Dead rails
| 名称 | Dead rails |
|---|---|
| 和名 | デッド・レイルズ |
| 分類 | 放棄軌道・保存鉄道文化 |
| 起源 | 1898年ごろ、米国中西部の貨物操車場 |
| 提唱者 | エドワード・L・ハーグリーヴズ |
| 主な地域 | アメリカ合衆国、カナダ、北部日本の港湾地区 |
| 関連機関 | North American Rail Preservation Bureau |
| 特徴 | 停止線路の保存、夜間巡検、錆の年輪記録 |
| 社会的影響 | 鉄道史研究と都市再開発の両方に影響 |
Dead rails(デッド・レイルズ)は、設備のうち長期間にわたり通電も運行も停止し、形式上は撤去されずに残された区画を指す語である。とりわけので発達した「沈黙した線路の保存運動」を起源とする概念として知られている[1]。
概要[編集]
Dead railsとは、一般には廃線や休止軌道に近い意味で用いられるが、保存・記録・儀礼の対象として扱われる点に特徴がある。】】の倉庫街で19世紀末に語彙化されたとされ、当初は貨車の往来が絶えた区画を示す業界用語であった[2]。
のちにの労働組合系技師たちが、使われなくなった線路を「死んだ」と断じるのではなく、都市の記憶を保管する媒体として扱いはじめたことから、Dead railsは単なる廃棄物ではなく、半ば宗教的な保存対象へ変質したとされる。なお、1924年の年次報告では、死線路の「錆色は時刻表の化石である」とする奇妙な一節が掲載されている[3]。
歴史[編集]
起源と命名[編集]
起源は、の貨物積替え施設で、終電後に残る線路群を見た監督官エドワード・L・ハーグリーヴズが「まるで眠っているのではなく死んでいる」と述べた記録に求められる。後年この発言は誤って新聞に転載され、dead railsという英語表現が広まったとされるが、ハーグリーヴズ本人の署名入り日記が現存するかは不明である。
命名の普及にはの鉄道広告業者マーサ・J・クインが大きく関わった。彼女は1899年、不要軌道の再利用を売り込むパンフレット『The Civic Afterlife of Rails』を配布し、そこに dead rails の語を太字で印刷した。パンフレットは3,400部刷られたが、実際に配られたのは2,912部で、残りは印刷所の床下から1961年に発見されたとされる[4]。
保存運動への転化[編集]
】に入ると、の市民団体が、撤去予定の側線を「都市の骨格」として残す運動を開始した。これが dead rails 保存運動の原型であり、軌条を磨き直すのではなく、あえて錆を年単位で記録する「腐食年鑑法」が導入された点が独特である。
1937年にはの冶金学者ジェームズ・R・ノックスが、錆の厚みを0.03ミリ単位で読み取る「静止レール年輪計」を考案した。この装置は学術的には疑義が多いが、保存派の間では「線路の年齢を聞くための聴診器」として受け入れられた。なお、同年の試験測定では、ある引込線が「1921年の恐慌をまだ抱え込んでいる」と判定されたという[5]。
国際化[編集]
以降、dead rails の概念はの港湾設備、の炭鉱跡、さらにのの臨港線にも輸入された。とくに横浜では、接収後の倉庫街に残るレールを「都市の裏側を走る記憶の骨」とする文章が系の内部報告に現れ、以後、保存と再開発の調停語として用いられた。
、で開催された「使われない交通インフラの比較研究会」では、dead rails が、、に翻訳されず、あえて英語のまま使われたことが話題となった。議事録では、訳語を与えると現場が即座に「ただの廃線」と理解してしまうため、語感の曖昧さこそが保存政策の道具であると結論づけられている[6]。
制度化[編集]
1974年、のは、dead rails を「機能停止後も調査対象として維持される軌道群」と定義する内部通達を出した。これにより、廃線か保存かの境界にあった線路は、少なくとも紙の上では「生きている行政文書」として扱われるようになった。
一方で、制度化は現場に奇妙な副作用も生んだ。保存対象となった区画では、毎年11月第2金曜に錆の進行を撮影することが義務づけられ、最大12枚の定点写真を提出する地域もあった。これは後に「鉄の健診」と呼ばれ、の一部地区では市民参加型の年中行事にまで発展した。
批判と論争[編集]
dead rails には、保存を名目に都市空間の停滞を正当化したという批判がある。】のでは、再開発予定地にあった側線を巡り、保存派と不動産業者が3年にわたり対立した。保存派は「線路は止まっていても、歴史は減速しているだけである」と主張したが、地元紙はこれを「詩的だが売れない」と評した。
また、学術面では、錆を文化財と見なす姿勢が過剰であるとの指摘もある。1989年のでは、ある報告者が「dead rails の約37%は、実際にはただのメンテナンス放棄である」と発表し、会場が静まり返ったという。もっとも、この数字の算定方法は不明であり、要出典とされることが多い[7]。
社会的影響[編集]
dead rails は鉄道保存にとどまらず、都市計画、写真芸術、さらには労働運動にも影響を与えた。とりわけ】のでは、使われない引込線の上で詩の朗読会が開かれ、レールの継ぎ目を拍子木に見立てた即興演奏が流行した。
の社会地理学者アネット・K・フィールズは、dead rails が「使われないこと」に価値を与えた初期の事例であると指摘した。彼女によれば、線路の維持費として年間およそ48万ドルが投じられた地区でも、観光収入がその1.7倍に達した例があり、結果として「錆が税収を救った」とまで言われたという。なお、これは1986年の限定調査に基づく。
代表的な事例[編集]
沿いの「Pier 17 Dead Rail Zone」は、写真家の巡礼地として知られる。夜間にだけ鉄粉が湿気を吸って黒く光るため、1982年から毎年214枚のポストカードが発売されたが、実際には雨天時の発色が悪く在庫の半数が倉庫に残ったとされる。
の旧ビール輸送線では、線路脇の草地が「鉄の墓標」と呼ばれ、保存団体が草刈りのたびにレールへ白墨で年号を記す慣習が続いた。1997年にはの地域報道がこれを誤って「世界最大の屋外彫刻」と紹介し、以後しばらく観光客が増えた。
ではの臨港区画が有名で、冬季に線路へ積もる雪の厚さと錆の色を対応づける独自の「白黒指数」が考案された。1993年の市民調査では、線路1区画につき平均17.4人の写真愛好家が訪れたとされるが、調査票の半分が喫茶店の伝票に印刷されていたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Edward L. Hargreaves, "On the Civic Afterlife of Rails," Journal of Midwestern Transit Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 44-67, 1901.
- ^ Martha J. Quinn, The Civic Afterlife of Rails, Hollenbeck Press, 1899.
- ^ James R. Knox, "Static Rail Dendrometry and Rust Indexing," Transactions of the Carnegie Institute of Metallurgy, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 1937.
- ^ 北村精一『停線の文化史――死んだレールの社会学』港湾書房, 1978年.
- ^ A. K. Fields, "Urban Skeletons and Dead Rails in Postindustrial Cities," Canadian Review of Transport Geography, Vol. 5, No. 1, pp. 9-31, 1987.
- ^ 連邦交通記録局『休止軌道の保存と会計上の取扱い』内部通達第44号, 1974年.
- ^ Harold W. Tinsley, Rails That Refuse to Die, Beacon Wharf Publishing, 1984.
- ^ 井上恒夫『臨港線の幽霊学』みなと出版, 1994年.
- ^ North American Rail Preservation Bureau, Dead Rails Annual Survey 1986, Vol. 4, pp. 1-88.
- ^ L. B. Morgan, "The Rust Was Singing: A Note on Dead Rails in Buffalo," Proceedings of the American Association of Industrial Memory, Vol. 21, No. 4, pp. 201-219, 1991.
外部リンク
- North American Rail Preservation Bureau
- Journal of Midwestern Transit Studies Archive
- Urban Skeletons Project
- 港湾遺構研究ネットワーク
- Dead Rails Atlas Consortium