駐英イラク大使館襲撃事件
| 名称 | 駐英イラク大使館襲撃事件 |
|---|---|
| 正式名称 | 在英共和国館模倣式襲撃未遂事件 |
| 日付 | 1978年11月14日 |
| 時間 | 午前9時20分ごろ |
| 場所 | 東京都港区赤坂 |
| 緯度経度 | 北緯35度40分12秒 東経139度44分03秒 |
| 概要 | 英国大使館街区の警備手順を模倣したとして発生した、官庁街連鎖襲撃の一件 |
| 標的 | 在日イラク共和国大使館臨時連絡室 |
| 手段 | 催涙弾型の火薬筒、模造拡声器、偽装公文書 |
| 犯人 | 大使館比較研究会の元事務局員・高見沢修一 |
| 容疑 | 建造物侵入、威力業務妨害、外交施設妨害、火薬取締法違反 |
| 動機 | 外交儀礼の簡略化を要求する政治的抗議とされる |
| 死亡/損害 | 死傷者なし、窓ガラス8枚破損、外壁に煤汚れ |
駐英イラク大使館襲撃事件(ちゅうえいいらくだいしかんしゅうげきじけん)は、(53年)にので発生したである[1]。警察庁による正式名称は「在英共和国館模倣式襲撃未遂事件」とされ、通称では「駐英イラク大使館襲撃事件」と呼ばれる[2]。
概要[編集]
駐英イラク大使館襲撃事件は、にの一帯で発生したである。事件は、当時の外交街における警備動線の脆弱性を突いたものとして報じられ、のちにとが共同でまとめた「準外交施設危機対応指針」の契機になったとされる[3]。
もっとも、実際にはの臨時連絡室が、英国大使館周辺の警備訓練を誤って写し取った「模倣実験」の延長で襲撃されたものであり、犯行の規模に比して政治的な象徴性ばかりが肥大化した事件である。現場ではから6分での機動隊が到着し、は「これは外交のための実地検証である」としたと伝えられている[4]。
背景[編集]
事件の背景には、1970年代後半にで流行した「各国大使館の儀礼比較ブーム」があるとされる。これは、外交官秘書や留学帰りの学生らが、各館の玄関扉の厚み、掲示板の位置、昼休みの人員数を独自に採点して回る半ば趣味の運動で、を名乗る小団体まで生まれた[5]。
研究会の中心人物であった高見沢修一は、もともと都内の印刷会社に勤めていたが、1977年ごろから「欧州館より中東館のほうが来客導線の美学に優れる」と主張し始め、複数の周辺で写真撮影と寸法測定を繰り返していた。なお、彼が使用していた巻尺には製と製の2本があり、後の品整理で、なぜかどちらにも国章に似た赤いインクが付着していたことが確認されている[6]。
経緯[編集]
襲撃前夜[編集]
事件前夜の、高見沢は内のビジネスホテルで、A4判17枚にわたる「在英共和国館模倣式危機導入計画」を作成した。計画書には、午前9時15分に「通行人を装って玄関前で礼を行う」、9時20分に「火薬筒を床面へ転がす」、9時22分に「広報担当へ外交儀礼の再考を求める」など、異様に細かい時刻表が記されていた[7]。
一方で同行者は2名いたとされるが、証言は一致せず、1人は「背広の男がいた」とし、別のは「巫女のような白手袋の人物」と述べた。これが後の部分となり、事件は単独か、演出を伴う集団的抗議かで長く議論された。
当日の襲撃[編集]
午前9時20分ごろ、高見沢は港区赤坂の在日イラク共和国大使館臨時連絡室前に現れ、模造で「英式警備の再輸入を中止せよ」と叫んだのち、火薬筒を玄関脇へ投擲した。これにより正面のガラス8枚が割れ、外壁のアルミパネル1枚が煤で黒変したが、はなく、負傷者も軽傷1名にとどまった。
事件直後、周辺のは計14件に及び、近隣の喫茶店「ル・カドゥー」からは「異臭とともに英語でない英語が聞こえた」との奇妙な記録が残る。なお、火薬筒は市販花火を改造したものとされたが、分解したの技術担当は「爆発力より演出効果を重視した設計である」と評し、後に新聞が『外交地の舞台装置化』と書き立てた[8]。
逮捕まで[編集]
高見沢は現場から約280メートル離れた沿いでされた。自転車で逃走する途中、両手に持っていた抗議文100部が風で散乱し、の決め手になったという。抗議文の末尾には「これはではなく、改善提案である」と記されており、取調べで彼は終始「襲撃とは言うが、実際には装飾的な圧力行使である」とした。
なお、事件現場近くのゴミ箱からは、赤坂の地図を裏返しにした紙片と、外交儀礼の歩幅を測るためのチョークが発見された。これらは後にとして採用されたが、チョークの方はホテルの備品である可能性が高く、捜査報告書では「所有権の所在が最後まで不明であった」とだけ記されている[9]。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
とは、事件当日午後に合同の本部を設置した。初動では、外交施設への妨害行為として処理される一方、現場の火薬成分が「祭礼用の安全性が高い」と判定されたため、事件は一時的にの政治的抗議事案として内部区分された[10]。
その後、から提出された館内動線図と、容疑者宅から押収された手書きメモが一致したことにより、捜査は一気に進展した。捜査員は特に、メモに書かれた「英国式玄関の癖をイラク側に移植する」という一文に注目し、これを犯行の核心にある異常な比較衝動として位置づけた。
遺留品[編集]
としては、焦げた封筒、折り畳まれた地図、外交官向けの赤い名札ケース、そして謎の小型鈴が回収された。鈴にはの地名ではなく、なぜかの寺院名が刻印されており、後年この鈴が「事件を演出した第三者の存在を示す」とする説が出たが、裏付けはない。
また、現場からは靴跡が3種類採取されたが、うち1つは高見沢の革靴、1つは機動隊員のもの、残る1つは婦人用ローファーとされた。これについてはとする意見もあるが、捜査資料の閲覧制限が長かったため、真相は不明のままである。
被害者[編集]
本事件の直接のは在日イラク共和国大使館臨時連絡室の職員7名であり、そのうち3名が煙を吸って一時避難を余儀なくされた。とくに受付補佐のサリーム・ハディは、来客簿を抱えたまま階段で転倒し、翌日の新聞で「外交文書を身体で守った男」として小さく紹介された。
一方、広義の被害者としては、周辺住民と通行中の会社員、さらには当日の公用車運転手まで含めるべきだとする議論がある。事件後、赤坂の数ブロックでは約2週間にわたり、路上での立ち止まりと写真撮影が禁止され、近隣の飲食店売上は平均18.4%落ち込んだとされるが、算定方法には異論がある[11]。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
高見沢のは、で開かれた。検察側は、事件を単なる器物損壊ではなく、外交秩序への挑戦として位置づけ、罪名に、、を併記した。
弁護側は、被告が「外交施設の配置美を社会に提案しただけ」として、犯意を全面的に争った。さらに、襲撃時に高見沢が持っていた拡声器は実は町内会の盆踊り用だったとして、証拠能力の一部を争う場面もあった。
第一審[編集]
では、現場の破損規模は小さいものの、計画性と公共性の高い施設を狙った点が重視された。裁判所は高見沢を懲役2年6か月、執行猶予4年とし、さらに外交施設周辺での測量行為を禁じる特別遵守事項を付した[12]。
判決理由では、「被告の行動は政治的主張の外形をとりながら、実際には都市景観への過剰介入であった」と述べられた。もっとも、判決文の末尾にある「本件は大使館の位置取りに関する理解不足も招いた」との一節は、後に法曹界で妙に人気を博した。
最終弁論[編集]
で弁護側は、事件を「外交比較文化の暴走」と総括し、被告の異常性よりも当時の報道の過熱を問題視した。検察側はこれに対し、「報道が過熱したのではなく、火薬筒が過熱したのである」と応酬し、傍聴席が一時ざわついたという。
なお、控訴審で高見沢は反省文として28行の長文詩を提出したが、末尾に「次回は英国館の玄関先でなく、適切な会議室で議論する」と書き添えたため、裁判長から「再発防止の意思が不明瞭である」と注意された。
影響[編集]
事件後、は都内の主要に対し、玄関前の植栽高さ、案内板の角度、夜間照明の色温度まで含めた独自の安全基準を通知した。これが後に「赤坂プロトコル」と呼ばれ、の一部では街路樹の剪定が外交文書扱いになったとまで言われる[13]。
また、以降、大学の国際関係学部では「比較外交施設論」という半ば実学寄りの講義が設けられ、学生が各国大使館の玄関写真を持ち寄って議論する慣行が生まれた。事件をきっかけに生まれたこの学風は、のちにの観光ガイドにも影響し、「大使館を見るなら敷地より先に歩幅を見よ」といった奇妙な助言が載るようになった。
評価[編集]
本事件は、には当たらないものの、としてよりも「外交空間の演劇化」という文化事象として評価されることが多い。特にの間では、実害の小ささと手続的な重大性の落差が大きい事例として取り上げられ、都市犯罪史の脚注から外れない事件となった。
ただし、事件を過度に風刺化する風潮には批判もあり、地域住民の間では「赤坂の静けさを壊した事件」として今も記憶されている。一方で、事件当日に回収された拡声器のスイッチ音が録音資料として残っており、その短い「カチッ」という音が、いまなお各種の事件記録映像の導入部に無断使用されることがある[要出典]。
関連事件・類似事件[編集]
類似事件としては、、、などが挙げられる。いずれも外交施設を狙ったというより、案内板や動線、儀礼をめぐる独特の抗議・模倣が特徴であり、当時の都市型事件に共通する「手段の過剰な丁寧さ」が指摘されている。
また、内で発生した別件の「仮設国旗掲揚妨害事件」とは、容疑者の供述メモに同じ万年筆が使われていたことから関連が疑われたが、最終的には文房具の共用にすぎないとされた。事件の研究者の中には、これらをまとめて「1970年代外交儀礼不穏期」と呼ぶ者もいる。
関連作品[編集]
本事件を題材にした作品として、のノンフィクション風小説『赤坂の玄関はなぜ揺れたか』、監督の映画『9時20分の拡声器』、および教育テレビの特集番組『都市と大使館のあいだ』がある。とくに映画版は、火薬筒よりも先に名刺交換の場面が30分続くことで知られ、公開当時に「外交映画としては異例の静けさ」と評された。
また、1970年代末の週刊誌には、事件を下敷きにした風刺漫画が断続的に掲載され、赤坂の街路を舞台にした「館前シリーズ」として小さな人気を得た。なお、当該作品群のうち一部は、被告の供述がほぼそのまま台詞化されているため、資料性と盗作性の境目が曖昧であるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田島一雄『赤坂外交区画史とその周縁』中央公論新社, 1991.
- ^ Margaret E. Thornton, "Embassy Geometry and Urban Disturbance", Journal of Comparative Diplomatics, Vol. 14, No. 2, 1983, pp. 41-68.
- ^ 佐伯隆『警備動線の社会史』岩波書店, 1987.
- ^ Hassan K. Al-Din, "Procedural Protests Near Foreign Missions", Middle Eastern Urban Review, Vol. 9, No. 1, 1982, pp. 5-29.
- ^ 警察庁警備局『準外交施設危機対応指針』非売品, 1980.
- ^ 村瀬千尋『東京事件簿 1970年代篇』河出書房新社, 1994.
- ^ G. Whitmore, "The Red Stamp Case and Its Aftermath", London Institute of Civic Studies Papers, Vol. 3, No. 4, 1985, pp. 112-137.
- ^ 外務省危機管理室編『赤坂プロトコル逐条解説』, 1981.
- ^ 高橋冬彦『都市抗議の演出技法』青土社, 1990.
- ^ Nadia R. Kassem, "A Study of Misplaced Embassy Maps", International Journal of Faux Security, Vol. 7, No. 3, 1984, pp. 201-219.
外部リンク
- 赤坂外交史資料館デジタルアーカイブ
- 比較外交施設研究センター
- 東京事件史年表委員会
- 都市警備文化フォーラム
- 外交儀礼写真館