koji seimiya
| 氏名 | koji seimiya |
|---|---|
| ふりがな | こうじ せいみや |
| 生年月日 | 4月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | |
| 職業 | 発酵技術史研究者 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 「香りの系譜」体系化/麹温度逸話のデータ化 |
| 受賞歴 | 文化功労章、麹学術賞(ほか) |
koji seimiya(こうじ せいみや、 - )は、の発酵技術史研究者である。『香りの系譜』の編者として広く知られる[1]。
概要[編集]
koji seimiyaは、日本の発酵技術史研究者であり、特に「麹(こうじ)」が香味を支配するという考え方を、年代別の手記・酒蔵台帳・気象記録に基づき体系化した人物である。彼は研究というより記録編集者の気質が強く、麹の出来を「香りの系譜」として扱う枠組みを広めたとして知られている[1]。
seimiyaの方法は、机上の学術よりも現場の匂いに寄り添うものとして受け止められた。たとえば、の小規模蔵に残る「蒸し籠の木目」を年単位で読み解く姿勢が話題となり、結果として麹文化研究の分野で“温度と湿度の物語”を標準化したとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
seimiyaは4月17日、の塩・麹問屋「清見屋(せいみや)」の分家に生まれた。家業は酒用麹の配送であり、彼は幼少期から「匂いは距離で変わる」という台詞を聞いて育ったと伝えられている[3]。
少年期には、炭焼き窯の風向きを記した父のノートを“香りの地図”として模写したとされ、ノートには「北風で青い麹、南風で栗色の蒸し汁」という短文が残っているという。のちに彼はこの癖を研究に持ち込み、麹の状態を色ではなく「風が運ぶ時間」で表そうとした[4]。
青年期[編集]
、彼はの私塾「香料史学舎(こうりょうしがくしゃ)」に通い、麹菌の分類学ではなく、記録の読み替え術を学んだとされる。師のは、学生に対して「文献は数字より先に匂う」と教えた人物として知られている[5]。
青年期の逸話として有名なのは、の冬、彼が夜通しで蔵の入口の温度を測り続けた“1点観測”である。測定間隔は驚くべきことに3分刻みで、記録には「第47回目の測定で、麹室の壁が“微かに甘い”と感じた」といった比喩が残っていたという[6]。
活動期[編集]
に研究員としての前身機関「蔵造環境研究所」に採用されたとされる。彼は研究所で、酒蔵の麹室における“湿度カーブ”を再現する簡易装置を設計し、記録紙のサイズをわざわざ「一斤(約0.6kg)の蒸米に対して最も収まりが良い」として決めたという[7]。
、seimiyaは『香りの系譜』の第一巻を私費出版し、以後の追補版で「香りを年度で並べる」方式を提案した。彼のところに届いた依頼状の宛名は、なぜか毎回「麹の季節までに」と書かれていたとされ、彼は“季節を急がせる編集”を自負したとも言われる[8]。
戦時期には、統制下で紙の流通が不安定になったことを背景に、蔵台帳を薄い和紙へ写し替える「匂い写し制度」を広めたとされる。彼は“削られたページの匂い”すら再現する必要があると論じ、のちに研究倫理の観点で批判の対象ともなった[9]。
晩年と死去[編集]
、彼は現役を一時退き、の書庫に引きこもって索引作成に没頭したと伝えられる。索引は単なる事項名ではなく、蔵人の方言・風向き・薪の種類が織り込まれていたとされ、完成までに“合計で厳密に2,197枚のカード”を要したという(ただし資料によっては2,198枚とされる)[10]。
に活動を終えたのちも講演を続け、最終年の11月2日、で肺炎のため73歳で死去したとされる。葬儀では『香りの系譜』の更新版原稿が棺に納められたという記録がある[11]。
人物[編集]
seimiyaは几帳面で、同じ香りでも「初日」「二日目」「戻り香(もどりか)」の三段階に分けて語る癖があったとされる。本人はこれを“分類”ではなく“回想の精度”と呼び、聞き手に対して必ず比喩を要求したという[12]。
また、彼は論文よりも「蔵の声」に強い関心を持ったとされる。たとえば、の小さな蔵で、老人が「麹が泣く夜がある」と表現した逸話を、seimiyaはそのまま文章にし、さらに「泣く」を“発熱ピークが想定より12分遅れた現象”に読み替えたとして話題となった[13]。
一方で、彼の情熱は周囲を困らせることもあった。彼は自宅の茶室に湿度計を設置し、来客がコップを置く音から“粘度の推定”を試みたとされ、家人はそのたびに計測を止めるのに苦労したという[14]。
業績・作品[編集]
seimiyaの業績は、発酵技術の“再現”を、装置ではなく記録の編み直しで行う点にあったと評価されている。彼は麹に関する手記や台帳を「産地」より先に「日付」で並べ、結果として同じ米でも香りがズレる理由を見える化したとされる[15]。
主な著作として『香りの系譜』が挙げられる。第一巻ではからまでの酒蔵記録を収集し、続編では前後の“紙の不足期”に残った写し台帳を分析したという。彼の書き方は脚注が多く、「脚注の半分は匂いの語彙」と揶揄されたこともあった[16]。
ほかに、麹室の温度管理を物語形式で記述した『湯気の年輪(ねんりん)』がある。同書は、温度を数値で示すだけでなく「湯気が立つ高さを指で測った」という体験談を章立てに取り入れており、学界と蔵人の双方に読まれたとされる[17]。
後世の評価[編集]
後世の研究者の間では、seimiyaの功績は大きいとされる一方で、その方法論には疑問も呈された。賛同者は、現場の記録を丁寧に整序した点を評価し、のちの発酵史研究のデータベース化につながったと述べている[18]。
批判側は、彼が比喩を数値へ“読み替えた”ことを問題視した。たとえば『湯気の年輪』で提案された“湿度カーブの三相”は実験に基づくとされるが、実測手順が不明確な箇所があり、のちに「伝聞の精密化」との指摘があった[19]。
なお、彼の死後になってからも評価は揺れ続けた。に刊行された系の「発酵記録学」講義ノートでは、seimiyaの手法を“編集技術としては模倣可能、実験としては要検証”とまとめているという[20]。この言い回しは後年、研究者の間で定番の引用句になったとされる。
系譜・家族[編集]
seimiyaの家系は、周辺で麹の流通を担ってきたと伝わる清見屋の流れにあるとされる。父は塩荷の調整を担い、母は蔵の帳簿の筆算を担当したとされるが、当時の帳簿は戦災で失われたとされるため詳細は不明である[21]。
彼は晩年に、の造り酒屋「月光醸造」から招かれた若手蔵人と共同で索引作業を行った。小西はseimiyaの“匂い語彙の辞書”を担当し、のちに独自に「戻り香の分類」を発表したとされる[22]。
子息・親族については諸説があり、少なくとも一人は記録の筆写を手伝ったとされるが、氏名が複数の写本で表記揺れしている。たとえば『香りの系譜』第二巻の追補では「長男は九州へ去った」とだけ記されており、確認の取れる系譜は限られているという[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田島 昭衛『香りの系譜と記録編集術』麹都書房, 1961.
- ^ 山谷 敬太郎『文献は匂う:記録を読む手順』香料史学舎出版部, 1929.
- ^ M. A. Thornton「Editorial Reconstruction in Fermentation Archives」Journal of Aroma Historiography, Vol. 14, No. 2, pp. 33-58, 1954.
- ^ 中村 澄夫『湯気の年輪:温度三相の語彙化』発酵資料研究会, 第1巻, pp. 1-242, 1958.
- ^ Seimiya, Koji「三分間隔測定による入口風の推定」『蔵造環境研究所報』第7巻第3号, pp. 101-117, 1922.
- ^ 小西 眞澄『戻り香の分類と索引論』月光醸造資料刊行会, 1970.
- ^ 伊勢 康平『戦時期写し台帳の保存と倫理』東京学術叢書, pp. 77-96, 1983.
- ^ R. H. Watanabe「Humidity Curves and Narrative Data」Proceedings of the International Society for Fermentative Studies, Vol. 6, pp. 201-219, 1967.
- ^ 『香りの系譜(追補・改訂版)』清見屋蔵書、(第3刷)pp. 12-40, 1979.
- ^ 佐伯 瑠璃『発酵記録学入門』東京図書出版, 第2巻, pp. 5-28, 1991.
外部リンク
- 麹学アーカイブ
- 発酵記録学ポータル
- 香料史学舎デジタルコレクション
- 蔵造環境研究所・資料室
- 月光醸造所蔵手帳