#筑波大学は核実験をやめろ
| 名称 | #筑波大学は核実験をやめろ |
|---|---|
| 別名 | 筑波ハッシュ抗議、白衣版反実験運動 |
| 発祥 | 茨城県つくば市 |
| 初出 | 1978年9月(紙掲示) |
| 再流行 | 2011年、2020年 |
| 主な活動 | 講堂前の即席プラカード、研究室前の沈黙行進、核種名をもじった替え歌 |
| 関連組織 | 筑波大学学生自治会、臨時安全確認委員会、関東反光学連盟 |
| 主張 | 実験用語の威圧感の是正、公開説明の義務化、白衣の着用基準見直し |
| 影響 | 学内広報の文言改善、理科系ジョークの定型句化 |
#筑波大学は核実験をやめろ(つくばだいがくはかくじっけんをやめろ)は、のを発端として広まった、学内実験への抗議と風刺を兼ねたハッシュタグ運動である。表向きは放射線安全管理の見直しを求める標語として知られるが、実際には1970年代末の「学生自治会による大規模な白衣デモ」から派生したとされる[1]。
概要[編集]
#筑波大学は核実験をやめろは、の一部研究棟で行われていた高エネルギー実験の呼称が、学生側に「必要以上に物騒である」と受け止められたことから生まれた標語である。のちに上で再編集され、学術機関に対する風刺ハッシュタグとして定着したとされる。
この運動は、実際の核兵器開発や軍事実験を指すものではなく、主としてなどの実験説明が市民感覚からかけ離れていたことへの反発である、と整理されることが多い。ただし、初期のビラには「実験室が地下で光る」「夜になると校舎の窓が青白い」などの誇張表現が混じっており、当時の新聞は半ば怪談記事として扱った[2]。
成立経緯[編集]
1970年代の学内語彙改革[編集]
起源は秋、の整備が進む中で、学生自治会が配布した「専門用語の平易化を求める申し入れ」にあるとされる。とくに関連の説明会で「核」「臨界」「照射」といった語が連続して使用されたことが、演説の一部を過激化させた。自治会記録によれば、出席者137名のうち84名が「研究は理解できるが、掲示が怖い」と回答したという[3]。
白衣デモとスローガンの固定化[編集]
には、前で白衣を裏返しに着た学生たちが、段ボール製の「非核」模型を掲げて行進した。このとき先頭集団が唱和した文句が「筑波大学は核実験をやめろ」であり、短く、命令形で、しかも固有名詞が入るという異様な響きから、学内外で急速に拡散した。なお、先頭を歩いたという学生が考案したという説もあるが、本人は後年「現場で誰かが勝手に言い出した」と証言している[4]。
歴史[編集]
紙媒体による第一次拡散[編集]
頃には、学内掲示板に貼られた漫画調の風刺ポスターが近隣のまで持ち出され、喫茶店や下宿で複製された。ポスターには、研究員風の人物が「今夜も試料が臨界です」と言いながら湯飲みを持つ絵が描かれ、これが「筑波冗談」の原型になったとみられる。配布枚数は初版600枚、再版1200枚、最終的に謎の増刷3000枚と記録されているが、印刷所の請求書が一部欠損しており、実数は不明である[5]。
テレビ報道と誤解の連鎖[編集]
には地方局の夕方番組がこの標語を取り上げ、テロップで「筑波大学で核実験か」と出したことから一時的な騒ぎになった。翌日、大学側は「実験はしているが、核実験ではない」と文書で説明したが、かえって視聴者の不安を煽ったとされる。ここで初めて、抗議そのものよりも見出しの強さが独り歩きする現象が確認されたという評価がある[6]。
ネットミーム化[編集]
の東日本大震災後、学内安全への関心が高まるなかで、当該ハッシュタグが上に再登場した。再流行のきっかけは、卒業生が投稿した「研究室の説明書が全部こわい」という一文であり、これに「#筑波大学は核実験をやめろ」が引用返信として付されたことで、半ば定型句のように使われるようになった。以後は、厳しすぎる研究指導や過度に大げさな実験名への皮肉としても使われるようになり、学術系ミームの代表例の一つとされる[7]。
主張と実態[編集]
この運動の中心的主張は、実験の危険性そのものではなく、危険を説明する言い回しが市民的な理解を超えていた点にある。たとえば当時の学内文書では、同じ操作を「中性子束の調整」と書くか「見えない熱いものを均す」と書くかで、受け手の印象が大きく変わることが問題視された。
また、抗議側は一貫して「核」という語の使用停止を求めたわけではなく、「核のように聞こえる研究表現」の削減を求めていたとされる。これに対し、理工系の教員たちは「専門用語を削れば学問が浅くなる」と反発したが、後年の学内アンケートでは、説明会資料の平易化に賛成する教員が62.4%を占めたという。もっとも、この数値はの手集計であり、要出典の対象になりやすい。
社会的影響[編集]
標語の流行によって、内の大学広報は「危険そうに見える研究」の説明方法を見直し、実験室の掲示に比喩を避けるガイドラインを導入した。とくにの通知文は、従来の硬い文体から「学生にも読める日本語」へと改稿され、学内では『やけにやさしいお知らせ』として話題になった。
さらに、学園祭では「核」という字を含む出し物名が敬遠されるようになり、代わりに「超高温」「極限」「白い霧」など、別種の不穏さを漂わせる名称が増えた。結果として、抗議は危険語の排除ではなく、危険語の表現技法を洗練させる方向へ作用した、とする研究もある[8]。
批判と論争[編集]
批判の一つは、この運動が学術研究への過剰な印象操作を助長したというものである。とくに後半、他大学の広報担当者が「筑波式の言い換え」を真似し、内容が実態よりやたらと穏当な資料を作るようになったため、逆に事故時の説明が遅れたとの指摘がある。
一方で、支持者は「専門家が分かる言葉と、社会が安心する言葉は違う」と反論した。なお、に開かれた公開シンポジウムでは、ある教授が「では“放射”を“おひさまの余韻”と呼ぶのか」と皮肉を述べ、会場が10秒ほど静まり返った後に拍手が起きたと記録されている。この逸話は何度も引用されるが、当日の議事録には拍手の回数まで書かれているため、かえって信憑性が高いとされる[9]。
文化的受容[編集]
以降、この標語は抗議運動としてよりも、研究室文化をからかう定型表現として生き残っている。修士課程の学生が、先輩の厳しすぎる実験指導に対して「#筑波大学は核実験をやめろ」と書き込む例が増え、最終的には全国の理系学生に共有される俗語になった。
また、の一部では、難解な会議資料を見たときに「筑波大学案件」と呼ぶ慣用が成立したとされる。これは本来の文脈から逸脱しているが、言い回しの重さと研究機関の権威が結びついた結果として、半ば独立した文化記号になったのである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯和也『学術機関における標語の拡散と変形』東洋社会言語研究 Vol.18, No.2, pp. 41-67, 1991.
- ^ Margaret L. Henson, “Campus Slogans and the Aesthetics of Alarm,” Journal of Institutional Studies, Vol. 7, No. 4, pp. 201-229, 1998.
- ^ 渡会真一郎『白衣デモの記憶——筑波学生運動小史』関東教育文化出版, 2005.
- ^ 小林さゆり「掲示板文化と実験室の比喩」『社会記号論紀要』第12巻第1号, pp. 88-104, 2002.
- ^ H. J. Mercer, “When ‘Nuclear’ Means ‘Too Much’: A Case Study from Tsukuba,” Pacific Journal of Public Language, Vol. 11, No. 1, pp. 15-39, 2001.
- ^ 内藤俊介「筑波研究学園都市における安全語彙の変遷」『茨城地域史研究』第9号, pp. 55-73, 2010.
- ^ Yoko S. Tanabe, “Hashtags Before Hashtags: Pre-Digital Protest Forms in Japan,” Media & Memory Review, Vol. 3, No. 2, pp. 119-146, 2014.
- ^ 臨時安全確認委員会編『大学広報文のやさしい日本語化に関する覚書』学内資料集, 1984.
- ^ 松浦哲也『極限語彙の社会学』青嵐書房, 2017.
- ^ 田所みのり「筑波大学ハッシュタグ騒動の再流行」『ネット文化研究』第6巻第3号, pp. 33-52, 2021.
外部リンク
- 筑波学園言説アーカイブ
- 関東反光学連盟 史料室
- 白衣デモ資料館
- つくば風刺語彙年表
- 臨時安全確認委員会 参考文書庫