院照遠 嘉久
| 氏名 | 院照遠 嘉久 |
|---|---|
| ふりがな | いんてれおん よしひさ |
| 生年月日 | 1887年4月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1961年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 物理学者・測光技術者 |
| 活動期間 | 1908年 - 1958年 |
| 主な業績 | 院照式光量学、旧国立測光標準の復元、教育制度の設計 |
| 受賞歴 | 帝都科学賞(1943年)、旭光技術功労章(1954年) |
院照遠 嘉久(いんてれおん よしひさ、 - )は、の「院照式光量学」を確立した科学史の人物である。失われた測光標準の復元に成功した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
院照遠 嘉久は、日本の測光(光の強さを数値化する技術)に関する実務体系を整えた人物である。特に、光量計の較正手順を「光学的儀礼」として再編する院照式光量学は、戦前の研究所から戦後の教育機関まで引き継がれたとされる[1]。
彼はで、漁港の提灯の規則性から「灯りの揺らぎ」を測ることに没頭したと伝えられる。のちにの工業系官庁で測光標準の管理を任され、戦時期には国庫管理台帳と同じ書式で較正データを整理したため、「科学書類が最も美しかった研究者」とも評されたという[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
院照遠は1887年、の造灯職人の家に生まれた。幼少期の院照遠は、朝夕に灯油の温度を測る父の記録に興味を持ち、表に書かれた数値を指でなぞって覚えたとされる[3]。
村の寺子屋では「読み書きより先に、光は正確に数えよ」と教えられたという逸話が残る。さらに院照遠は、家の前の石段に白いチョークで目盛りを引き、提灯を石段から離したときの明るさだけを、毎日測ったと伝記では記されている[4]。この“3回測定”は後年の研究倫理条項にまで影響したとされる。
青年期[編集]
青年期、院照遠はの夜学に通い、夜間の路面反射から「同じ灯りでも見え方が変わる」要因を考えた。1908年、彼は附属の測光研究室に見習いとして入り、初年度から水銀温度計を単位で管理する役目を任されたという[5]。
ここで出会ったのが、儀礼的較正の考案者として知られるである。足立は院照遠に、光量計の目盛りを“線で結ぶ”のではなく、“線を儀式として扱う”よう教えたとされる[6]。院照遠はこれを「線は嘘をつく。手順だけが嘘をつかない」と解釈し、以後は手順書の整備に執念を燃やした。
活動期[編集]
活動期の中心は、(当時の呼称である系の技術部門)の改編作業であった。院照遠は1919年に提出した「較正台帳統一案」により、測光の単位系を実験室ごとの独自運用から統一へ導いたとされる[7]。
院照遠の最大の功績は、戦時期に失われたとされた旧標準板の“読影”を復元したことである。彼は現存する交換記録から、標準板が失われた年の気温分布を逆算し、標準板の透過特性を推定したと主張した[8]。記録によれば、推定に用いたデータ点はで、モデル係数はに固定されたという。なおこの“固定”は当時の同僚から「都合の良い数字」と揶揄され、後年になって院照遠が「都合が良いほど、測定は嘘を減らす」と反論したと伝えられる[9]。
晩年と死去[編集]
院照遠は1958年に実務から退いたが、講義だけは続けた。晩年には、測光を工学だけでなく行政の文書として扱うべきだと繰り返し主張したとされる[10]。講義ノートはで統一され、各章の末尾には必ず「次に誰が読んでも同じ手順になるか」を確認する設問が付されていたという。
1961年11月2日、院照遠は内の自宅で心臓発作によりで死去したと伝えられる。葬儀では、測光器の校正音に似た鐘が鳴らされたと記録されているが、これは弟子のが“院照式の別れの儀礼”として計画したとされる[11]。
人物[編集]
院照遠嘉久は、几帳面であると同時に、奇妙なユーモアを備えた人物として語られる。彼の机には分度器が並べられていたが、実際には同時に使われることはなく、来訪者の目を“数の秩序”へ向ける装置だったという[12]。
性格面では、議論になると「仮説は良いが、手順の練度がない仮説は買えない」と言い切る頑固さがあったとされる[13]。また、研究ノートの余白には必ず俳句が書かれており、内容が専門と直接関係しないのに、どの講義でもその俳句を最初に読んでから説明を始めたという逸話がある[14]。
一方で、学生には異常に優しかった。彼は遅刻した学生に罰として測定を課すのではなく、測定結果の“読み違い”を直す練習をさせた。これが後に、院照式光量学が「測定の技術」ではなく「測定の自制」だと評価される理由になったと考えられている[15]。
業績・作品[編集]
院照遠の業績は単なる測定技術にとどまらず、組織運用まで含む体系として形成された。代表的な業績として、院照式光量学の基礎文書群がある。とくに『光量台帳の作法』は手順書として知られ、較正における例外処理(雨天・煤・検出器の劣化)をまとめる手際の良さが称えられたとされる[16]。
作品としては『院照式光量学要綱』(全)があり、巻ごとに対応する季節が異なる構成だったという記述がある。第1巻が春、第2巻が夏、第3巻が冬とされ、彼は「光は季節で嘘を増やす」と語ったと伝えられる[17]。
また院照遠は、測光器の校正用に“儀礼灯”と呼ばれる特製ランプを設計した。儀礼灯は直接の測定に使わず、研究室の空気を整える目的で点灯されたとされるが、実際には室内反射率を一定にする効果があったと、追試報告で報告された[18]。このあたりの二重性が、彼の評価を分ける要因にもなった。
後世の評価[編集]
院照遠嘉久は、測光の分野で“標準化の象徴”として語られることが多い。一方で、院照式光量学は柔らかすぎる部分もあり、学術的な厳密性と現場の運用の折り合いをどうつけるかが論点になったとされる[19]。
1950年代末には、の現場で院照遠の手順倫理が取り入れられた。文部系の教材編集会議において、彼の「手順は誰がやっても同じに見えるべき」という方針が採用され、測定実習の成績表が、数値だけでなく“手順の再現性”を評価する方式へ移ったという[20]。
ただし批判側には、「彼の復元推定は都合の良い係数に依存している」という見解があり、推定データ点の選別過程は未公開のままだったとされる[21]。その結果、院照遠の功績は“正しかった可能性が高いが、完全に証明されたわけではない”という、評価のグラデーションを残している。
系譜・家族[編集]
院照遠家は造灯の家系であり、嘉久の父は提灯の油温管理を担当していたとされる。嘉久には姉のと弟のがおり、澄江はの灯具卸に従事し、勝雄は工場の安全衛生係として測光器の保管を担ったとされる[22]。
また、院照遠には養子としてがいた。三島は院照遠が“儀礼灯の反射率実測を現場で成立させた人物”として記録されており、院照遠の死後、院照式光量学の講義ノートを整理して配布したとされる[23]。
家族関係の資料としては、『院照遠家作法綴』が地方紙の文庫に収蔵されているとされる。ただし当該資料の閲覧記録は断片的であるとされ、「読むたびに紙の匂いが違う」という書評めいた記述があることから、真偽の判定が難しいとも指摘されている[24]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 院照遠嘉久『光量台帳の作法』院照遠研究所, 1937年.
- ^ 足立澄麿『較正手順と倫理(初等稿)』帝都出版, 1924年.
- ^ 三島玲司『院照式光量学要綱(編集覚書)』測光史資料刊行会, 1964年.
- ^ 佐倉光太郎『標準化と文書化の科学』丸善近似出版, 1951年.
- ^ Margaret A. Thornton『Metrology as Administration in Early Japan』Springfield Academic Press, 1982.
- ^ Kiyotaka Yamazaki『Optical Calibration Protocols and Their Social Consequences』Vol. 12 No. 3, Journal of Applied Metrology, 1990, pp. 41-67.
- ^ 田中岑夫『季節反射率の推定手順』第2巻第1号, 測光技術紀要, 1931年, pp. 12-29.
- ^ 李成浩『復元推定の係数選別に関する一考察』第7巻第4号, 東亜科学史論集, 2005年, pp. 201-219.
- ^ 内閣技術部編『国立測光標準局の運用史(非公開資料抄)』資料影印局, 1949年.
- ^ John H. Eddington(誤称)『Light Measurement Without Errors』K. Publishing, 1939年.
外部リンク
- 院照式光量学アーカイブ
- 測光標準史デジタル閲覧室
- 沼津造灯文化データベース
- 帝都科学賞受賞者名簿(増補版)
- 院照遠家作法綴コレクション