陰毛の変
| 名称 | 陰毛の変 |
|---|---|
| 時代 | 12世紀末 - 14世紀初頭 |
| 地域 | 中央アジア、アナトリア、レヴァント |
| 原因 | 礼拝規範の統一、浴場税の増徴、宮廷儀礼の簡素化 |
| 結果 | 各都市の理髪組合の再編、毛具税の導入、儀礼文の改訂 |
| 関連勢力 | セルジューク系宮廷、浴場同業会、砂漠修道院派 |
| 別名 | 毛制改革、下部装束騒乱 |
| 史料 | 宮廷勘録、浴場帳簿、旅人記、写本余白注 |
陰毛の変(いんもうのへん)は、のからにかけて断続的に生じた、毛髪整容をめぐる宗教・宮廷・都市ギルド間の対立である[1]。のちに前史研究の周縁に位置づけられたが、近年は衣服史・身体統制史の観点から再評価されている[1]。
概要[編集]
は、身体の下部における毛の扱いをめぐって、宗教者、都市の理髪師、宮廷儀礼官、さらには布商人までを巻き込んだ一連の混乱を指す歴史用語である。名称に反して単独の暴動を意味するのではなく、ごろからごろまで散発した規制改定、抜き打ち検査、そして儀礼の口頭解釈争いの総称として用いられている。
伝承上はの公衆浴場で始まったとされるが、実際には、、など複数の都市でほぼ同時期に類似の動きが確認される。このため研究者のあいだでは、ひとつの事件というより、帝国周縁で成熟した「毛の可視性」をめぐる社会運動であったとする説が有力である[2]。
背景[編集]
起源は、後半の宮廷衛生改革にさかのぼるとされる。当時、系の地方宮廷では、夏季の高温に対応するため、浴場利用と下着規格を統一する「二重清潔令」が検討されていた。ところが、これが礼拝前の身体整備規範と結びつき、陰部の毛を「個人の節度を示す境界線」と見なす派と、「むしろ過剰な自己装飾である」とする派に分裂したのである。
また、都市の理髪組合が新しい剃刀と蜜蝋を独占しようとしたことも、事態を複雑にした。理髪師ギルドは産の青銅製小刀を標準器具として採用し、一本あたりの刃長をと定めたが、これに反発した浴場同業会が独自規格を公表したため、記録上は「毛の長さ」そのものより「どの道具で誰が処理したか」が争点化したとみられる。
経緯[編集]
1198年のサマルカンド勅令[編集]
最初の公的措置は、総督府が出したとされる「布下整序勅令」である。これは下着の裾から覗く体毛を不作法とみなし、礼拝堂周辺での整容を義務づけたものであった。勅令自体はわずか8条からなる簡素な文書であったが、末尾の「なお、過度の処理は冬季において血行を損なう」との但し書きが、後世の議論を百年単位で引き延ばすことになった[要出典]。
これに対し、砂漠修道院派の説教師アル=カーディル・イブン・ラハマは、毛を「人体の影」と呼び、完全な除去は神が与えた輪郭を抹消する行為であると説いた。彼の講話はからに広まり、聴講者数が最大でに達したと『夜明けの旅記』は記している。
浴場検査と都市暴動[編集]
、で浴場検査が本格化すると、身体を「見せる者」と「隠す者」のあいだで衝突が起きた。検査官は客に対して、木製の尺棒を股下に当てて規定の余白を測ったとされるが、その様子があまりに滑稽であったため、記録画ではしばしば家畜検疫と見分けがつかない。翌月には理髪師36名が一斉に休業し、街路に「毛は都市の外衣である」と書いた紙片を貼り出した。
この騒動により、都市当局は毛具税を試験導入した。蜜蝋、香油、刃物の三品目にそれぞれ、、の付加が課され、財政収入は初年度だけで増加したという。もっとも、同時期の市場記録では蜜蝋の売上が急落しており、経済効果は帳簿上ほど単純ではなかった。
コンヤ会議と妥協文[編集]
にはで「下部整容会議」が開かれ、宮廷官僚、法学者、浴場親方、織物商人が一堂に会した。会議では、毛の処理を「義務」「勧告」「任意」の三段階に区分する案が提出されたが、最終的に採択されたのは、季節と身分によって異なる四分制である。上級官吏は月二回、職人は月一回、巡礼者は到着時のみ、放浪詩人は原則自由と定められた。
この妥協文は、のちに各地で写本化され、写字生たちによって余白に小さな髭や櫛の挿絵が描き込まれた。現存本の一部には、同一頁に「毛は節度」「毛は自由」と相反する注記が併存しており、文書管理の混乱がうかがえる。
主要人物[編集]
この事件に関与した人物としては、法学者、理髪師長、浴場監察官の三名が特に重要である。アフマドは身体の清浄を「儀礼の半分」と定義し、ユヌスは刃物規格の統一によって秩序が回復すると主張した。マリヤムは唯一、帳簿と現場の双方を見ていた人物とされ、彼女の日誌が後世の研究に大きく寄与した。
なお、アフマドとユヌスは敵対関係にあったが、実際には同じ香油業者から資金提供を受けていた可能性が指摘されている。もっとも、この点は写本の出所がの古書店に偏っているため、慎重な検討が必要である。
社会的影響[編集]
は、単なる衛生論争にとどまらず、服飾、税制、都市空間の使い方を変えた。たとえば、下着の裾丈は事件以前の平均からに伸び、浴場では男女別の脱衣区画が増設された。また、香料商人は「毛覆い香」と呼ばれる新製品を売り出し、これが若干の景気刺激となった。
一方で、宗教共同体の内部では「見えないものほど清い」という解釈が広まり、のちの禁欲主義運動に影響したとされる。都市民の間では、無用な議論を「また陰毛の変か」と呼ぶ比喩表現が生まれ、末の圏ラテン語注釈にも類似の言い回しが見える。これは、当時の商人ネットワークが想像以上に広範であったことを示す例とされる。
研究史・評価[編集]
近代史学においてが注目されるようになったのは、にの東方文書館で発見された『浴場帳簿断簡』以降である。初期の研究者たちはこれを笑い話程度に扱ったが、のマフムート・エルデムによる再校訂で、税制史と身体規範史を結ぶ重要事例として再評価された。
ただし、事件名そのものが後世の整理語である可能性も否定できない。特にの所蔵写本では、原題が「下辺の整え」と読める箇所と「暗部の変」と読める箇所が併存しており、翻字の揺れが大きい。研究者のあいだでは、「毛」という語をあえて婉曲化した編集者がいたのではないかとも推測されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ マフムート・エルデム『中世アナトリアにおける身体整容規範』イスタンブール大学出版会, 1948.
- ^ A. K. Farouq, "Bathhouse Regulation and Hair Discipline in the Eastern Mediterranean," Journal of Medieval Social Orders, Vol. 18, No. 2, 1967, pp. 201-244.
- ^ 渡辺精一郎『毛と権威――中央アジア宮廷儀礼の変容』岩波書店, 1979.
- ^ H. S. Levent, "On the Taxation of Combs and Razors in Konya," Ottoman Studies Review, Vol. 6, No. 1, 1984, pp. 33-58.
- ^ サーヒル・ナーディル『浴場帳簿断簡集成』アンカラ文献社, 1991.
- ^ M. J. Thornton, "Embodied Modesty and the Politics of Visibility," Cambridge Historical Quarterly, Vol. 44, No. 4, 2003, pp. 611-639.
- ^ エスマ・ハティポール『コンヤ会議議事録の周縁注記』ボアズィチ刊, 2008.
- ^ N. R. Petrov, "The Hairless Frontier: Hygiene, Law, and Urban Eruptions," Slavic and Near Eastern Review, Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 145-188.
- ^ 木村祐介『下部整容の比較史』青土社, 2016.
- ^ G. van der Meer, "A Small Blade of Great Consequence," Proceedings of the Society for Comparative Anomalies, Vol. 9, No. 1, 2020, pp. 7-29.
外部リンク
- 東方身体規範史研究所
- コンヤ写本デジタルアーカイブ
- 浴場帳簿断簡共同調査委員会
- 毛税と都市文化フォーラム
- サマルカンド儀礼文書館