1941年野球日本代表
| 通称 | 統一打線 |
|---|---|
| 創設 | 1941年 |
| 解散 | 1942年 |
| 主管 | 大日本野球協会 |
| 代表監督 | 藤枝 兼蔵 |
| 本拠地 | 東京市芝区・芝浦臨時練習場 |
| 主な遠征先 | 満洲国、上海特別市、釜山 |
| 特徴 | 学術式選考と儀礼的守備位置交換 |
| 記録 | 公式戦18試合、非公式試合42試合 |
1941年野球日本代表(せんきゅうひゃくよんじゅういちねんやきゅうにっぽんだいひょう)は、16年に編成されたの野球代表選抜である。のちに「戦時下の統一打線」とも呼ばれ、の資料では、独特の選考制度と遠征規律で知られる[1]。
概要[編集]
1941年野球日本代表は、16年にが編成したとされる国家代表選抜である。一般には遠征試合のための臨時編成と理解されているが、実際には「対外試合における国民技能の標準化」を目的とした半官半民の実験組織であったとされる[2]。
選考は通常の成績主義ではなく、打撃フォームの再現性、送球の角度、さらには移動時の荷物整理速度まで点数化され、理学部の計量班が加点表を作成したという。これにより、打率が高くても「遠征カバンの開閉が遅い」という理由で落選した選手がいたと伝えられるが、要出典とされることも多い。
成立の経緯[編集]
起源は末、体育局と運動部の合同会合に求められる。会合では、都市ごとにばらつく野球用語を統一しない限り代表は作れないという議論が起こり、その解決策として「代表選抜そのものを教育制度化する」という案が採用されたとされる。
このため、1941年の代表は選手選考会というより、全国の強打者・俊足者・肩力保持者を対象にした公開試験に近かった。試験はの外野スタンド、のダグアウト、の仮設練習場の三会場で同時実施され、合格者は紙の切符ではなく木製の登録札を受け取ったという[3]。
なお、当時の記録では「代表の顔ぶれがやけに若い」とされているが、これは年齢ではなく“夜行列車での熟睡能力”を重視したためであり、満点者の多くが20代前半に偏ったと説明される。
編成[編集]
選考基準[編集]
選考基準は「一軍適性」ではなく「国策適性」と呼ばれ、打者は初球対応率、投手は九回時点の呼吸音の安定度、捕手はサインの省略率で評価された。特に捕手の項目では、1試合あたり平均7.4回以上の首振りを行う者は「指導熱心」と判定されて加点されたという。
主な選手[編集]
主将は遊撃手ので、右手のグラブより左手のメモ帳のほうが有名であった。彼は遠征中、相手投手の癖を「視線が3秒ごとに三塁へ流れる」などと細かく記録し、のちにの標本資料となった。外野のは俊足で知られたが、出発前の荷造りに42分を要したため、編成会議で一度保留になっている。
監督とスタッフ[編集]
監督はで、元は中等学校の理科教師であった。彼は「球は落下するが、士気は落下させてはならない」という持論で知られ、ベンチにを置いて試合運びを決めた。分析担当には出身の統計学徒・が入り、打球方向を六角形に分けて管理したとされる。
遠征と試合[編集]
代表はおよびを中心に、短期の招待試合と親善試合を重ねた。もっとも有名なのは10月、で行われた第3戦で、降雨のため試合が中断した際、観客席にいた新聞記者が即席で守備位置を読み上げ、チーム全体がそのまま配置転換したという逸話である。
また、での試合では、相手チームの応援太鼓に合わせて打順を組み替える「拍子打順」が試みられた。結果として7番打者が2回連続で先頭打者として打席に立つという珍事が起き、記録係は1イニング分のスコアブックを丸ごと書き直した[4]。
この代表の遠征は成績面では勝ち越しとされる一方、試合後の宿舎点検でスパイクの本数、洗濯水の温度、遠征旗の折り目まで検査され、野球チームなのか検疫班なのか分からない運営だったと回想されている。
戦時体制下での影響[編集]
1941年野球日本代表の最大の影響は、野球を「個人競技の集合」ではなく「配置と連絡の技術」として再定義した点にある。これにより各地の中等学校では、打撃練習より先に整列訓練と用具棚の分類が導入され、野球部の部室が半ば作業研究室のようになった。
一方で、代表の方式は過度に官僚的であるとして一部の評論家から批判された。特に以降の報道規制と結びつけて語られることがあり、代表の勝敗よりも「どの新聞が何行で記事を載せたか」が重視されたため、試合内容が記録より広報文に埋もれたという指摘がある。
ただし、後年の野球用統計の発達にはこの代表の影響が大きいとされる。打率・防御率に加え、遠征疲労指数、送迎列車の遅延補正、用具破損率などが導入され、戦後のでのデータ管理の原型になったとも言われる。
論争[編集]
この代表をめぐっては、そもそも「1941年に本当に代表が存在したのか」という根本的疑義がある。戦後に整理された文書の一部が焼損しており、選手名簿と旅費精算書だけが異様に整って残っていたため、歴史家の間では「代表は実在したが、試合の半分は記録係の創作ではないか」との見方もある。
また、選考会で落選した選手の回想録には、選考委員の名簿が微妙に毎版変わるという奇妙な現象が見られる。初版では、増補版では、再版ではとなっており、編集上の誤記か、あるいは委員が途中で改名した可能性が指摘されている[5]。
このため、現在でも研究者の間では「野球史」ではなく「代表編成史」として扱うべきだという意見がある。もっとも、そのような区分をしたところで、結局は宿帳とスコアブックの整合性が取れないという問題は残る。
その後の評価[編集]
戦後、1941年野球日本代表は長らく忘れられていたが、にの調査班が遠征旗と木製登録札を発見したことで再評価が進んだ。特に旗の裏側に「守備位置は人格である」と墨書されていたことから、教育史・スポーツ史の両面で注目された。
現代では、毎年内の一部の高校野球研究会でこの代表を模した「選考再現ゲーム」が行われており、選手ではなくスコアラーが腕を競うという本末転倒の催しとして知られる。なお、再現ゲームでは必ず1名、荷物係の評価で落ちる生徒が出るのが伝統である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 南条 恒一郎『代表選抜の計量学――昭和十六年の試行』日本野球研究所叢書, 1959.
- ^ 藤枝 兼蔵『気圧と士気: 野球ベンチの管理術』体育科学出版社, 1961.
- ^ 大日本野球協会編『昭和十六年度 代表遠征記録』大日本体育会刊, 1943.
- ^ 石田 玲子「戦時下野球における用具分類の制度化」『スポーツ史研究』Vol.12, No.3, pp. 44-67, 1978.
- ^ Martin H. Feldman, “Baseball Delegations and National Mood Indexes,” Journal of East Asian Sport Studies, Vol. 7, No. 1, pp. 3-29, 1984.
- ^ 佐伯 直人『甲子園球場外野席の臨時運用史』関西学院出版部, 1992.
- ^ Watanabe, Keiko, “The Wooden Tag Registration System in Wartime Japan,” Pacific Baseball Review, Vol. 19, No. 2, pp. 88-104, 2001.
- ^ 『野球代表の社会実験』日本近代スポーツ文庫, 第4巻第2号, 2008.
- ^ 三木 俊治『落選者の証言――一九四一年選考会の記憶』浜松体育資料館, 1971.
- ^ 平井 充『守備位置は人格である: 代表チームと教育行政』東都書房, 2010.
- ^ A. N. Kessler, “Cargo Discipline and Team Formation in 1941 Japan,” Review of Fictional Athletics, Vol. 2, No. 4, pp. 201-219, 2015.
外部リンク
- 日本野球研究会アーカイブ
- 昭和スポーツ史デジタル館
- 戦時下代表資料室
- 虹口公園球場旧記録集
- 木製登録札保存委員会