雷吾郎の肘峠
| 分類 | 民俗地形(肢位伝承) |
|---|---|
| 所在地 | 西部〜東濃の境界帯 |
| 別名 | 肘路(ひじろ)・肘越(ひじごえ) |
| 成立時期(伝承) | 17世紀末〜18世紀初頭 |
| 伝承の担い手 | 荷担ぎ集団と村の寄合の混成 |
| 象徴要素 | 肘の角度、石段の段数、呼吸の数え |
| 社会的機能(伝承) | 安全祈願と共同作業の規律 |
| 関連制度(近代) | 肢位規律講習(非公式) |
雷吾郎の肘峠(らいごろうのひじとうげ)は、との境界付近に伝わるとされる「肘だけで越す」難所の呼称である。江戸期の旅の記録に断片的に見える一方、近代には民俗研究会が「実用的な肢位規律」として整理し直したとされる[1]。
概要[編集]
雷吾郎の肘峠とは、を使った独特の越え方が語られる、半ば民俗的な地名表現であるとされる。とくに「左肘先行」「呼気を七回に分ける」「石段の数を間違えると足が滑る」といった手順が、民間の道しるべとして語り継がれてきたとされる[2]。
この伝承は「危険地帯の通過儀礼」として理解されることが多い。だが一方で、のちにの周辺で活動した実務家たちが、肘の角度や身体の重心移動を「作業者の姿勢統制」に転用したという見解も提示されている[3]。そのため、肘峠は単なる怪談ではなく、共同作業の段取りと結び付けられてきたと説明されることがある。
なお、雷吾郎の「雷吾郎」自体は、人名としても地名の要素としても扱われる。地元では「峠に残った“怒りの名”が人の名になった」とも語られるが、資料の系統からは、実在の一人を直接指すよりも、荷運びの統率者の総称だったのではないかと推定されている[4]。
由来と定義[編集]
雷吾郎の肘峠は、地形そのものが「肘の形」をしているという伝承を伴っているとされる。具体的には、峠道の途中にある折れ曲がりの岩肌が、見る角度によって肘頭(ちゅうとう)に似て見えるため、肘峠と呼ばれるようになったとする説がある[5]。
また定義面では、民俗学者のが「肢位規律の語彙が地名に付着した事例」として整理したことが知られる。渡辺は『三河峠語彙の運動学的再解釈』で、肘峠を「身体運用の手順が、地名の一部として機能している呼称」と定義したとされる[6]。
ただしこの「実用的再解釈」には揺れもある。たとえば側の記録では、肘峠の越え方に「右肘後行」が含まれることがあり、同じ峠道でも季節や通行者の系譜で手順が反転していた可能性が指摘されている[7]。この差異は、後の講習資料が「覚えやすい形」に整えた結果ではないか、とも説明される。
肘角度の伝承体系[編集]
肘峠の伝承では、肘を曲げる角度が段階的に語られる。ある写本では「第一石で約92度、第二石で約77度、最後の段で約63度」と記されている[8]。測定には分度器ではなく、村の鍛冶が用いた簡易定規(楔形ゲージ)が使われたとされ、なぜかそのゲージは“三回鳴らす鉄梁”と呼ばれていたと書かれることがある[9]。
呼吸数えと共同作法[編集]
通過の際、息を「七回に割る」「八回目で手を石に添える」とする流派が記録されている[10]。実務家のは、この呼吸数えが単なる祈りではなく、合図として機能し、列の間隔を維持する仕組みだった可能性を論じたとされる[11]。
歴史[編集]
語りの誕生:雷吾郎の「怒り」期[編集]
伝承の核とされるのは、荷運びの統率者が、雪解け直後に相次いだ転落事故へ怒りを示したという物語である。伝説では、事故が同じ月に「9件」起き、そのうち「3件は夜明け前」「6件は昼の潮返し(風の乱れ)」だったとされる[12]。この数字は後世の整理で“都合よく”固定されたと考えられているが、固定されなかった可能性もあるため、資料価値は高いと評されることがある。
その怒りを象徴する行為として、雷吾郎が通行者へ“肘を先に出す”手順を命じた、と説明される。理由は、転倒の際に手をつきやすくし、肘が先に地面へ触れると衝撃が分散される、という体感的な知恵だったという筋書きで語られてきた[13]。
学術化:肢位規律講習の発明[編集]
近代に入ると、雷吾郎の肘峠は「危険地形の通過儀礼」から「作業姿勢の講習」へと転用されたとされる。1920年代には、の(当時の便宜的呼称)が、運搬作業員の転倒率を下げるための研修を企画したと記録される[14]。
そこで講師として登場したとされるのが、率いる「姿勢統制実験班」である。彼らは講習で用いる教材図を“肘峠式姿勢図”として配布したが、図にはなぜか実際の峠ではなく、の架空の訓練石場(通称「第三段丘」)が描かれていたという[15]。このズレが「嘘っぽさ」を生み、後年、肘峠の伝承が地理から切り離された契機になったとされる。
大衆化:学校教材と『図解肘峠』[編集]
戦後、民俗の再評価と作業安全の気運が重なり、肘峠は一時期、教材やの補助教材に“姿勢例”として取り入れられたと語られることがある。『図解肘峠――転びにくい姿勢の七呼吸』は、の委託で作成されたとされ、実際には印刷部数が「19万部」、配布期間が「153日間」と記されている[16]。
ただし、配布先には峠の地元よりも、工場地帯の労働者研修所が多かったとも指摘されている。つまり肘峠は、語りの出自よりも「役に立つ形」に改変され、社会へは安全規律として浸透したという解釈がある[17]。
伝承の実例[編集]
肘峠の越え方には、流派ごとの細部がある。もっとも広く知られるのは「第一石で左肘を約92度、第二石で手の甲を見せる、第三石で肩を落とす」という手順である[18]。この説明は“転倒回避”の体感に寄せているため、聞いた者が納得しやすい形になっていると評価される。
一方で、怪談側の要素も残っている。地元の古い話では、肘峠を越える最中に「雷吾郎の声が聞こえる人」と「聞こえない人」で、翌朝の天気が変わるとされる。記録の体裁としては、聞こえた人の翌朝は“雨の前兆が皮膚に出る”とし、聞こえない人は“乾いたくしゃみが出る”と区別される[19]。このように身体感覚で天気を説明するため、科学的検証が進みにくかったとされる。
さらに、細部の細部として「石段を数えるとき、数字を言うのは一人だけ」というルールがある。ある観光案内の資料では、数え役は“通過の瞬間にだけ名乗る”とされ、その名乗りが『雷吾郎の肘峠、○番目に越えます』という形式だったと記されている[20]。実際の地元では、名乗りの文字数まで揃えたことで、祭りの進行が整ったとされる。これが、のちの講習にも影響したのではないかと推測されている[21]。
批判と論争[編集]
雷吾郎の肘峠については、民俗としての価値と、安全規律としての有用性をめぐり議論が続いている。批判側は、肢位規律の講習が“地名の権威”を借りただけで、元の伝承とは無関係に安全産業の都合で整えられたのではないかとしてきた[22]。
とくに論争になったのが、肘峠の越え方の角度が、資料によって「92度」「87度」「95度」と揺れる点である。講習用の図解が後年の統一作業で整えられた可能性がある一方、揺れが「現場の条件(岩の摩耗や積雪)」を反映している可能性もあるとされる[23]。この二重の可能性が、学術的な確証を難しくしていると指摘されてきた。
また一部では、肘峠がの啓発に利用される過程で、転倒を“本人の姿勢不足”の問題へ寄せたのではないかという倫理的疑義も呈された。安全文化は必要だが、環境要因を無視する方向に働きうる、という批判である[24]。この論点は、社会の側が「守れる型」を求めがちな時代背景と結び付けて語られてきた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『三河峠語彙の運動学的再解釈』東海民俗研究会出版, 1931.
- ^ 山根静馬『共同作業における呼吸合図の歴史』名古屋学芸書院, 1940.
- ^ 田村利助『肢位規律講習の図解史――肘峠式姿勢図をめぐって』中部安全教育協会, 1952.
- ^ 高木寛人『岩肌形状と通過儀礼の対応(第3報)』『民俗技術誌』第12巻第4号, 1968, pp. 41-63.
- ^ Kobayashi, M. “Elbow-Angle Narratives in Japanese Pass Traditions,” Journal of Applied Folklore, Vol. 7 No. 2, 1979, pp. 88-109.
- ^ Sato, Ren. 『図解肘峠――転びにくい姿勢の七呼吸』日本教育綱領研究所, 1959.
- ^ 『名古屋市労務研修資料(非公式複製)』中部労務監督局, 1947.
- ^ 張子明『気象の民間対応と身体感覚――雨前兆の記述様式』東亜天文民俗学会, 1986, pp. 12-29.
- ^ R. H. Fletcher “Ritualized Posture and Accident-Myth Transmission,” International Review of Occupational Lore, Vol. 19 No. 1, 1994, pp. 201-223.
- ^ 井上由紀夫『分度器伝承と鍛冶の計測文化』『工匠史研究』第5巻第1号, 2003, pp. 77-96.
外部リンク
- 肘峠資料デジタルアーカイブ
- 中部安全教育協会(講習史)
- 民俗地形学フィールドノート
- 愛知・岐阜峠語り図鑑
- 図解肘峠の翻刻サイト