1720年問題
| 名称 | 1720年問題 |
|---|---|
| 正式名称 | 正徳九年(1720年)割符偽造・延着誘発事件 |
| 日付(発生日時) | 1720年(正徳9年)8月17日 午前2時40分ごろ |
| 時間/時間帯 | 未明 |
| 場所(発生場所) | 長崎県長崎市 |
| 緯度度/経度度 | 緯度32.78, 経度129.87 |
| 概要 | 航海家が携行する「割符(わっぷ)」を偽造し、入港順を操作することで複数の船を意図的に遅延・接触させ、積荷と人命を同時に狙ったとされる事件である |
| 標的(被害対象) | 長崎出島の商館と、帰帆待機中の外航船乗組員 |
| 手段/武器(犯行手段) | 真鍮刻印の偽造、延着合図(焚き火灯)と潮汐表の差替え |
| 犯人 | 身元不詳の「割符師」集団(容疑者複数・未逮捕) |
| 容疑(罪名) | 偽造有印私文書行使、業務妨害、危険な方法による傷害致死等の容疑 |
| 動機 | 特定の商人が抱える保険契約の“遅延益”を回収するためと推定される |
| 死亡/損害(被害状況) | 乗組員3名が死亡、2名が重傷、積荷の米650俵が海水で劣化し総額約4,800両の損害とされた |
1720年問題(ひゃくななじゅうにねんもんだい)は、(正徳9年)にので発生したである[1]。警察庁による正式名称はとされ、通称では「割符の目が消えた事件」と呼ばれる[2]。
概要/事件概要[編集]
1720年問題は、(正徳9年)未明にで発生した航海家割符犯罪として扱われた[3]。
犯人は、入港許可の順番を決める航海家の携行物であるを偽造したうえで、潮の読み替えを示す小冊子(通称「潮目帳」)を入れ替え、結果として複数の船が同一の待機線上へ滞留したとされる[4]。現場では焚き火の灯が“3回であるべきところ4回”に変わっていたことが目撃され、捜査の端緒となった[5]。
警察庁の資料(当時は海関与力の記録を整理したもの)では、被害状況として死者3名、重傷2名、そして米650俵の品質劣化が明記されている[6]。なお、数えられた「劣化俵」が実際には652俵だったという証言もあり[7]、数字の揺れ自体が“1720年問題”という語の広がりに関係したとする説がある[8]。
背景/経緯[編集]
本事件の背景には、1720年前後に“航海の手形”として流通した割符制度の過渡期があったとされる[9]。長崎では、出島から沖へ出る小船にも順番があり、商館側が船頭へ「割符」を渡すことで交通整理を行っていたとされる[10]。
ところが正徳期に入り、保険契約の仕組みが拡張され、遅延や難待ちが発生した場合の支払いが複雑化した。そこで「遅延益」を狙う者が現れ、割符の照合を担当する“目利き役”の人数が不足した時期に照準を合わせた、という経緯が捜査記録に残されている[11]。
一方で、割符制度を研究していたの内部文書には、正徳9年に限り「潮目帳の版番号が合わない」現象が観測されたと書かれている[12]。このため、犯人が偽造したのは割符そのものというより、“照合に使う版面”まで含めた可能性が指摘された[13]。
また、事件名の由来とされる「1720年問題」は、捜査担当のが「正徳9年は割符照合の誤差が連続して発覚する年である」と日誌に記したことに由来するとされる[14]。ただし同日誌の筆跡が後年の写しと似ているとの指摘もあり[15]、真偽には揺れがある。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
捜査は(正徳9年)の未明、長崎港で「通報が4件同時刻に出された」ことで開始された[16]。最初の通報者は、船灯の合図が“規定より1回多い”ことに違和感を覚えた見張り番であり[17]、この証言が核心となった。
犯人は、船舶を止めるための焚き火灯を“延着合図”として再現したとされる。ただし、合図係が実際に用いていた灯縄の結び目が、当日のものと微妙に異なっていたと記録されている[18]。なお、灯縄の結び目を説明した証言の人物名が途中で「左利きの者」へ置換されており[19]、担当者の書き換えが疑われた[20]。
遺留品[編集]
遺留品として最初に挙がったのは、真鍮板に刻まれた“逆さ刻印”である[21]。刻印は肉眼で判別できない角度の反射を使うタイプとされ、割符の縁に紛れ込ませた可能性が高いとされた[22]。
次に回収されたのは、潮目帳の差替えを示す折り目のずれである[23]。折り目は17箇所あり[24]、そのうち3箇所だけが“米糊”の硬化痕を持っていたと記録される[25]。この細部から、犯人が海上ではなく港近くで差替え作業を行ったと推定された[26]。
さらに、現場近くの樽から「香草灰」入りの小袋が見つかった。香草灰は航海用の防臭では一般に用いられるが、袋の中に混ぜられた粒子が“工房の削り屑”に近いことが指摘された[27]。このため、捜査は港周辺の金細工工房へ波及し、関係者の事情聴取が12回、捜索が6回実施されたとされる[28]。
被害者[編集]
被害者として名簿に残ったのは、乗組員3名の死亡と、重傷2名である[29]。死亡者のうち、は“接触事故の後、割符を取り落とした”ことで死亡時刻が特定できたとされた[30]。
重傷者の1人であるは、救助時に手首へ“潮目帳の紙紐”が食い込んでいたと供述した[31]。この供述は、犯人が紙紐まで用意して差替えを行ったことを示唆すると考えられた[32]。
また、被害者の中には商館の帳場担当も含まれていたとする資料がある[33]。ただし、その帳場担当の死亡証明が後年の追加分であることから[34]、追加記録の真偽が争点となった。
刑事裁判(初公判/第一審/最終弁論)[編集]
第一審は、事件から約7年後の(享保2年)に開かれ、被告人は“割符師”の伝聞であるとされ、実名が出ないまま進められた[35]。検察側は、偽造刻印の角度と、遅延合図の灯縄の結び目を同一系統として関連づけた[36]。
初公判では、容疑者は「犯行はしていない」と述べたとされるが、供述調書の筆致が2種類に分かれているという指摘があった[37]。また、証拠とされた遺留品の真鍮板が保管庫から一度失われた可能性が指摘され、裁判官から「検証の履歴を明確にせよ」と促された[38]。
最終弁論(、享保4年)では、弁護側が“1720年問題”という呼称自体が捜査の誤差を隠すための後付けだと主張した[39]。一方で裁判所は、確定的証拠は少ないものの、船灯の合図回数の一致と潮目帳折り目17箇所の一致が「合理的疑いを残さない」として、起訴された人物を有罪としたとされる[40]。
ただし判決文の末尾に、死刑と懲役の選択肢が並んだ異例の書式が混入していたという記録が残っており[41]、この混入が“書記の手違い”か“政治的圧力”かで論争が生じた。
影響/事件後[編集]
事件後、長崎の港湾運用には「割符照合の二重化」規則が導入されたとされる[42]。具体的には、割符照合を1名ではなく2名で行い、一方が照合し、他方が“灯縄の結び目”を記録する仕組みへ変更された[43]。
また、は“版番号の鎖付き配布”へ移行し、正徳期に頻発した誤差を抑える目的で、配布時の検印が追加されたとされる[44]。ただし、鎖付き配布によって港が混雑し、結果として「遅延による別の保険請求」が増えたという指摘もある[45]。
社会には“1720年問題”が比喩として広がり、「規則が増えるほど新たな穴が生まれる」という言い回しに転化したとされる[46]。一方で、当時の商館同士が互いを疑い合う空気が強まったともされ[47]、この点が事件の長期的な社会影響と考えられている。
評価[編集]
当時の記録を整理したは、本事件を「犯罪技術が交通運用に直接入り込んだ希少例」と評価している[48]。
ただし、近年の(という体裁の)研究者は、遺留品の真鍮刻印について「逆さ刻印」が必ずしも犯人の工房と一致しない可能性を指摘している[49]。さらに、裁判で重視された“灯縄の結び目”が、時期によって結び方が変わっただけではないかという見方もある[50]。
なお、“1720年問題”の呼称が、捜査当局が一般市民向けに誤解を誘うための宣伝文句だったのではないか、という批判もある[51]。この評価は、出所不明のパンフレットが市場に出回ったことに根拠があるとされるが[52]、確証は示されていない。
関連事件/類似事件[編集]
類似事件として挙げられるのは、1720年後半に相次いだ「合図回数誘導事件群」である[53]。特に(1721年)に記録された「焚き火灯三回遅延事件」では、港湾の合図係だけが狙われ、現場に“米糊の硬化痕”が残っていたとされる[54]。
また、別系統の類似としてに起きた「帳簿差替えによる船賃搾取事件」が挙げられる[55]。こちらは割符ではなく、船賃表の差替えで被害が拡大した点が共通するとされるが、犯行手段の具体性が異なるため独立の事件として扱われることが多い[56]。
このように、時間の読み違えや合図のズレが“犯罪の鍵”となる事例が繰り返し観察されたことから、1720年問題は交通犯罪の原型の一つとして語られることがある[57]。ただし同種事件がどれほど実在したかは資料が揺れており[58]、分類の恣意性が問題視されることもある。
関連作品(書籍/映画/テレビ番組)[編集]
1720年問題を題材にした作品として、『割符の目が消えた夜』は、港の灯りをモチーフにした推理小説として知られる[59]。作中では遺留品の真鍮板が“角度の違いで語りかける”ように描写され、実務の記録と異なる創作が多いと評されている[60]。
『潮目帳の裏表』(配給:北辰キネマ)は、差替え作業を“折り目17箇所”で表現する演出が話題になった[61]。なお同作のパンフレットには、主人公が「目撃はいつも間違う」と言う場面があるが[62]、この台詞は史料編纂会の講演を引用したとされ、引用元が明示されないとして批判された[63]。
『港町アーカイブス 正徳の闇』では、捜査開始を「通報が8月18日未明に4件」へ寄せる編集がなされた[64]。視聴者の間では、事件より“1720年問題という言葉の語感”が印象に残ったという声が多かったとされる[65]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長崎海関史料編纂会『正徳九年(1720年)長崎港事件記録(複写本)』海関史料調査室, 1912.
- ^ 田中 玄右『割符制度の運用と照合技術(復元篇)』大八木書房, 1938.
- ^ William H. Calder『Navigation Bonds and Port-Order Instruments in Early Modern Japan』Cambridge University Press, 1976.
- ^ 伊藤 佐保『潮汐表の版管理と行政記録』東京文庫, 1984.
- ^ Mariko L. Sato『Insurance Delays and Coastal Risk Accounting』Journal of Maritime Forensics, Vol. 12, No. 3, 1999, pp. 101-134.
- ^ Hugh R. Pembroke『Signals, Smoke, and Jurisdiction: A Study of Harbor Alarm Patterns』Maritime Legal Review, Vol. 4, Issue 1, 2004, pp. 55-88.
- ^ 【要出典】中村 琴三『1720年問題の語源と捜査言語』長崎学叢書, 2011.
- ^ 海運算術局 編『潮目帳・算術書式集(正徳期)』官版、海運算術局、1720.
- ^ 小林 睦『遺留品から読む港の技術史』青嵐出版, 2008.
- ^ Owen R. Whitely『Brass Stamps and Counterfeit Angles: Evidence in Early Modern Courts』Oxford Historical Evidences, 第3巻第2号, 2013, pp. 201-236.
- ^ 佐久間 勝利『“灯縄の結び目”に見る裁判の誤読』文泉社, 2020.
外部リンク
- 港湾犯罪史アーカイブ
- 正徳期史料データベース(長崎)
- 潮目帳研究会ポータル
- 長崎南検番デジタル展
- 割符制度復元プロジェクト