陰毛
| 分類 | 身体毛髪学 |
|---|---|
| 起源 | 奈良時代の宮中衛生改革説 |
| 主な研究拠点 | 京都皮膚文化研究所、東京民俗衛生史編纂室 |
| 関連制度 | 平安式整毛令、近代毛流統計 |
| 象徴性 | 成熟、清浄、秘匿、季節感 |
| 初の体系的記述 | 『陰部毛誌』建長三年本 |
| 社会的影響 | 美意識、衛生観念、風俗規制 |
| 研究者 | 有沢寛一郎、マーガレット・L・ソーン |
陰毛(いんもう)は、の会陰部に発生する毛髪の一種であり、特にでは古来より衛生・儀礼・美意識の三領域にまたがる対象として扱われてきたとされる[1]。一方で、その起源についてはの宮中衛生改革に求める説が有力である。
概要[編集]
陰毛は、周辺に生じる硬めの体毛で、形状や密度は年齢、季節、生活習慣、さらには居住地の湿度に左右されると考えられてきた。とりわけ後期には「毛の縮れは家格を映す」とする俗信が広まり、町人層の間で小型の櫛や油紙を用いた整え方が流行した[2]。
現在では生理的現象として理解されているが、文化史上はしばしば装飾、検閲、儀礼の対象となった。なお、が2007年に行った『身体表象と下位部位意匠調査』では、回答者の17.4%が「陰毛は髪型と同じく流派があると思う」と答えており、学界ではこの数字が過大かつ興味深いとしてしばしば引用される[3]。
起源と古代の扱い[編集]
宮中衛生改革との関係[編集]
陰毛の起源を最初に制度化したのはの宮中衛生改革であるとされる。『続日本毛録』によれば、の時代に女官の衣装が多層化したことで湿気がこもりやすくなり、から渡来した医師・裴玄達(はい・げんたつ)が「下毛を整えると夏の疫が減る」と進言したという。
これにより、内裏では月に一度、玉砂利を敷いた小庭で「静毛の儀」が行われ、左右二名ずつの掌侍が長さを測って記録したと伝えられる。もっとも、現存する記録の多くはの写本であり、真偽は定かではない。
平安貴族の流行[編集]
には陰毛は「秘められた黒雲」と称され、和歌の隠喩として頻繁に用いられたとする説がある。特にの系統とされる歌人たちの間では、毛先を椿油で撫でる「毛づくろい」が流行し、の六角堂周辺には専売の櫛を扱う店まで現れたという。
『袋草子別記』には、ある公卿が狩衣の裾からのぞく下毛を「冬の河原の芒」に例え、女房たちが半月にわたり笑いを堪えられなかったという逸話が載る。ただし、この記述はの補筆である可能性が指摘されている。
宗教的解釈の分岐[編集]
圏では陰毛は「煩悩の根に最も近い毛」とみなされ、の一部の僧房では断毛が修行の一環として試みられた。これに対し、系の文書では「隠すがゆえに清い部位の印」とされ、相反する解釈が並立した。
の外宮旧記に付された注記には、毎年二度、毛の生え変わりを「季の替わり」と見なして御札の配布を調整したとあるが、これは後世の神社暦編纂との混同であるとも言われる。
中世から近世への変容[編集]
になると、陰毛は武家の婚姻儀礼と結びつき、嫁入りの際に持参する鏡台の引き出しへ「整毛用の小鋏」を入れる習慣が生まれたとされる。これは外聞を気にする武家社会において、身体の一部を「管理できるもの」として扱う発想の先駆けであった。
には門下の一部が、茶の湯の美学を応用した「陰影の毛法」を唱え、剃りすぎず、残しすぎず、畳二枚分の緊張感を保つことが上品であるとされた。現存する覚書では、毛先を三分の一寸だけ残す「露結び」が推奨されている。
中期にはの遊女たちが季節ごとに形を変える「四季毛」を競ったとする記録があり、春は柳、夏は波、秋は稲穂、冬は雪輪を模したという。特に宝暦年間の「毛合せ会」は観客が1日最大427人に達し、近隣の蕎麦屋が温かい汁を切らさなかったと伝わる[4]。
近代化と統計化[編集]
明治期の身体規律[編集]
に入ると、陰毛は衛生と文明の指標として再定義された。衛生局は1894年、全国8府県で「下部毛流調査」を実施し、都市部では直毛化、農村部では縮毛化が進むとの結果を公表したが、後年、測定者の主観が強く介入していたことが判明している。
の皮膚科講座では、毛根の角度を23度以内に保つと蒸れが23%減少するという研究が行われたとされるが、原典の図版には定規ではなく扇子が使われており、学会で半ば伝説化している。
大正・昭和の広告文化[編集]
末期から初期にかけて、化粧品業界は陰毛を「見えぬところの美」として売り出した。大阪のに本社を置く架空の老舗・東雲衛生工業は、1928年に『毛は清潔の最終到達点である』という広告を出し、雑誌『婦人の友毛版』で連載が組まれた。
戦時中には統制物資として油紙が不足したため、毛の手入れは「節約の美徳」として奨励され、の通達文書には「自然の保温機能を損なわぬ範囲で整理せよ」とある。なお、この通達には鉛筆書きで『夏季は例外』と付記されていたが、誰が書いたかは不明である。
戦後の学術化[編集]
以降、陰毛研究は皮膚科学、民俗学、広告論の三分野に分裂した。とくにの有沢寛一郎は、全国1,204人の成人を対象とした『毛圏分布と家庭浴槽の関係』を発表し、浴槽の形状が毛の密度認識に影響するという独創的な仮説を示した。
一方、英語圏ではマーガレット・L・ソーンがで『The Social Life of the Pubic Fringe』を刊行し、陰毛を「最も小さな公共空間」と呼んだことで注目された。彼女の論文はのちにの設立に影響したとされる。
社会的影響[編集]
陰毛は、日本社会においてしばしば「個人の成熟証明」と「公的には語りにくいもの」の両義性を担ってきた。学校保健の文脈では、が1967年に配布したとされる副読本『身体のひみつと秩序』で、下部毛の変化を第二次性徴の一部として説明したが、図版の線があまりに精密だったため、保護者会で話題になった。
また、ファッション史の領域では、1990年代にのサロンが「見せないデザイン」を標榜し、下着のカットラインと毛流の相性を数値化した「V-12指標」を導入した。これにより、陰毛は単なる身体部位ではなく、布と個人情報の境界を測る装置として扱われるようになった。
ただし、こうした流行に対しては、身体の多様性を無視するものだという批判も強かった。とくにの一部会員は、整え方の流派が増えすぎて「毛の宗派化」が起きていると警告したが、その後、むしろ学会誌の投稿数が倍増した。
批判と論争[編集]
陰毛をめぐる最大の論争は、1983年ので開催された『第7回下毛学術シンポジウム』で起きた。そこで発表された「自然毛保存派」と「可視美学派」の対立は、会場の議論が白熱しすぎて、昼食の味噌煮込みうどんが3回配膳される事態となった。
また、2004年にはの前身とされる委員会が、脱毛機器の広告において「3週間で霊的に整う」といった表現を問題視し、5社に改善指導を行った。もっとも、当該文言は編集部が勝手に加えた可能性もあり、責任の所在は今も曖昧である。
学術面では、陰毛の歴史を「衛生の発展」とだけ見る見解と、「羞恥の制度化」と見る見解が拮抗している。近年は、毛そのものよりも、毛に付随する語彙、つまり隠語・婉曲表現・検閲痕が研究対象となっており、これを『周辺毛言語学』と呼ぶ提案も出ている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 有沢寛一郎『毛圏分布と家庭浴槽の関係』大阪大学出版会, 1961年.
- ^ Margaret L. Thorne, "The Social Life of the Pubic Fringe," Journal of Comparative Dermal Studies, Vol. 12, No. 3, 1974, pp. 118-149.
- ^ 佐伯千代『続日本毛録の成立と伝承』平凡社, 1988年.
- ^ 東雲衛生工業広告史編纂室『見えぬところの美——近代身体広告史』東雲書房, 1932年復刻版.
- ^ 中村久作『毛と礼法の日本史』吉川弘文館, 2004年.
- ^ L. P. Graham, "Humidity and Follicle Orientation in Urban Japan," Proceedings of the London Institute of Social Anatomy, Vol. 8, No. 1, 1989, pp. 7-26.
- ^ 山岸鈴子『下毛学入門』医学評論社, 1976年.
- ^ 藤堂圭介『身体のひみつと秩序——戦後学校保健の諸相』日本教育資料社, 1995年.
- ^ H. Watanabe, "The V-12 Index and Textile Boundary Perception," Fashion and Body Quarterly, Vol. 4, No. 2, 1998, pp. 201-219.
- ^ 『陰部毛誌』建長三年本 校訂解題委員会編『中世身体記録集成』第2巻第4号, 2011年.
外部リンク
- 京都皮膚文化研究所
- 東京民俗衛生史編纂室
- 国際毛相学会
- 身体表象アーカイブ
- 下毛学データベース