鵜養康弘
| 人名 | 鵜養 康弘 |
|---|---|
| 各国語表記 | Yasuhiro Ukai |
| 画像 | Yasuhiro_Ukai_official.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 1969年の鵜養康弘 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | Flag of Japan |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 鵜養内閣、改造鵜養内閣 |
| 就任日 | 1972年7月7日 |
| 退任日 | 1980年11月9日 |
| 生年月日 | 1918年4月18日 |
| 没年月日 | 1996年9月3日 |
| 出生地 | 広島県安芸郡江波町 |
| 死没地 | 東京都文京区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 大蔵官僚、地方財政顧問 |
| 所属政党 | 自由国民党 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 鵜養照子 |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 鵜養正信(兄) |
| サイン | YUkai-signature.svg |
鵜養 康弘(うかやすひろ、{{旧字体|鵜養}}、[[1918年]]〈[[大正]]7年〉[[4月18日]] - [[1996年]]〈[[平成]]8年〉[[9月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第62・63・64代[[内閣総理大臣]]であり、ほか[[大蔵大臣]]、[[通商産業大臣]]、[[自由民主党総務会長]]を歴任した。
概説[編集]
鵜養康弘は、戦後日本の保守政治を代表する政治家である。地方財政の立て直しをめぐる官僚経験から政界に入り、[[自由国民党]]の実務型政治家として頭角を現した。
第62・63・64代[[内閣総理大臣]]を務め、いわゆる「鵜養景気」と呼ばれる公共投資主導の成長政策を進めた一方、強い官僚統制と根回し政治でも知られる。なお、本人は晩年まで自らを「調整型の政策屋」と呼んでいたが、同時代の新聞は「沈黙の圧力装置」と評したことがある[1]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1918年、広島県安芸郡江波町の船具商の家に生まれる。幼少期に台風で家業の倉庫を失った経験が、後年の治水・港湾政策への執着につながったとされる。
旧制広島一中では成績優秀であったが、作文だけは毎回「不必要に比喩が多い」として減点されていたという。家族の記録によれば、11歳のころ近所の防波堤を見て「国家とは、潮を受け止める石の並びである」と書き残しており、この句がのちに本人の政治語録として再利用された。
学生時代[編集]
1937年に東京帝国大学法学部へ入学し、行政法を専攻した。同年、自治体財政の研究会に所属し、のちの盟友となる高木信一らと交わる。卒業論文は「港湾使用料と国庫補助の相剋」で、教授陣からは「やや実務に寄りすぎる」と評されたが、のちに大蔵省内で密かに回覧されたという。
在学中は弁論部に所属したが、討論の最中に相手の発言を否定する代わりに、統計表を三枚続けて示す癖があり、当時から「数字で殴る学生」と呼ばれた。なお、学友会誌には一度だけ詩を寄稿しており、これが唯一の文学的業績とされる[2]。
政界入り[編集]
1941年、大蔵省に入省し、主計局を経て地方財政課に配属された。戦後は焼け残った港湾都市の復興予算を担当し、各地の自治体首長と太い人脈を築いたことにより、1955年には自由国民党公認で衆議院議員総選挙に立候補した。
同年、広島1区から初当選を果たした。選挙戦では「一票で橋を架ける男」と書かれた怪文書が出回ったが、本人はこれを利用し、演説で「橋は票より重い」と述べて支持を広げたとされる。これにより、彼は党内の財政・建設族の中心人物となった。
大蔵大臣時代[編集]
1964年、佐伯内閣のもとで[[大蔵大臣]]に就任した。就任直後から国債依存の抑制と公共事業の再編を進め、当時の財界からは緊縮派として警戒されたが、実際には「締める場所と流す場所を分ける」方式で財政を運用した。
この時期に彼が導入したとされる「三層予算査定」は、霞が関内で半ば伝説化している。各省庁の予算要求を、建前・実益・余白の3枚に分けて提出させる方式で、職員は夜になると青焼きの束を抱えて廊下を往復したという。なお、この制度は一部自治体に影響を与えたが、制度設計の実在性をめぐっては今日でも議論がある[3]。
内閣総理大臣[編集]
1972年、党内抗争の調停役として担ぎ出され、内閣総理大臣に就任した。第62・63・64代総理として、資源価格高騰への対応、地方空港整備、海洋開発庁構想などを進め、国土の分散利用を掲げた。
とくに有名なのが「列島調整計画」である。これは全国を14の経済環と3つの特別港湾圏に区分し、輸送網と工業用水を一体で整える構想で、国会では「地図を見すぎた政治」と揶揄された。一方で、1974年の不況期には雇用維持に一定の効果を示したとされ、各県庁の財政課長からは妙に支持された。
また、外交面では東南アジア諸国との経済協力を拡大し、非公式会談を重ねた。本人は英語が得意ではなかったが、会食の場で「利益は通訳されるが、信頼は通訳されない」と述べたと伝えられている。
退任後[編集]
1980年に退任した後は、党の長老として政策助言に関わった。表向きは静養生活であったが、実際には自宅の書斎で地方債の償還計画を練り続け、関係者の間では「引退したのに予算表だけ増える人物」と呼ばれた。
1987年には回想録『潮目と帳尻』を刊行し、戦後行政を「理想の実現ではなく、遅配の管理であった」と総括した。1996年、東京都文京区の自邸で死去。死後、従一位に叙され、大勲位菊花章頸飾を受章した[4]。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
内政では、国土強靭化と地方分権を同時に進める独自路線を採った。表向きは中央集権を強めたと批判されたが、実際には「中央が責任を持ち、地方が実務を持つ」構造を志向していたとされる。
農村振興、港湾整備、都市再開発を束ねる予算編成を得意とし、特に広島県、鹿児島県、北海道の一部自治体から厚い支持を受けた。なお、本人は福祉政策について寡黙であったが、児童手当の拡充については官邸会議で三度だけ机を叩いたという逸話がある。
外交[編集]
外交では「近隣との摩擦を減らすには、議題を増やすべきだ」とする持論を掲げた。これにより、首脳会談では安全保障よりも漁業・物流・港湾仕様の話が長引くことが多かった。
とくに[[東南アジア諸国連合]]との経済連携、日中間の民間交流拡大、日米間の技術協力再編に力を入れた。外務省内部では、彼の対外政策を「硬い財布と柔らかい言葉」と呼ぶ者もいたが、相手国首脳からは実務家として高く評価されたとの指摘がある[5]。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
寡黙で几帳面な人物であったが、会議では要点を外した発言に対して唐突に港湾統計を引き合いに出すため、周囲は常に緊張した。私生活では和菓子を好み、とくに最中を割って食べる癖があった。
逸話として、地方視察の際に漁港の岸壁で転びかけた記者を支え、咄嗟に「転ぶのは構わぬ、しかし資料は落とすな」と述べた話が残る。また、官邸の暖房が強すぎると自ら石油ストーブの位置を30センチ単位で修正したとされ、秘書官はその細かさを「予算より厳密」と記録している。
語録[編集]
「政治とは、票を集める仕事ではない。明日も港が開くように段取りする仕事である。」
「反対意見は歓迎する。ただし、代案の数字がないものは風である。」
「国土は広い。ゆえに、決断は狭くてよい。」
これらの発言は、後年に党内研修の教材へ引用されたが、出典ごとに文言が微妙に異なっており、本人の語録集は版を重ねるたびに短くなった。
評価[編集]
鵜養康弘は、戦後日本の「実務優先型」保守政治の完成者として評価される一方、官僚主導を温存した人物として批判も受けた。経済成長の安定化に寄与したとする見解がある反面、公共事業依存を固定化したとの指摘がある[6]。
政治学上は、派閥均衡と地方利益の調停を制度化した点が注目される。また、本人の政治手法はのちの調整型首相像の原型となったとされるが、実際には彼の机の上にあった付箋の枚数が政策形成そのものを左右していたともいわれる。
家族・親族[編集]
鵜養家は瀬戸内沿岸の商家を起源とし、祖父の代に港湾荷役業へ転じた系譜にある。父・鵜養清次は船具商、母・ミサは町内会の会計係を務め、家計簿の正確さを康弘に教えたという。
兄の鵜養正信は県議会議員を経て参議院議員となり、弟との政治的立場の違いから「鵜養兄弟は同じ海を見て、別の潮を読んだ」と評された。妻の照子は教育関係者で、選挙区では事実上の応援総括を担った。子女のうち長男は民間企業に勤務し、政治家にはならなかったとされる。
選挙歴[編集]
1955年の衆議院議員総選挙で初当選を果たして以後、連続8回当選した。1960年代半ばには与党内の実力者として無投票再選に近い地盤を築き、1972年総裁選前後には全国遊説を行い、党員票を大きく伸ばした。
1976年の総選挙では「都市部では弱い」とされたが、広島・岡山・山口の沿岸部で強く、比例代表制導入前夜の選挙制度を巧みに利用したとされる。1983年の引退表明後も地元後継者の選定に影響を与え、選挙区内では「鵜養票」という俗称まで生まれた[7]。
栄典[編集]
死後叙位により従一位。ほか、在任中に勲一等旭日大綬章、戦後復興功労章、自治行政特別記念章を受章した。1978年にはフランス政府よりレジオンドヌール勲章グランクロワ相当を授与されたと伝えられるが、公式記録は一部欠落している。
なお、官邸資料館の展示では、彼が実際に着用したとされる菊花章頸飾のレプリカのほか、地方視察用の雨合羽、予算折衝用の赤鉛筆が並べられている。赤鉛筆は「削るたびに政策が変わる」と説明され、観覧者に妙な人気がある。
著作/著書[編集]
『潮目と帳尻』(1987年、霞書房) 『港湾と国家財政』(1971年、大和政策出版) 『列島調整計画ノート』(1975年、中央政経社) 『予算は会議室で生まれる』(1990年、講談行政新書) 『私の戦後、私の帳簿』(1994年、文京史録社)
いずれも実務書として読まれたが、比喩表現がやけに多く、書評では「官僚の顔をした随筆」と評された。とくに『予算は会議室で生まれる』は、タイトルの割にほとんど会議録の再構成である。
関連作品[編集]
1982年のテレビドラマ『潮待ちの人』では、モデルの一人として描かれた。1989年の政治風刺映画『赤鉛筆の男』では、主演俳優が終始無言で算盤を弾く演技を見せ、話題となった。
また、1997年には地方自治を題材としたドキュメンタリー『鵜養康弘と14の経済環』が放送され、BGMに港の汽笛が多用されたことで記憶されている。これらの作品は本人の実像をそのまま再現したものではないが、「実像より予算書の方がドラマチック」とする評価を広めた。
脚注[編集]
注釈 [1] 同時代紙による人物評。表現は新聞ごとに異なる。 [2] 学友会誌『東帝弁論』第14号、1939年。
出典 [3] 霞が関行政史研究会編『戦後予算制度の変容』中央官庁出版、1988年。 [4] 『官報』第7051号、1996年9月18日。 [5] M. Thornton, "Negotiation Styles in Postwar Japan", Pacific Policy Review, Vol. 12, No. 3, 1981, pp. 44-67. [6] 田辺俊夫「鵜養政権と公共投資の政治学」『現代日本政治』第8巻第2号、1992年、pp. 112-139。 [7] 広島選挙史編纂委員会『沿岸票の研究』広島地方自治叢書、2001年。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
佐伯芳雄『戦後保守政治の潮流』日本評論社, 1979年.
小林瑞穂『官僚と総理のあいだ』東京大学出版会, 1984年.
田辺俊夫『予算国家の形成』岩波書店, 1992年.
M. Thornton, Postwar Fiscal Coordination in Japan, Routledge, 1985.
木村隆一『港湾都市と政治的配分』勁草書房, 1991年.
河合一也「鵜養康弘の政策調整技法」『政策と統治』第5巻第1号, 1995年, pp. 1-28.
鈴木みどり『総理の机上学』文藝春秋, 2000年.
H. Sato, "The Ukai Doctrine of Administrative Balance", Asian Governance Quarterly, Vol. 7, No. 2, 1982, pp. 88-103.
『潮目と帳尻』霞書房, 1987年.
『予算は会議室で生まれる』講談行政新書, 1990年.
外部リンク[編集]
国立国会図書館デジタルコレクション 鵜養康弘関連資料
鵜養康弘記念館 公式サイト
戦後政治人物アーカイブ
広島政治史研究会 鵜養康弘特集
官邸史料室 総理大臣在任記録
脚注
- ^ 佐伯芳雄『戦後保守政治の潮流』日本評論社, 1979年.
- ^ 小林瑞穂『官僚と総理のあいだ』東京大学出版会, 1984年.
- ^ 田辺俊夫『予算国家の形成』岩波書店, 1992年.
- ^ M. Thornton, Postwar Fiscal Coordination in Japan, Routledge, 1985.
- ^ 木村隆一『港湾都市と政治的配分』勁草書房, 1991年.
- ^ 河合一也「鵜養康弘の政策調整技法」『政策と統治』第5巻第1号, 1995年, pp. 1-28.
- ^ 鈴木みどり『総理の机上学』文藝春秋, 2000年.
- ^ H. Sato, "The Ukai Doctrine of Administrative Balance", Asian Governance Quarterly, Vol. 7, No. 2, 1982, pp. 88-103.
- ^ 『潮目と帳尻』霞書房, 1987年.
- ^ 『予算は会議室で生まれる』講談行政新書, 1990年.
外部リンク
- 国立国会図書館デジタルコレクション 鵜養康弘関連資料
- 鵜養康弘記念館 公式サイト
- 戦後政治人物アーカイブ
- 広島政治史研究会 鵜養康弘特集
- 官邸史料室 総理大臣在任記録