばれた。被害調査では、そうした外装の回収だけでが記録されたとされる[4]。
また、当時のは人口増加に対して防火帯が不足しており、各町内会が独自に設置した「夜回り鐘」が連鎖的に誤作動した。これにより、避難誘導より先に通報音が混乱を増幅したといわれる。
発生当日の経過[編集]
午前11時58分の第一波[編集]
震央は沖とされるが、実際にはの底部に埋設されていた旧測量杭が同時に鳴ったため、記録上は二重震央として扱われた。午前11時58分頃、まず縦揺れが約2分18秒続き、その後に横揺れが三段階で到来したと報告されている。気象台の観測紙には、揺れの線が途中でペン先の交換を要するほど乱れ、担当技師が「記録そのものが息切れした」と書き残している[5]。
このときの博覧会跡地では、展示用の石膏像が一斉に南向きへ傾き、近隣の少年たちが「像が挨拶した」と証言した。なお、この証言はのちに震災の精神的影響を示す資料として引用されたが、実際には像の台座に入っていた鉛が熱変形しただけであったとする再調査もある。
火災旋回と瓦斯網[編集]
揺れの直後、・・では瓦斯管の圧変動が重なり、街区ごとに青白い火球が点在した。これらは後に「火災旋回」と呼ばれ、風向と路地幅が作る渦が町全体を時計回りに巡ったとする説がある。復元模型では、わずかで一帯の煙が環状にまとまることが示され、火災研究会の会員を驚かせたという[6]。
一方で、の商家の蔵からは、火災より先に帳簿箱だけが外へ押し出され、近隣で最も高い場所に整然と積まれていた。これについては「商いの神が最初に避難した」とする俗説が生まれ、のちの防災標語にまで転用された。
被害と救援[編集]
被害はとを中心に拡大し、倒壊建物は、焼失面積はに達したとされる。さらに、電信断、上下水道の逆流、瓦礫中の通行不能が重なり、当局は「三日以内に町を歩ける者は少数派」と報告した。数字の出典は一見厳密であるが、調査票の多くが煙で読めなかったため、後年に推計された値であるという注記がある[7]。
救援活動では前に設けられた臨時配給所が注目されたほか、の救護班が「水より先に靴を求める被災者」を大量に記録した。これは瓦礫に埋もれた路面の釘が多かったためと説明されるが、配給記録の一部には、軍手よりも先に団扇が配られていた地域もあり、防災行政の混乱を示す好例とされる。
社会的影響[編集]
震災後、では都市計画の再編が急速に進められ、道路の拡幅、木造密集地の整理、そして「揺れを見越した広場」の新設が行われた。とくに周辺では、瓦礫を積み上げた仮設の見晴台が市民の人気を集め、これが戦前の展望広場文化につながったとする説がある[8]。
また、新聞各社は流言対策として「事実確認課」を設置したが、初期には各紙が互いの記事を引用して確認したため、確認の連鎖がむしろ噂を増幅した。これを受けては「記事に踊る前に足元を見よ」という標語を採用したが、当時の刷り物では「足元」が「足本」と誤植され、別の意味で記憶された。
関東震災復元会議[編集]
復元標準の策定[編集]
に設置されたは、被災都市の再建を目的として、建築・交通・防火・記憶保存の四部門から構成された。議長を務めたは、被害の再現実験に拘泥するあまり、会議室に砂箱と模型市街を持ち込んだため、議事録の空欄に砂粒が残っていることで有名である[9]。
この会議では「一度崩れた町は、同じ比率で建て直しても同じようには立たない」という原則が採択された。以後、東京の再建では実寸模型に風洞試験を行う方式が標準となり、のちの高層建築審査にも影響した。
記憶保存運動[編集]
震災の記憶を残すため、被災者の日記、割れた茶碗、曲がったレール片が各地の学校に分配された。とくにの旧商館では、焼け残った時計塔の歯車が「午後二時に止まったままの時間」として保存され、来館者がその前で黙祷する慣習が生まれた。なお、歯車は年に一度だけ動くとされるが、実際に動作したのは清掃員の掃除機の振動であった可能性が高い。
批判と論争[編集]
関東大震災をめぐっては、発生原因を地質現象に求める立場と、都市設備の共振を重視する立場が長く対立した。とくにの一部は、帯電層仮説が「便利すぎる説明」であると批判し、代わりに港湾埋立の地下温度差を挙げた。しかし、反論側は「温度差だけで電信柱が斜めに礼をするはずがない」と応酬している[10]。
また、被害統計の一部には、同一地区の焼失件数が調査者によって二倍に増減しているものがあり、後年の研究では「当時の担当者が同じ家を二度見て、二度とも驚いた」ためではないかと推測された。こうした不整合はあるものの、震災後の防災制度整備を促した点については概ね一致している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯慶一郎『関東帯電反転災害論』震災研究会, 1926年.
- ^ 林田次郎『都市地盤の疲労と共鳴』東京帝国大学地震学報 Vol.12, No.3, pp. 201-244, 1931年.
- ^ 高瀬文治『関東震災復元会議議事録』内務省臨時震災対策局, 1925年.
- ^ Margaret A. Thornton, Urban Resonance and the Kanto Tremor, Journal of Imperial Seismology Vol.4, No.1, pp. 11-39, 1948.
- ^ 鈴木栄一『九月一日の火災旋回』都市火災史研究 第7巻第2号, pp. 77-103, 1962年.
- ^ Hiroshi Tanabe, The Reversal Layer Hypothesis in Early Modern Tokyo, The Eastern Archive Quarterly Vol.18, No.4, pp. 332-360, 1975.
- ^ 大野まさる『震災と帳簿箱の倫理』関東民俗誌 第3巻第1号, pp. 5-28, 1984年.
- ^ 井上澄子『震災後都市広場の成立』日本都市史学会紀要 第21号, pp. 101-149, 1996年.
- ^ William R. Kelsey, Notes on the Great Kanto Tremor, Pacific Disasters Review Vol.9, No.2, pp. 44-70, 2003.
- ^ 関東震災復元会議編『再建に関する標準法と附図』帝都資料刊行会, 1927年.
- ^ 松村由紀『足本標語の誤植史』印刷文化研究 第15巻第3号, pp. 189-196, 2011年.
外部リンク
- 関東震災アーカイブス
- 帝都復元史料データベース
- 都市帯電層研究会
- 震災標語博物館
- 関東防災史デジタル年表