うんちの大名行列
| 種別 | 奇祭(民俗行列) |
|---|---|
| 発祥とされる時代 | 17世紀後半 |
| 発祥地(伝承) | 近郊(深川水門周辺) |
| 主な目的(通説) | 厄除け・衛生観念の啓発 |
| 中心モチーフ | 香り袋・仮面・「糞便御触書」 |
| 運営組織(伝承) | 町方の衛生組合と神輿方 |
| 関連語 | うんち大名、便番(べんばん) |
うんちの大名行列(うんちのだいみょうぎょうれつ)は、期に発達したとされる「糞便」をめぐる奇祭・民俗芸能である。災厄祓いと市中の衛生観念を、風刺を交えた行列形式で祝ったものと説明されている[1]。
概要[編集]
は、江戸の町人文化の中で成立したとされる行列行事であり、見物客の目の前で「厄」の所在を芝居仕立てで示し、最後に清めの動作へつなげる構成をとると説明されている。形式としては大名行列を模すため、槍持ちや太鼓、笠鉾などが登場しつつ、肝心の「厄」役には不思議な道具が用いられたとされる[1]。
通説では、この行列は単なる奇抜さではなく、都市の排泄衛生に対する住民の関心を、笑いと恐怖の境界で引き出す装置として機能したとされる。実際、当時の江戸は火事と水害が交互に訪れ、下水が追いつかない場面も多かったことから、町方では「臭いものを放置しない」規範を、威勢のよい儀式に結びつけて広めたという説がある[2]。
なお、呼称の中の「うんち」は、現代的な生物学の語感とは一致しない意味で使われていた可能性が指摘される。すなわち「禁忌としての厄」「封じられるべき不浄」の象徴として捉えられた、とする立場がある。このため、行列の当日は必ず「御触書(おふれがき)」が読み上げられ、町内の秩序が“便”の話題を借りて維持されたと考えられている[3]。
名称と構造[編集]
行列の構造は、(1)到着、(2)厄示し、(3)御触書朗読、(4)香り袋の配布、(5)清めの擬態、(6)解散の順で組まれたとされる。特に(3)の朗読は、のちにと呼ばれる役が担当したという伝承が残っている。便番は、単なる当番ではなく、誰がどの家から「厄」を連想させる噂を出したかを“採点”する係だったとされ、採点表は紙幅にして七尺(約2.1m)ほどになったという奇妙な記録がある[4]。
装束には、通称で「うんち大名」の文字が入った朱色の陣羽織が用いられたとされる。だが、羽織の裏側には実際の図案として、田の字ではなく“三つ巴”を崩した紋があしらわれた例が伝わる。これは「裏で結び目を作る」=「厄の出口を塞ぐ」という象徴操作だったとされ、見物客には“意味がわからないのに怖い”ことが肝になったと語られている[5]。
また香り袋は必須とされ、袋の口を結ぶ回数は家ごとに違うとされた。深川水門周辺では「口結びは九回が標準、火事が多い年は十一回」、浅草側では「七回でよい」とする地域差が記録されている[6]。数の整合性を重視する編集者が後世の書き足しを行った可能性が高い一方、当時の人々が“数で安心する”傾向を持っていたのは自然であるとも指摘されている。
歴史[編集]
起源伝承:深川の水門と「便の裁判」[編集]
最初期の起源として語られるのは、水門の工事と水害対策が絡む伝承である。17世紀後半、潮が逆流して汚れが溜まり、町の通りが“匂いで裁かれる”状態になったため、町方の有志が「便の裁判」を芝居化したのが始まりとされる。裁判の判定役は僧侶ではなく、町医者の助手であったという点が特徴であり、彼は病の広がりを“臭気の移動”として説明したとされる[7]。
伝承によれば、初回の行列では“御触書”の原稿が42通用意され、当日だけで見物人に配られたとされる。その内訳は「転居者向け」12通、「子守役向け」9通、「年寄り向け」11通、「酒屋向け」10通で、なぜか“酒屋だけが一通多い”と後世の写本に記された。酒屋が匂いの噂の発火点だったのではないか、という推測が付されている[8]。
発展:上方文化との混線と便番制度[編集]
18世紀に入ると、上方の舞台芸能の技法が江戸に取り込まれ、行列は「朗読の芝居」として洗練されたとされる。特に(江戸の繁華街の通称とされる)において、便番が“採点”を始めたことで、行列は単なる奇祭から“町の運用”へ近づいたという。便番は、御触書朗読の際に、個々の家の“匂いを連想させる評判”を読み上げ、拍子木で判定する役だったとされる[9]。
さらに、この行事はの儀礼研究者(肩書不詳)により「衛生の教化として流用可能」と見なされ、一定条件のもとで許可が出たとする説がある。ただし同時期に、行列が過激化し“笑いが攻撃に変わる”問題が発生した。そこで、便番には「特定の家を名指ししない条項」が設けられ、代わりに“色札”で分類する方式へ移行したとされる。この方式により、札の色は全11色、色札は年に一度の染物屋で再製されたと記録されている[10]。
衰退と再演:明治の衛生政策との摩擦[編集]
明治期には近代的な衛生行政が整えられ、排泄物の管理は法令と技術の問題として論じられるようになった。これにより、行列の「象徴としての厄」が、実務の衛生と噛み合わなくなったとされる。とりわけ、再演が企図された1891年頃に、自治体が「ふざけた衛生啓発」と解釈し、許可が下りない事例があったという[11]。
それでも行列が細々と再演されたのは、地域の子どもが“怖い話”として継承していたためだとする見方がある。再演では、うんち大名が持つはずの香り袋が、実際には“干し草の袋”として代替された記録が残っている。この差し替えは、役者が匂いを本気で恐れたためだとされるが、別の資料では「衛生当局の監視を避けるため」と書かれており、どちらが正しいかは不明である[12]。
社会的影響と文化的位置づけ[編集]
うんちの大名行列は、都市型の衛生意識が「規範」から「物語」に変換される過程を示す例として語られることがある。御触書朗読には、単に注意喚起だけでなく、町内の相互監視を円滑にする仕掛けがあったとされる。つまり、人々が互いの生活を直接裁かないよう“笑いの距離”を取らせ、結果として秩序が保たれた可能性がある[13]。
一方で、当時の流行語として「便名(べんな)」が広がったとも言われる。これは本名の代わりに、どの家がどの種類の“厄”を連想されるかを示すあだ名である。便名は言い換えでありながら、噂が独り歩きすると実害に繋がるため、行事を通じて“安全な言い換え”の型を学ばせたのではないか、とする解釈がある[14]。
また、行列の太鼓のリズムは「三拍子で始まり、最後は七拍子で終わる」と説明されることがある。音楽学的にはありふれているが、当時の人々には“時間の区切り”の教育として機能したとされ、清めの擬態(手順の模倣)と同期させたと考えられている[15]。ただし、七拍子への変化は、観衆の飽きが来る頃に合わせた“観客統制”だった可能性も指摘される。
批判と論争[編集]
批判の焦点は、笑いが差別や名誉毀損へ転じる危険性にあるとされる。実際、便番制度が強まった時期には、色札の選定が恣意的だと噂され、町の中で小競り合いが起きたと記録されることがある[16]。とくに「特定の職業だけが悪い色になる」という不満が出たとされ、酒屋が“赤系統”に分類されがちだったことが槍玉に挙がったとされる。
ただし反論もあり、行列は本質的に“名指ししない”ための工夫だったとされる。御触書朗読の際、便番は「匂いの記述」を「天気の比喩」に変換する技術を用いたとされる。たとえば「黒ずみ」は“雨の後の道”、「強烈さ」は“風の癖”などへ置き換えることで、直接的な攻撃を避けたとする説明がある[17]。
それでも、近代の衛生政策と衝突した時期には、行列が“本物の汚れ”を連想させる危険があるとして、教育者からの否定的な見解が出た。新聞の投書欄に「奇術のようで笑えるが、子どもの理解が追いつかない」といった趣旨の文が掲載されたとされるが、原文の所在が確認できないという指摘もある[18]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『隠微な行列:江戸奇祭の裏台本』吉川文庫, 1897.
- ^ Marjorie A. Thornton『Urban Hygiene as Theater in Tokugawa Japan』Oxford University Press, 1989.
- ^ 鈴木礼太『町の御触書と民衆の読み方(続編)』東京堂書房, 1903.
- ^ Kōhei Nakahara『The Aesthetics of Public Smell: Edo Street Rituals』Vol. 12, 第3号, Journal of East Asian Folk Practices, 2007.
- ^ 伊東由紀『便番制度の比較史』講談社学術文庫, 2011.
- ^ Edmund R. Caldwell『Ritualized Inspection: A Comparative Note』Vol. 4, No. 1, Anthropology of Performance, 1976.
- ^ 小林鉄之助『笑いの衛生学—太鼓と清めの工程』青雲社, 1926.
- ^ 吉田昌弘『深川水門と水害伝承の編年』日本歴史資料館, 1934.
- ^ 中村慎一『色札の運用規則と秩序形成』第2巻第1号, 明治史論叢, 1955.
- ^ (誤植の多い版)『うんち大名行列研究報告』便秘科学協会, pp. 17-19, 1962.
外部リンク
- 深川水門資料アーカイブ
- 江戸奇祭研究会デジタル文庫
- 便番の色札コレクション
- 御触書朗読アーカイブ
- 神田染物工房の系譜