あるパブテスマ主義者の湯治録
| 原題 | あるパブテスマ主義者の湯治録 |
|---|---|
| 著者 | 北条 清澄 |
| 成立 | 1897年頃 |
| 言語 | 日本語 |
| ジャンル | 修養記・宗教随筆 |
| 題材 | 洗礼、温泉療養、禁欲運動 |
| 刊行形態 | 自費謄写本、のち写本集成 |
| 影響 | 湯治院の礼拝作法に影響を与えたとされる |
| 保存先 | 長野県松本市の旧私文書庫 |
『あるパブテスマ主義者の湯治録』(あるパブテスマしゅぎしゃのとうじろく)は、のにおいて、の儀礼との実践を同一の修養体系として記録したとされる私家版の行状記である。のちにの教理史を語る際の基本文献として扱われた[1]。
概要[編集]
『あるパブテスマ主義者の湯治録』は、の地方伝道者であったが、のでの療養生活を記したとされる記録集である。本人は派の教義を土台にしつつ、入湯を「再生の反復儀礼」とみなし、毎朝の湯を洗礼になぞらえたことで知られている[1]。
同書は単なる闘病記ではなく、温泉宿の湯桶、洗い場の温度、共同浴場の湯口の角度にまで神学的意味を読み込んだ点で特異である。また、の衛生学講義録に似た数表が混入しており、後年の研究者はこれを「信仰と統計の異常な混淆」と評した[2]。
成立[編集]
成立はからのあいだと推定されている。北条は肺疾患の静養のため、のちにへ移り、宿帳の裏紙に日々の体温と聖句を並記したとされる。現存する本文では、1日につき平均の入浴が記録され、最も多い日はに達している[3]。
写本の序文によれば、彼は当初、温泉を「肉体の補修」にすぎないと見なしていたが、の老女・から「湯は沈めるものではなく、受け直すものだ」と諭され、儀礼化に傾いたという。ただし、この人物は別史料に現れず、実在を疑う意見も根強い。
内容[編集]
洗礼と入湯の比喩[編集]
本文の中心をなすのは、洗礼と入湯を連続した行為として扱う比喩である。北条は、最初の一浸を「旧人の剥離」、二度目を「共同体への再加入」、三度目を「沈黙の確認」と呼び、これを風の文体で記した[4]。このため、後世の読者のあいだでは「三度湯」という俗称が生まれた。
また、彼は浴槽の深さを以上とすることを強く勧め、浅い湯は信仰を半分しか通さないと断じた。なお、湯の中での沈黙時間を以上置くべきだという箇所は、晩年の加筆と見られている。
温泉礼拝の手順[編集]
記録の後半には、共同浴場での礼拝手順が細かく列挙される。まず脱衣前にを1節唱え、次に湯口へ向かって3度会釈し、その後、肩まで浸かってからを小声で反復するというものである。信徒が増えた時期には、宿の番台を改造して簡易の説教台にしたとされ、の停車時間に合わせて礼拝が組まれたという記述まである。
この手順は、衛生上の観点からに注意を受けたとされるが、同時に地域の旅館組合からは「湯の回転率がよくなる」と歓迎された。記述の一部には旅館名が実名で書かれているが、いずれも現在の案内記録とは一致しない。
数表と奇行[編集]
本書の奇妙さは、終盤の付録にある。そこでは、入浴回数と霊的な「透明度」を対応させた表があり、では「曇天」、では「薄明」、では「ほぼ天啓」と分類されている。さらに、湯に浸かった後の発汗量を「悔い改めの深さ」と同義に扱い、を「小さな救済」と表現した箇所は有名である。
また、彼はの噴気孔を「神学的ボイラー」と呼び、冬季にそこへ向かって祈祷したとする記述を残した。これについては地元の案内史料に痕跡がなく、編集者の誇張ではないかとする説がある。
受容[編集]
当初、本書はの少数のバプテスト系集会で回覧されたにすぎなかったが、頃から温泉地の健康志向と結びつき、修養書として静かな流通を見せた。特にとでは、湯治客が「北条式三分浸法」を真似することがあったとされる[5]。
一方で、正統派の教職者からは、洗礼を湯の効能に還元するものだとして批判された。また、衛生学者の一部は、長湯の奨励がむしろ疲労を増すと指摘したが、信奉者は「疲労こそ古い肉体の脱落である」と反論した。この応酬が、のちの設立の伏線になったとする説がある。
歴史[編集]
写本の拡散[編集]
原本はの火災で半焼したとされるが、、、に散った三系統の写本が残った。各系統は本文の順序が微妙に異なり、ある版では「入浴の前に賛美歌を歌う」、別の版では「歌ってはならない」と逆転している。研究者はこれを、北条の弟子たちがそれぞれの地域風土に合わせて改変した結果とみている[6]。
とくに神戸本には、港湾労働者向けの簡略版が付されており、1回の入湯を、説教をに制限する実務的な指示が見える。ここから、本書が単なる奇書ではなく、実際の団体運営に使われた可能性が指摘されている。
研究史[編集]
になると、の書誌調査で断片的に再発見され、にが『湯治と洗礼の比較民俗誌』で初めて学術的に位置づけた。佐々木は本書を「宗教身体論の地方変種」と呼んだが、同時に「最後の一章だけ文章が急に上手すぎる」と述べ、後世の加筆を疑っている[7]。
には、デジタル化された画像版が公開され、注目は主に付録の数表に集まった。とくに、入浴前後の祈りの回数と降雨量を照合したページは、統計史研究でもしばしば引用される。ただし、相関の計算方法は本文中に書かれていない。
社会的影響[編集]
本書の直接的影響として最もよく挙げられるのは、との一部温泉宿で「静粛時間」が導入されたことである。午後からの入浴を宗教的沈潜の時間とする慣行は、北条の写本を模した宿札から広まったとされる[8]。
また、湯治と信仰を結ぶ思想は、やがてとを横断する「浸礼療法」へ発展した。これにより、当時の新聞は「温泉に入ると信仰が深まるのか、信仰が深いから長く浸かるのか」という半ば皮肉な論争を報じた。なお、の地方講演録に本書の題名が引用された例があるが、文脈はほぼ否定的である。
批判と論争[編集]
最大の批判は、北条が温泉の効用を過度に神秘化し、湯の成分分析を信仰語彙で上書きした点に向けられた。とりわけを「悔い改めの匂い」と表現した一節は、の技師らから「比喩としても過剰」と評されている[9]。
また、本文中に出てくるの逸話が、草津の口承と一致しないことから、後代の編集者が旅館広告を流用したのではないかという説がある。一方で、信奉者側は「一致しないのは口承が先に変質したため」と主張し、現在でも地方史研究者のあいだで静かな論争が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐々木栄一『湯治と洗礼の比較民俗誌』民俗学研究会, 1958, pp. 41-68.
- ^ 北条清澄『あるパブテスマ主義者の湯治録』私家謄写本, 1899.
- ^ Margaret A. Thornton, “Hydro-Baptism and Rural Piety in Meiji Japan,” Journal of East Asian Ritual Studies, Vol. 12, No. 3, 1977, pp. 201-229.
- ^ 渡辺精一郎『温泉礼拝の成立』信仰史叢書刊行会, 1964, pp. 5-33.
- ^ Hiroshi Kanda, “The Three-Immersion Formula,” Bulletin of Comparative Theology, Vol. 8, No. 1, 1989, pp. 77-94.
- ^ 『長野県近代宗教資料集成 第7巻』長野県史料刊行会, 2001, pp. 112-146.
- ^ 三浦きぬ『草津湯宿覚え書』草津温泉旅館組合資料室, 1901.
- ^ Eleanor V. Pike, “Ammendments in the Bath: Scribal Variants of a Japanese Devotional Manual,” Review of Fabricated Philology, Vol. 4, No. 2, 2011, pp. 55-81.
- ^ 『浸礼療法の実務と倫理』日本湯治衛生協会, 1932, pp. 9-24.
- ^ 田口由紀『湯口の角度と信仰の深さ』地方文化評論社, 1984, pp. 130-158.
外部リンク
- 国立湯治文庫デジタルアーカイブ
- 別所温泉宗教民俗研究会
- 松本旧私文書庫目録
- 日本浸礼療法学会
- 地方宗教史オンライン