SZK
| 氏名 | 清水 善一 |
|---|---|
| ふりがな | しみず ぜんいち |
| 生年月日 | 1934年2月17日 |
| 出生地 | 東京都深川区 |
| 没年月日 | 1991年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 符号設計者、翻訳校正者、暗号研究家 |
| 活動期間 | 1958年 - 1991年 |
| 主な業績 | 三文字符号SZK方式の提唱、可逆略号表の整備 |
| 受賞歴 | 日本記号学会特別功労賞(1987年) |
清水 善一(しみず ぜんいち、 - )は、の符号設計者、民間暗号研究家である。三文字略号「SZK」の発案者として広く知られる[1]。
概要[編集]
清水 善一は、に生まれた日本の符号設計者である。公文書、配送伝票、放送台本に共通して用いるための三文字略号「SZK」を提唱し、戦後日本の事務用符号文化に独特の影響を与えた人物として知られる[1]。
SZKは本来、清水がの外郭研究会で試作した「短縮記号体系」の略称であったが、のちに本人名の頭文字であるという説も流布した。ただし本人は晩年までこれを否定し、「姓でも名でもなく、整列させた文字列である」と述べたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
清水は1934年、の木材問屋街に近い長屋に生まれる。父は帳簿係、母は下水道資材の検収補助をしていたとされ、幼少期から箱札や荷印の違いを見分けるのが異様に早かったという[3]。
1945年の後、焼け残った荷札の束を拾い集めて並べ替える遊びをしていたことが、後年の記号設計に通じたと評される。近所では「札を三つ並べると落ち着く子」と呼ばれていたというが、これを裏づける一次資料は確認されていない。
青年期[編集]
1949年、に進学し、簿記と速記に強い関心を示した。卒業後はの夜間部に籍を置きつつ、の下請け校正業務に従事した。
この時期、清水は放送台本に現れる肩書や地名の表記ゆれを減らすため、三文字の連鎖だけで意味を保持する「SZK表」を試作したとされる。1959年にはの若手発表会でこれを公開し、参加者23名のうち17名が「実務に使えるが、やや神経質である」と評価したという。
活動期[編集]
1964年のを前に、清水は系の臨時委員会に招かれ、会場案内板の短縮表記規格を検討した。ここで採用されたのが、SZKの中核である「三層縮約法」で、1行12字の表示面積に対して最大48語の情報を圧縮できるとされた[4]。
1971年にはの貸会議室で「符号の市民化」を掲げる勉強会を主宰し、事務職員、図書館司書、検札係ら延べ1,204人が参加した。なお、この会合の終了後、参加者の1人が持ち帰った紙片からSZK式の誤用が全国の商店街に広まったとの指摘がある。
1980年代に入ると、清水はの準備会合に非公式参加し、英語圏の略号文化と衝突した。特に「三文字で足りるなら四文字はいらない」という彼の持論は一部で支持された一方、の編集者からは「美学的だが運用にはやや偏執的」と評された。
晩年と死去[編集]
晩年の清水は、の集合住宅でSZK表の改訂版を作り続けた。1989年には視力低下のため、文字を肉眼で確認せずに耳で数える「聴覚校正」を独自に導入したという。
1991年11月3日、心不全のため57歳で死去した。葬儀では祭壇に彼の愛用した符号カード4,800枚が並べられ、喪主が「略号は人を小さくするのではなく、忘却に逆らう」と弔辞を読んだと記録されている。
人物[編集]
清水は几帳面というより、数字と文字の境界に強い執着を持つ人物であった。机上の紙束は必ず左から右へ高さ3段で揃え、来客が1枚でもずらすと黙って最初から並べ直したという。
一方で、妙に人情家な面もあり、深夜まで作業する同僚に対しては必ずを1本だけ貸したとされる。本人は「借りたものは赤いまま返ってくるのがよい」と語ったが、意味は誰にもよく分からなかった。
逸話として有名なのは、で切符の文字数が多すぎると嘆いていた駅員に、即席で6種類の略記案を示した話である。これにより翌月の窓口待ち時間が平均18秒短縮したというが、要出典とされることが多い。
業績・作品[編集]
清水の業績は、三文字符号SZK方式の提唱に集約される。これは固有名、機関名、作業工程を3文字の骨格に落とし込み、必要に応じて母音を脱落させる方式で、1967年版の『符号実務便覧』に試験掲載された[5]。
代表作としては、『SZK作業カード集』、『三字短縮の理論』、『荷札と人間』の3冊が挙げられる。とくに『荷札と人間』は、配送現場での体験をもとに書かれた随筆でありながら、後半で急にを持ち出すため、読者を困惑させることで知られる。
また、清水はからまでに計27,430枚の符号カードを作成したとされ、そのうち1,112枚は同じ語をわざと異なる順序で並べた「逆順試験票」であった。これらはの特別書庫に一括寄贈されたが、実際に閲覧請求した研究者は年間平均3名程度である。
後世の評価[編集]
清水の評価は二分される。実務面では、短縮表記によって郵便、放送、鉄道案内の初期整備に寄与したとされる一方、あまりに厳格な運用が現場の自由度を奪ったとの批判もある。
以降は、情報デザイン史の文脈で再評価が進み、やの講義で取り上げられることが増えた。特に「言葉を減らすことは思想を減らすことではない」という清水の言葉は、実際には講演録の速記ミスだった可能性があるものの、引用句として独り歩きしている[6]。
なお、にの小規模展示で公開されたSZK原票の1枚に、清水自身の筆跡ではない修正が見つかり、後代の編集者が神格化のため加筆したのではないかという説が出た。もっとも、展示担当者はこれを「紙の経年変化」で押し切っている。
系譜・家族[編集]
清水は5人きょうだいの三男で、家族の多くが物流、印刷、帳簿管理に関わっていた。長兄の清水鉄雄は港湾倉庫の検品主任、次兄の清水義彦は活字鋳造工であり、いずれもSZKの語彙形成に間接的影響を与えたとされる。
妻の清水美津子は中学校の国語教師で、夫の略号癖に最後まで慣れなかったと回想している。長女の清水由里は後年、父の資料整理を行い、1960年代のメモ帳から「S・Z・Kは一度に三つまで」という謎の家訓を発見した。
清水家は1990年代以降、親族会を年1回で開いており、会場では必ず名札の文字数が3文字に統一されるという。これは親族内の慣習として定着しているが、一般にはほとんど理解されていない。
脚注[編集]
[1] 清水善一『三字短縮の理論』記号文化社、1982年、pp. 14-19。 [2] 斎藤文彦「戦後日本における略号実務の形成」『日本符号史研究』Vol. 7, No. 2, 1994年、pp. 33-41。 [3] 田村澄江『深川荷札史』東都出版、1978年、pp. 88-91。 [4] 運輸省臨時案内記号委員会『1964年案内短縮表試案』内部資料、1964年。 [5] 河辺一郎「SZK方式の成立と展開」『情報デザイン年報』第12巻第1号、1988年、pp. 5-26。 [6] Margaret A. Thornton, "Compression and Civility in Postwar Japanese Office Culture," Journal of East Asian Notation Studies, Vol. 4, No. 1, 2001, pp. 77-89。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 清水善一『三字短縮の理論』記号文化社, 1982.
- ^ 斎藤文彦『戦後日本における略号実務の形成』日本符号史研究 Vol. 7, No. 2, 1994, pp. 33-41.
- ^ 田村澄江『深川荷札史』東都出版, 1978.
- ^ 河辺一郎『SZK方式の成立と展開』情報デザイン年報 第12巻第1号, 1988, pp. 5-26.
- ^ Margaret A. Thornton, "Compression and Civility in Postwar Japanese Office Culture" Journal of East Asian Notation Studies Vol. 4, No. 1, 2001, pp. 77-89.
- ^ 大槻和夫『略号と都市生活』港都書房, 1969.
- ^ Harold J. Bennett, "Three-Letter Systems and the Japanese Bureaucracy" The Bulletin of Administrative Semiotics Vol. 2, No. 3, 1976, pp. 112-130.
- ^ 清水由里編『父のカード箱』私家版, 1997.
- ^ 中野修一『案内板の近代』公共表示研究所, 2004.
- ^ 渡辺庸介『荷札と人間――SZKをめぐる小史』青林社, 2011.
外部リンク
- 日本符号史アーカイブ
- SZK研究会デジタル資料室
- 東都記号文化センター
- 戦後案内表記博物館
- 清水善一記念資料室