うんちー帝国
| 正式名称 | うんちー帝国 |
|---|---|
| 成立 | 1894年ごろ |
| 崩壊 | 1931年 |
| 首都 | グラウフェン港 |
| 政体 | 選挙制君主制 |
| 公用語 | 標準うんち語、帝室ドイツ語 |
| 宗教 | 整腸礼拝、海塩主義 |
| 通貨 | ウンゲル |
| 国鳥 | セキレイ |
うんちー帝国(うんちーていこく、英: Unchee Empire)は、末ので成立したとされる、衛生政策と排泄文化を国家規模で統合した君主制国家である。のちにとの発展により、奇妙な繁栄をみたとされる[1]。
概要[編集]
うんちー帝国は、沿岸の自由港都市群を束ねる形で成立したとされる国家である。一般には滑稽な名称で知られるが、当時の公文書では「腸内清浄化連合帝国」と表記されることもあった[2]。
成立の背景には、とを結ぶ港湾網で繰り返された赤痢流行があり、これを抑えるために検疫官たちが排泄物の回収・再資源化を国家制度へ組み込んだとされる。なお、国名の「うんちー」は、港湾税関の書式欄に誤って印字された控えめな愛称がそのまま定着したという説が有力である[3]。
帝国は一見すると異様であるが、肥料の自給率向上、街路の衛生改善、下水処理技術の標準化など、当時としては先進的な面を持っていたと評価される。一方で、儀礼化しすぎた行政手続きのため、便器の型番ひとつにの承認が必要だったとも伝えられている。
成立の経緯[編集]
帝国の起源は、の小港で行われた「臨時汚物管理会議」に求められる。会議にはの、港務長の、修道院出身の排水技師らが参加し、週ごとの排泄物処理量を税収に転換する案を採択したとされる[4]。
この制度は当初、検疫費用を賄うための暫定策にすぎなかったが、に発生した「三日間無臭化成功事件」を契機に政治的正当性を得た。無臭化に成功した区域では地価が12%上昇し、住民の税負担が一時的に軽減されたことから、周辺都市が相次いで加盟したのである。
には帝室が設置され、初代皇帝には元下水試験所所長のが推戴された。彼は即位演説で「清潔とは、国家が尊厳を保つ最も安価な方法である」と述べたと伝えられるが、原稿の末尾に便箋の汚れが残っていたため、後世では象徴的な逸話として扱われている。
制度[編集]
排泄税と再資源化[編集]
うんちー帝国の中心政策は、各家庭・旅館・軍艦に課された「排泄税」である。これは量に応じて徴収されるのではなく、提出先の容器規格に基づいて税率が変動する仕組みで、標準便槽を使用すると税率が0.8%軽減された[5]。
回収物は沿岸の乾燥炉で処理され、肥料、火薬の安定剤、紙漉き用の糊原料に再利用された。とくに周辺の農園では、帝国製肥料による麦の収量が1ヘクタールあたり平均3.4袋増えたとされるが、統計の一部は官製宣伝である可能性が指摘されている。
便宜主義的官僚制[編集]
帝国官僚は、文書の端に丸印をつけるだけで承認が進む「円環式決裁」を採用していた。これにより、通常なら6週間かかる港湾改修が3日で通過する一方、反対意見も同じく3日で消えるという問題があった。
また、の内部には「静粛班」と呼ばれる部署があり、会議中に腹鳴りが起きた者は記録から除外されることがあった。これは機密保持のためと説明されたが、実際には会議時間の短縮を優先したためである。
帝室儀礼[編集]
戴冠式では、皇帝が銀製の匙を用いて「第一回整腸宣言」を朗読するのが慣例であった。式典はの外交団にも公開され、各国報道はこれを「不思議なほど整然とした滑稽劇」と報じた。
なお、式典の締めくくりには国歌『朝の腸線』が演奏されたが、演奏時間が42分に及ぶため、参列者の半数が途中で席を外したという記録が残る。
歴史[編集]
拡張期[編集]
からにかけて、帝国は沿岸の小都市を併合し、最盛期には人口約740万人に達したとされる。特にの造船所では、船員向け携帯便器「ポケット・ルーター」が大量生産され、これが遠洋航海の衛生革命を支えた。
この時期、帝国はの一部農業協同組合とも協力し、乾燥便の国際輸出を開始した。輸出書類の品名欄には「peat-like organic cake」と記され、外国人税関吏がそれを泥炭と誤認したことが販路拡大の一因になったという。
文化運動[編集]
帝国では「腸の自律」を掲げる前衛芸術が流行し、の画廊では便器をモチーフにした抽象画が高値で取引された。詩人は、五行詩の各行を便意の段階に対応させる形式を発明し、学界では一時的に注目された[6]。
また、子ども向け教育番組『ぼくたちの下水道』は、で週1回放送され、平均視聴率18.2%を記録した。内容は真面目であったが、毎回最後に司会者が「今日の一滴は明日の国家」と言うため、後年の回顧録では過剰に印象的な番組として語られている。
衰退と崩壊[編集]
以降、国際市場で化学肥料が普及すると、帝国の再資源化経済は急速に競争力を失った。さらにの不況で港湾税収が落ち込み、各地の自治都市は相互に責任を押し付け合うようになった。
最終的に、首都グラウフェン港で開催された「最後の静かな議会」が決裂し、皇帝は退位した。退位文書には「本帝国は、あまりに立派に臭わなくなったがゆえに、もはや国家としての個性を失った」と記されていたとされるが、真偽は定かでない。
社会的影響[編集]
うんちー帝国は、その奇矯な名称ゆえに揶揄されることが多いが、衛生行政の近代化に与えた影響は小さくない。後のやの港湾都市では、帝国式の容器規格を参考にした下水回収制度が導入されたとされる。
また、帝国の公衆便所は治安維持の拠点としても機能し、犯罪発生率を17%低下させたという報告が残る。ただし、この数値は「利用者が長居した場合に警官が暇になる」効果を含んでいる可能性がある[7]。
一方で、排泄税への反発から「自然排便権」を掲げる地下運動も発生した。運動家たちはの酒場で秘密集会を開き、紙製の王冠を燃やして抗議したが、会場の都合で翌週には自主的に清掃協定へ署名している。
批判と論争[編集]
帝国史の研究では、そもそもうんちー帝国が一つの国家であったのか、あるいは複数の港湾都市による衛生同盟に後世の脚色が加わったのかが争点となっている。特ににのが発表した論文は、帝室印章の形状が時期によって微妙に異なることを示し、統一国家説に疑義を投げかけた[8]。
また、帝国の政策が「実用的な衛生改革」であったのか「排泄物を神聖視する奇祭」であったのかについても見解が分かれる。近年は、両者の中間にある「官僚が本気でやりすぎた結果、宗教めいて見えた」という解釈が有力である。
なお、一部の地方史料には、帝国の公式文書に「うんち」という語が出るたびに検閲官が赤面して押印を遅らせた記録があり、これが行政停滞の一因だったとする説もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Emil Vogel『Die Verwaltungsreform der Unchee』Nordsee Verlag, 1908, pp. 14-39.
- ^ マルタ・リューデケ「帝国下水網の乾燥炉技術」『港湾衛生学雑誌』第12巻第3号, 1911, pp. 201-233.
- ^ Johann Beck, “Imperial Seals and Sanitary Sovereignty,” Journal of Baltic Oddities, Vol. 7, No. 2, 1978, pp. 55-88.
- ^ フリードリヒ一世・ゲルバー『整腸宣言集』帝室印刷局, 1903.
- ^ K. M. Eberhard, “The Uncheean Fertilizer Boom and Its Maritime Consequences,” The Scandinavian Review of Applied History, Vol. 19, No. 4, 1934, pp. 401-427.
- ^ エルンスト・ヴァルター『下水と国家のはざまで』港都出版会, 1922.
- ^ Helmut Krämer, “Civic Latrines as Security Nodes,” European Journal of Civic Infrastructure, Vol. 5, No. 1, 1926, pp. 1-29.
- ^ 渡辺精一郎『世界衛生史における辺境港湾の役割』東洋衛生協会, 1964, pp. 77-104.
- ^ Charlotte Nymann, “On the Curious Taxonomy of Uncheean Waste,” Copenhagen Studies in Municipal Policy, Vol. 3, No. 5, 1959, pp. 9-21.
- ^ 『うんちー帝国年鑑 1930年版』帝国統計院, 1930.
外部リンク
- 帝国衛生史アーカイブ
- グラウフェン港旧資料室
- バルト海港湾行政研究会
- 整腸文化博物館
- うんちー帝国史料デジタル庫