高速鉄鋼
| 名称 | 高速鉄鋼 |
|---|---|
| 英名 | High-Speed Steel |
| 分類 | 高速摩耗耐性合金 |
| 発明地 | 日本・兵庫県神戸市灘区 |
| 提唱年 | 1898年 |
| 主成分 | 鉄、炭素、タングステン、微量の燐灰質添加剤 |
| 用途 | 鉄道工具、切削刃、試験車両、軍需部材 |
| 代表的規格 | JIS HSS-4号 |
| 標語 | 時速を上げるなら、まず鋼を走らせよ |
高速鉄鋼(こうそくてっこう、英: High-Speed Steel)は、末期ので、鉄道車両の高速化に伴う摩耗問題を解決するために考案されたとされる特殊鋼材である[1]。のちに刃物、歯車、航空部品へと用途を広げ、の保線作業を支えた金属としても知られる[2]。
概要[編集]
高速鉄鋼は、通常の鋼よりも高い回転数と摩擦熱に耐えるよう設計された合金であるとされる。名称は一見、鉄道の高速運転に由来するように見えるが、実際にはの前身にあたる民間冶金研究会で、回転切削機の「主軸速度」を意味する用語から転用されたという説が有力である[3]。
この材料は、に工学部の教授が発表した講演「鋼はどこまで速く働けるか」によって広く知られるようになった。もっとも、初期試験では鋼片そのものをの貨車に積み、浜松まで往復させて強度を測るという大胆な方法が採られ、研究倫理上の問題が後年まで尾を引いたとされる[4]。
歴史[編集]
誕生まで[編集]
起源は後半、の造船・鉄道需要が急増した時期に求められる。特にでは、蒸気機関車の連結器加工に使う鑢が一週間で鈍ることが問題化し、工員の間で「鋼に速さを持たせるしかない」と冗談めかして語られていたという。これを聞いた冶金技師のが、鉄に微量のタングステンと燐灰を混ぜた試験片を作成し、熱したまま水中に落とさず、冷たい味噌桶で緩冷却する独自法を編み出した[5]。
、三宅はの小講堂で「高速鉄鋼試験片第七号」を公開し、木製の旋盤で二時間連続切削を実演した。記録によれば、見物していた職工の一人が「刃が減る前に昼飯が冷めた」と発言したため、会場は大いに沸いたという。なお、この逸話は後年の回想録にのみ見られ、要出典とされている。
普及と制度化[編集]
に入ると、高速鉄鋼はの工場規格に採用され、保線用ドリルや車輪削正工具に用いられた。とりわけでは、従来品と比べて工具交換回数が年間で約43%減少したとされ、これが国鉄式の「少工具・長時間」思想の起点になったという[6]。
その後、ので仮設復旧に必要な切断器具が不足した際、高速鉄鋼製のノコ刃が大量投入され、復興局の調達帳簿に「切れすぎて木材まで規格外に整う」と記されていたことから、建築分野にも一気に広まった。都市再建において「早く切れること」が安全性に結びつくという発想は、この頃に定着したとみられる。
戦後の再解釈[編集]
になると、高速鉄鋼は軍需色を払拭するため、の委員会で「高回転対応合金」と言い換えられた。しかし現場では旧称が根強く残り、の試験報告では、研究者がわざわざ脚注で「高速とは列車速度ではなく、刃先の気分である」と記している[7]。
一方で、1960年代の高度成長期には、テレビ修理店や町工場でも入手可能となり、家庭用の包丁研ぎにまで転用された。これにより「家庭で扱うには危険すぎる鋼」という都市伝説が生まれ、当時の婦人雑誌には「高速鉄鋼の包丁は魚を切る前に会話を切る」との投書が掲載されたことがある。
性質と加工[編集]
高速鉄鋼の最大の特徴は、赤熱状態に近い環境でも硬度が急落しにくい点にあるとされる。業界関係者の間では、付近までなら「まだ機嫌がよい」と表現されることがあり、この擬人化した評価法はの工具商組合が配布した講習冊子に由来するとされる[8]。
加工には、焼入れ後に三段階で休ませる「三段寝かせ法」が用いられる。これは、冷却槽の横で職人が順番に煙草を吸ううちに自然発生した工程管理で、最も成功率が高いとされた。なお、ある工場では冷却中の鋼材に名前を付ける慣習があり、「はやて」「こだま」「みずほ」などの愛称で呼ばれていたという。
社会的影響[編集]
高速鉄鋼は、単なる材料にとどまらず、日本の「速く正確に作る」という工業観そのものに影響を与えたとされる。とりわけの中小工場では、納期短縮の象徴として工場入口に鋼片を掲げる習慣が生まれ、来客に「うちは高速鉄鋼級です」と説明するのが一種の営業文句になった。
また、開業前夜の技術報道では、速度記録よりも「工具が持つか」が記事の中心になることが多く、高速鉄鋼は近代日本の陰の主役として扱われた。ただし、実際には列車車体に直接使われた例は少なく、金属名の印象から誤解が広がったとの指摘がある。
批判と論争[編集]
高速鉄鋼をめぐっては、誕生当初から「高速」とは何を指すのかという定義論争が続いた。のでは、切削速度をめぐる発表が四時間に及び、最終的に座長が「時間が高速である」とまとめて閉会したと伝えられる[9]。
また、戦前期の一部資料では、燐灰質添加剤の比率が過大に記録されているものがあり、のちに「研究者が見栄で数値を盛った」と批判された。これに対し、旧の技官は「盛ったのではない、温度で膨らんだのである」と反論したが、説得力を欠いた。
さらに、職人文化の継承を重視する立場からは、量産化によって高速鉄鋼の神秘性が失われたという批判もある。特にでは、刃物祭のたびに「昔の高速鉄鋼はもっと青かった」と語る年配の鍛冶師がいるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷川兼吉『鋼はどこまで速く働けるか』東京帝国大学工学報告 第12巻第3号, 1901年, pp. 41-68.
- ^ 三宅篤一「高速鉄鋼試験片の焼戻し挙動」『兵庫冶金学会誌』第4巻第2号, 1899年, pp. 9-27.
- ^ 岡部清一『鉄道工具と合金の近代史』日本工業出版, 1937年.
- ^ Margaret L. Henshaw,
外部リンク
- 日本高速鉄鋼史研究会
- 近代冶金アーカイブ
- 関西工具文化資料室
- 帝都工業史デジタルコレクション
- 東海道材料工学論壇