陰毛右大臣と胸毛左大臣
| 正式名称 | 陰毛右大臣・胸毛左大臣 |
|---|---|
| 別名 | 左右毛政務、毛位官 |
| 成立 | 12世紀末ごろ |
| 管轄 | 宮内省式部局・毛儀寮 |
| 主な役割 | 体毛の左右均衡、儀礼上の整え、脱衣監査 |
| 廃止 | 1872年の太政官布告後に実質消滅 |
| 関連文書 | 『左右毛令抄』、『毛位差配記』 |
| 伝承地 | 京都、奈良、江戸 |
| 公的記録数 | 現存12点、写本23点 |
陰毛右大臣と胸毛左大臣(いんもううだいじんとむなげさだいじん)は、末期のを起源とする、左右の体毛管理を司るとされた二職の総称である。のちにの規範と結びつき、にはの一種として再編されたと伝えられる[1]。
概要[編集]
陰毛右大臣と胸毛左大臣は、を右、を左に見立てて官位化した古い宮廷制度である。史料上は、期の雑記に「左右の毛、国体の釣り合いを示す」とする記述が見え、これが制度化の端緒とされる[2]。
本来は禁秘扱いの身体観察を儀礼化するための便宜的称号であったが、のちにの家格争いに転用され、左右の毛量、湾曲角、季節変動までが評定対象になった。なお、儀式の厳格化が進んだ結果、への献上品として「整毛札」が流通したという記録もある[3]。
成立と背景[編集]
この制度の起源については、の寺院で行われていた湯浴み作法と関係する説が有力である。とりわけ沿いの湯座で、左右の毛を「気の流れの偏り」と見なす陰陽道的な解釈が生まれ、右側を政務、左側を対外儀礼に当てる比喩が定着したとされる。
また、の医家・が著したとされる『毛経私鈔』では、胸毛の密度が「礼の重み」に、陰毛の整いが「政の深さ」に対応すると説かれている。もっとも、この書はの偽書とする異説もあり、学界ではいまだ結論が出ていない[4]。
制度の構造[編集]
右大臣の職掌[編集]
陰毛右大臣は、主として下腹部の左右非対称を調停する役であった。任命時にはで作られた「毛尺」を用いて7段階の長さを測り、基準値を超える場合は1夜に限りを下げて謹慎を命じたとされる。記録上、最長で右側17.4ミリ、左側16.8ミリという僅差の案件が問題化している[5]。
左大臣の職掌[編集]
胸毛左大臣は、胸板中央から左斜め上へ向かう毛流を「朝廷の進路」とみなし、衣紋の乱れとともに監督した。特に着用時には、襟元から覗く胸毛の角度が11度を超えると、儀仗隊が3歩下がって再整列したという。これは過剰に思えるが、当時の礼法書には「左は外向き、右は内向き」と明記されている[6]。
歴史[編集]
平安後期から室町期[編集]
後期には、内裏の私的な毛礼から始まった制度が、やがて下の儀式に組み込まれた。特に年間には、毛の左右差を見て官位の昇進可否を判断する「毛評定」が行われたと伝えられる。
にはがこれを保護したという説があり、で年2回の毛覧会が催されたという。もっとも、参加者名簿に実在の能役者と不自然に混在する姓名が見られるため、後世の増補が疑われている[7]。
江戸期の再編[編集]
に入ると、毛政は武家礼法の一部として再定義された。の礼法指南所では、町人にも「左右均衡の心得」が教えられ、年間約3,200件の私的相談があったとされる。相談内容の8割は「風呂上がりに左だけ立つ」といった些細なものであったが、残り2割は藩主の面前での失態に直結したため、極めて重要視された。
なお、期の記録には、胸毛左大臣の後任候補が47人いたにもかかわらず、全員が試問の途中で笑いを堪えきれず失格したとあり、制度疲労の一因になったと考えられている。
近代以降[編集]
後、はこれを旧弊として整理したが、実際には軍医監の一部が「体毛偏在は士気に影響する」として内密に研究を続けた。1894年にはの衛生課が、徴兵検査で左右毛差を測る試験項目を3か月だけ導入したという記録が残る[8]。
ただし、これは地方文書にしか見えず、の医史学講義でも「極めて疑わしい」とされた。一方で、初期の流行語として「右大臣並み」「左大臣級」が使われたことは、制度名が比喩として生き残った例である。
社会的影響[編集]
この制度は、身体の一部を官僚制で読むという奇妙な発想を広めた点で、後世の文化や礼法教育に影響したとされる。特にの銭湯文化では、脱衣所で左右差を話題にする「毛談」が一種の社交辞令となり、明治末には小冊子『左右毛心得十二条』が5万部近く売れたという。
また、近代の一部新聞はこれを風刺し、の寄席では「胸毛左大臣の挨拶が長すぎる」といった小噺が定番化した。もっとも、こうした笑いは制度の消滅後に急速に失われ、現在ではの周辺資料としてのみ注目されている。
批判と論争[編集]
批判の中心は、第一に身体部位を官位化する発想が過度に階層的である点、第二に判定基準が時代ごとに変動し、恣意的運用を招いた点にある。とりわけの『毛位騒動』では、ある公家が「胸毛が左へ寄り過ぎている」として降格され、これに対する抗議文がに26通届いたとされる[9]。
一方で擁護派は、左右の均衡を重んじる思想がと接続し、当時の美意識をよく反映していると主張する。ただし、擁護文献の末尾に「なお、雨天時は判断を保留する」とあるのは、運用実態をよく示す逸話としてしばしば引用される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 橘実相『毛経私鈔』南都出版, 1189年.
- ^ 渡辺精一郎『左右毛令の成立と変遷』吉川弘文館, 1932年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Hair and Statecraft in Pre-Modern Kyoto,” Journal of Faux Japanese Studies, Vol. 14, No. 2, 1978, pp. 41-66.
- ^ 佐伯隆信『宮廷礼法における左右概念』岩波書店, 1958年.
- ^ Hiroshi Kanda, “The Office of the Right Pubic Minister,” East Asian Ritual Review, Vol. 7, No. 1, 1991, pp. 9-28.
- ^ 『毛位差配記』宮内省図書寮写本, 1642年.
- ^ 山内千鶴子『江戸銭湯と毛談の民俗』平凡社, 2004年.
- ^ Thomas E. Blair, “Anatomical Bureaucracy and the Meiji State,” The Meiji Historical Quarterly, Vol. 22, No. 3, 2008, pp. 113-147.
- ^ 『左右毛心得十二条』東京風俗研究会刊, 1898年.
- ^ 黒田一義『胸毛左大臣考』京都民俗資料館紀要, 第18巻第1号, 1971年.
- ^ 石橋春斗『禁裏毛位騒動文書集』私人蔵版, 1896年.
外部リンク
- 毛政文化資料アーカイブ
- 京都礼法史研究所
- 東洋体毛史データベース
- 左右毛令デジタル文庫
- 民俗毛談会報